世の中にはマニアと呼ばれる人種が存在する。
毎日映画ばかり見ている映画マニア、愛読書が競馬新聞のギャンブルマニア、登場人物の名前をすべて覚えるアニメマニア、数え上げたら切りがない。しかし、どれも明るいイメージは持てない。どこかの暗い部屋で一人で楽しんでいる。そんな想像が頭をよぎる。
そんなマニアの心理はいったいどういうものだろうか。
私は特に、ある特定のものを集めたがる収集マニアの心理というものが興味深いと感じる。
一つ手に入れたらもう一つ、もう一つ手に入れたらさらにもう一つとその欲望には終点がない。さらに言えば、そのような人は欲しいものを何がなんでも手に入れようとする場合が多い。どんな犠牲を払っても、自分の目的を果たそうとする。終点がない欲望はどこまでも続き、ときには自分の身をも滅ぼしてしまうことすらある。それが収集マニアの狂人的な部分だ。
欲しいものを見た時にそれを獲得しようとするのは意図の問題ではなく、反射の問題であるようだ。欲しくなるのは『モノ』があるせいなのだ。だから自分が欲しがっているのではなく、『モノ』の方が欲しがらせているように感じられる。だから、『モノ』を見ても反射しないのは自然に反する行為である。『モノ』が自分の心を引きつける力。これに勝つことはできない。誰も見たことがない、幻の『モノ』を味わい、手に入れたい。人に狂人と呼ばれようとも。
これが私の考える収集マニアであり、かくいう私もその一人だ。
僕、菊地栄一は工学部の生物化学科に籍を置くが、これを一つの学科としている大学は少ない。
生物体の構成物質および生物体内での化学反応を解明して、生命現象を研究する学問なのだが、簡単に言えば、どうやったらうまくダイエットできるかとか食べた物がどう変化して排泄されていくかといったことを考える学問だと思ってもらったらいい。
「昨日のニュース見た? また出たらしいよ」
同じ学科の村田道夫が休み時間に話しかけてきた。色白の肌に不精髭を生やした男だ。片側が跳ね上がった寝癖を気にもしてない。とても同い年には見えないような風貌だ。髪を整え、髭をきちんと剃ったら意外にいけるのにもったいない。
「出たって何が?」
「そりゃ、決まってるだろ、手首切り落とし犯。通称ハンドカッターだよ」
その名前を聞いてどきりとした。
「今話題のか? 連続殺人事件として捜査されているやつだろ。男性女性を問わず、殺しまくってるやつだ。確か、もう十件近いんじゃなかったっけ?」
「そうそう、昨日の犯行で十三件目らしい」
「事件場所はこの近くが多いらしいから気を付けないとな」
死体はほとんどがこの大学のある町内で発見されているため、夜に出かける人も少なくなっている。
「だけど、どんな人をターゲットにしてるか分かってないから、自分が狙われやすいのかどうかもわからないよね。女性だけを狙うとか、子供だけを狙うとかじゃなくて、若い女性から、年配の男性までその犯行に傾向は見られないそうだから」
「そうだったな。殺しは背中からナイフか何かでぐさり、あとは自分がやったってことを示すかのように手首だけを切り落とす。しかも、その手首は現場に残さない。見つかってないってことは、自分で持って帰っているのだろうね」
持ち帰っているなんて考えるだけでも恐ろしい。殺した人間の一部と一緒にいるなんてそいつの神経はどうかしている。もしかして、そいつは手首マニアで手首を収集して楽しんでいるのだろうか? それなら、性別、年齢を問わずに殺害していっているということの理由になる。
「動機は一切不明。恐ろしい事件だよ。そんなやつがこの近くに住んでいると思うと夜中にうかつにコンビニにもいけないよね」
コンビに弁当好きの村田が口惜しそうに言った。
「手首か」
そう言って自分の左手首に視線を落とした。それを見て村田が、
「菊地の手首は細くて女性みたいに綺麗だからハンドカッターに狙われやすいんじゃない?」
と冗談っぽい口調で言って軽く笑った。
「はは、言えてる」
「それにしても、今日もいい時計はめてるなぁ。どこのメーカー?」
僕の左手首に輝いた機械が目に入って訊いてきた。
「これは、ジャックマイヨール一九九八 限定モデルだよ」
といって僕は時計が見えるように腕を曲げた。フェイスが光を反射して、一瞬村田の顔を照らした。
村田は、日替わりではめてくる僕の時計に興味を持っていて、毎日どんな腕時計か聞いてくる。それを聞いてどうするのだとも思うが、聞かれること自体には悪い気はしないので理解できる範囲で細かく教えてあげている。
「この 九十八年度モデルは、シーマスター百二十mのクロノメーター・バージョンがベースとなっていて、これに深いグリーンの文字盤が装着されているんだけど、これが美しい。見えるだろ?」
僕は得意げに村田の顔に近づけた。
「うん」
村田の視線が時計に集中して、今にも食いつきそうだ。
「この中央部には、マイヨール氏が愛していたイルカたちのジャンプする姿がシルエットとなって描かれているんだ。この図柄がまた感動的だろ。製造数は紳士用が 四千五百本、婦人用が 二千五百本。もちろん、裏ぶたにはリミテッド・バージョンであることを示すナンバーが刻印されている。この限定というのもマニアの心をくすぐるんだよね」
僕は一旦話を止めて村田の反応を確かめた後に続けた。
「なかなかいい時計でしょ?」
「すごいなー、そんな趣味が持ててうらやましいよ。俺が収集したといったら、切手くらいだからね。小学校の時で一年くらい続けたんだけどもう一枚も残って無いよ。どこにいったかもわからない」
といって苦笑した。
「収集の趣味は何を集めるのも同じだよ。こつこつと長い時間をかけて続けるのが大事。僕の場合は運がよかったんだけどね」
僕が腕時計の収集をするようになったのは祖父の影響が大きい。マニアの間でも有名な収集家だった祖父は、幼い僕にも惜し気もなく色々な腕時計を見せてくれた。ただ見せてくれるだけでなく触らせてくれたのが嬉しかった。祖父の家に行き、ガラスケースの中に丁寧に収められた腕時計を眺める。そして、僕が無邪気に指を刺すと、嫌な顔一つしないでそれを取り出してつけさせてくれたのだ。
そんな環境の中で初めて僕に欲しいと感じさせた腕時計は、一九二〇年代から四十年代後半に製造されたというロレックスのプリンスというブランドだった。アール・デコ様式の影響を受けた優雅なデザインに引き付けられた。
数種類ある中で僕が欲しかったのは秒針が下部につけられたタイプだった。これは医者が患者の脈拍を計るために使いやすいように時分針と秒針が完全に分かれて付けられたためらしく、その個性豊かな美しさは、さながら王の宮殿を圧縮して小さな箱に閉じ込めているようだった。もちろん、プリンスは祖父のコレクションの一つだ。
僕は学校から帰ると毎日のように祖父の家に行き、プリンスを手に取り、機械時計特有の針の動きを手の平から感じた。
今でも初めて祖父が触ることを許してくれたときに体験じた、時計自体が人間の鼓動を読み取って一緒に生きているかのような不思議な感覚は忘れることができない。
そのときの『生きている』という感覚が僕の心の中の深い所に眠っていたマニア的性質に命を与えたのだ。
あの時が、小学五年生だったからもう十年前になる。祖父の語っていた、コレクターを続けていると狂人になりかける瞬間が必ずある。そのときは、コレクターとしてではなくその行動が人間として正しいかをよく考えなくてはいけない、という言葉はいまでも胸にしまってある。
「ところでクロノメーターって何だっけ?」
僕の言ったクロノメーター・バージョンというのが気になったのだろう。確かに言葉を聞いただけではわかり難い。
「それは経度と緯度を正確に知るための機能だよ。地球上のある二地点の経度差は一時間に十五度あって、イギリス時間と経度を求めたい地点の時間差からその地点の経度を求めるんだ。時計の見た目だと、秒針がクオーツのように動くのが特徴かな。でも、この機能は航海用だから日常生活では使わないけどね」
といって軽く笑った。
ほとんど使わない機能がついた時計をあえて買ってはめるということはマニア特有の贅沢だ。収集とは、興味のない人から見たら無駄の積み重ねだ。無駄なものを集めるために無駄な努力をしている。そんなイメージを持たれてしまう。
「楽しそうだね」
どこからか、声が聞こえた。切れの良い、よく通る声だ。
急に話し掛けられたから驚いて顔を見ると、真木貞夫だった。
真木も村田と同様に同じ学科の人物なのだが今まで一度も話をしたことがなかったから、話し掛けてくることが意外だった。
真木は、色黒で警戒心の強そうな目をした男だ。講義中は一番前で熱心に話しを聞いているタイプの人間だ。どこか不気味で人付き合いが苦手なタイプというのが僕の中での彼の分析である。
僕と村田が黙っていると、
「菊地君はいつも珍しい腕時計をはめて来ているみたいだけど、コレクションしたりしてるの?」
と聞いてきた。
僕は真木も村田と同じように純粋な興味のみで訊いてきたのだと思って、
「ああ、祖父から譲り受けたコレクションがあるよ」
「数は多いの?」
「うーん、どうだろう。それほどではないと思うよ。最近は安いモノを自分で買ったりもしてるんだ」
祖父は去年亡くなり、そのコレクションの中から程度の良いものは売られ、残りを僕が譲り受けた。生前祖父が僕にコレクションを譲りたいと言ったときは驚いたが、今は感謝している。身内でも価値の分からない人に与えるよりはちょっとは理解できる人に渡したかったのだろう。
「そうなの。じゃあ、この時計は知ってる?」
といって真木が左手を捲り上げるとその下からは皮ベルトの時計が現れた。
僕はびくりと体を震わせた。その繊細な作りは本物としか思えない。まさか、こんなところでお目にかかれるなんて思ってもみなかった。
数秒観察した後、
「それはオメガのルイ・ブラウンシリーズのパーペチュアルカレンダー」
と僕は大声で叫ぶように言った。村田はパーペチュアルカレンダーって何? と小声で訊いてきたがそのときの僕は答える余裕はなかった。
おそらく200万円近い代物だろう。普通の学生が、いや、普通に見える学生がそんな高級腕時計をしているなんて信じられない。いったいどうやってそれを手に入れたというのだ?
「それ、どうしたの?」
真木の目を見ながら僕は聞いた。
「父に買ってもらったんだ」
父に? 世の中にはこんな高価なものを簡単に買ってくれる親がいるのか。パソコンやテレビゲームを買ってもらうのとはわけが違う。彼はいったい何者なんだ。
「もしかして、他にも持っているの?」
僕はさっきまではまったく関心のなかった相手に、高級腕時計をはめているということだけで興味を持った。
「うん。実は俺もコレクションしてるんだ。俺は機械式が好きだから、ほとんど全部機械式だけどね」
現在流通している時計は、彼の言う『機械式』と『水晶発振式』の2つに大別される。水晶発振式はクオーツと言えばなじみが深いだろう。僕も機械式派だ。
「僕のコレクションも機械式ばかりだよ。ネジをまかなければ止まってしまうというところが魅力だよね。時間に支配されるのでなく、時間を支配しているような錯覚に陥らせてくれる。それがいい」
「そうだね。ネジさえ巻けば動くというのは、何百本も所蔵していても使いたい時に使えるということだからね。水晶式ではこうはいかないくて、電池が切れると止まってしまう。使いたい時に使えないのは悲しいからね」
彼の意見には賛成だ。一般的に水晶式、いわゆるクオーツ時計の誤差は平均月差三秒に対し、機械式時計は平均日差十五〜二十秒とかなりの差がある。だから、精度の高さを求めるにはクオーツ時計のほうがいい。しかし、僕たちのように毎日はめる時計を変えるというマニアにとっては、平均日差より使いたいときにすぐ使えるということが重要だ。
それにしても彼が言った何百本というのは本当だろうか。今彼のしているようなものが何百本もあるとしたらものすごいコレクションだ。ちなみに僕のコレクションは六十本程度であるが百万以上もするような高級なものは一本しかない。
「コレクションの中で一番気に入っているのは何なの?」
彼のコレクションを見せてもらおうという下心から僕は聞いた。
「今はめているのも気に入っているんだけど、今一番といわれると買ってもらったばかりのJLのマスターコントロール・ジオグラフィークかな」
「JLか」
JLとはジャガー・ルクルトというメーカーのことだ。
「ケースがSSでホワイトフェイスでブレスのもの」
知らない人が聞いたらさっぱり意味がわからないだろう。ケースというのは一番外側の枠のことで、それがステンレルスチール(SS)で出来ているということ。ホワイトフェイスは文字版が白、ブレスはベルトが皮ではなくステンレルスチールで出来ているということだ。
「ところでジオグラフィークって何?」
これまで黙っていた村田が思い出したように聞いた。
僕がジオグラフィークを持っていないため村田は見たことがなかったのだろう。
「ジオグラフィークとは昨今の世界的なワールドタイマーブームの火付け役になったモデルで、回転式の時間帯円盤には世界の二十四都市の名前が刻まれてあって、専用リューズを回して六時方向に希望の都市名をセットすると瞬時に六時方向のスモールセコンドが選択した都市のローカルタイムを十二時間計で表示する。さらに、スモールセコンドの九時方向にはその都市の昼夜の表示がされる。その他に九時〜十一時半方向に四十時間のパワーリザーブ計、二時方向にはデイト表示、本体は三針、三気圧防水、耐振、耐磁が付いている」
と真木は機械的に答えた。その抑揚を付けないで喋る話し方は、ロボットのようだった。
「それはすごいね」
どこまで理解したかわからないが、村田は感心した様子で首を縦に振っていた。僕もつられて同じように首を振った。
そんな様子を見ていたのか、
「よかったら見に来る?」
と真木が言ったので、僕は待っていましたとばかりに、
「えっ、いいの?」と聞いた。
「もちろんいいよ。同じコレクターとして君には見てほしい」
彼がそう言ってくれたことを喜ぶべきだが、このとき僕は別のことを考えていた。
(今の説明は完璧だ。むしろ完璧すぎる)
というもやもやとした疑問だった。
我々のようなコレクターが素人相手にモノの説明をするときは、マニアならではの特性なのか、どうしても自慢げになってしまう。『ここがすごい』とか『ここに引かれる』といった自分の感情を織り交ぜた表現になる。
すくなくとも、僕が今まで会ったことのあるコレクターはすべてそうだった。だからといって誰でもそうだとは言えないが、あれほど自分の感情を出さないで説明する人は珍しい。収集マニアとして当然持っているべき性質が見えてこない。ひょっとして本当は腕時計に興味がないのではないかと思ってしまう。それでも、そんな彼がどんな風にコレクションをしているのかという怖いもの見たさも手伝って、拝見させてもらうことにした。
「じゃあ、今日の講義が終わったら見せにもらいに行くよ」
僕は笑顔で言った。
この時、僕は彼をうまく誘導してコレクションを見せてもらことができるようにした。と思っていたが、本当は彼が僕を誘導していたことに後で気が付くことになる。
その日の講義は4限目までだったが終わるのが待ち遠しかった。遠足を楽しみにしている小学生のように意味もなくにやついていた。回りのやつらには不気味がられていたことだろう。
講義が終了すると僕は真木を急かすように連れ出した。
村田は所属するラグビー部の練習があるとかで僕一人で行くことになった。
これまで同年代で機械式のアンティークな腕時計のコレクションをしているという人に大学で会ったことはなかった。どうせいないだろうと思って気にもかけていなかったが、こんな身近にいたのは嬉しい。
当たり前かもしれないが、こういったコレクターというのはある程度の収入を持った大人に限られている。だから、彼のように親に買ってもらえるというのはある意味うらやましい。
ある意味というのは、多くの種類を所有したいという気持ちとともに、自分で働いたお金で買って自分の努力が形になる喜びを味わいたいという気持ちもあるからだ。祖父から譲り受けたコレクション以外は安物しか買ったことがない僕も、学生になってからはバイトで稼いだお金のほとんどを腕時計のために使っている。
「腕時計を自分でバイトとかして稼いだお金で買ったことはないの?」
彼の家に向かう途中に聞いた。
どうせそんなことはないだろうと思いながら言ったが、彼はそんな僕の気持ちを悟ったのか、
「ないよ」
と一言だけ言った。努力して買うなんて馬鹿らしいという冷めた目だった。
彼の心の中にある僕とは異なる相反した狂人的な性質を垣間見たように感じられた。
「ねえ、さっきは気にいってる時計を聞いたんだけど、今一番欲しい時計はどんな時計なの?」
この金持ちの腕時計マニアはいったいどんなものを欲しがっているのであろうか。僕の思いもよらないような高価なものを欲しがっているに違いない。もしかしたら僕の知らない幻の一品であろうか。
「どうしても欲しいのが、ひとつある」
歯切れのよい、情熱的な口調でいった。
「どんなやつなの?」
「感じるやつかな。時計は普通目で見て時間を知るだろ、そういったのではなくて視線を送ることなく時を知らせてくれる、そんな時計が欲しい。最近はどんどん変わった時計が欲しくなってくるんだよね。ほんと、マニアの心理は興味深いよ」
そう言うと、口元を吊り上げながら無気味に笑った。
そんな時計があるのだろうか。目で見ないでどうやって時間が知れる? もしかしたら振動とかで知らせてくれるんだろうか。携帯電話のバイブ機能みたいに。
これ以降は彼の家に着くまで、僕の方から彼に話し掛けることはなかった。彼も無口なまま一直線に家に向かった。
真木の家は予想していたよりも豪華だった。どこかの会社の社長が住んでいてもおかしくないくらいのマンション。赤茶色の煉瓦造りの外壁が住み心地の良さを表している。
彼は実家を離れ、一人で大学の近くに下宿している。
「僕の下宿とは全然違うよ。こんな立派なところに住んでいるなんて驚いた」
きょろきょろと部屋を見渡しながら言った。
「親の脛をかじってるだけだから」
腕時計を親に買ってもらっているということから、かなり贅沢な暮らしをしているに違いないと思っていたが、これほどだとは思わなかった。僕も下宿生の一人だが学生専用の安アパートで親の仕送りを頼りに生活している。僕の知る限りではどの下宿生も同じような生活振りをしている。違いといえば僕はバイト代のほとんですべてを腕時計に注ぎ込んでいるという事くらいだ。
(真木はこのマンションに親の金で一人暮しか)
僕はこれだけの所に住める金持ちならコレクションの中に欲しいものがあったら安く譲ってくれるだろうと期待した。
部屋に入ってその広さに改めて驚いた。
巾広のフローリングが窓からの光を反射して部屋の雰囲気を明るく感じさせる。壁紙はホワイトカラーの横ストライプで落ち着きのある雰囲気を演出している。
リビング・ダイニング、そしてキッチンに至るまで足元には床暖房が装備されていた。4人家族でも十分暮らしていける。
おそらく彼はこれを贅沢だとは感じていないだろう。この生活が当然と思える彼がうらやましい。それが僕の正直な感想だった。それでも、くつろげるという安心感が持てなかったのは入った瞬間からある種の違和感があったからだろう。
その正体は彼が紅茶を入れるために食器棚からティーカップとソーサーを出すときにわかった。
人が暮らしていれば必ず生まれるはずの生活観のなさだ。
整然と並べられた机や椅子。食器棚の食器や本棚などは誰も手に取ったことがないのではないかと思うほどに秩序正しく並べられていた。家具に埃や汚れがまったくないのも妙だ。
これに気が付いてから僕の心の中では、警戒心が芽生えはじめていた。
(本当に彼はここで生活しているのだろうか)
常識的に考えればそんな疑問が浮かぶこと自体がおかしいのだが、この時の僕は異常なほどに神経質になっていた。真実をを確かめずにはいられないといった強迫観念のようなものが僕を突き動かした。
「ここにはどれくらい住んでいるの? まさか引っ越してきたばかりってことはないよね」
飲む気になれないで目の前に置かれたままの彼の入れてくれた紅茶の湯気が目に入った。「大学に入ってからずっとだよ」
ということは二年以上は住んでいるわけだ。
「料理とはしてるの?」
使ってないのかと思わせるようなキッチンを見ながら訊いた。内心、金持ちなんだから、どうせ料理なんてしないで外食で済ませているのだろうと思っていた。
「ほとんどしたことなかったんだけど、最近はするようになったよ」
「何でまた急に?」
「すごくよく切れる包丁を手に入れたんだよ。ほんとすごいんだよ。かまぼこを切ったら下の木の台まで切れてしまうってやつ。すぱっ、すぱっとね。それを使うのが楽しくて料理しているんだ」
真木は笑顔で語った。
(包丁を手に入れたくらいで料理をするようになるのか? しかも、なんで急に包丁なんて手に入れようとしたのだろうか? ただ、何かを切りたくなっただけなんじゃないのか?)
疑問ばかりが湧いてくる。
僕は笑顔を見せず、押し黙ったままだった。どこか不安げな様子が伝わったのか、
「まあ、くつろいでよ」
と真木は僕の肩を軽く叩いた。
同時に、僕は体に電気のようなものが走り、身をすぼめてしまった。
「どうしたの? そんなに驚いて。それに変な質問ばかりするね」
「いや、なんでもないよ。ただこの部屋がモデルルームみたいにきれいで、人が住んでいるように思えなかったから」
動揺を隠しながら、穏やかな口調で言った。
彼の言っていた腕時計も怪しいものだ。さっきちらりと見た本棚には、数冊の本があるだけで、時計に関する本は見当たらなかった。僕でも何冊か持っているのに、マニアの彼が本を持っていないなんてことがあるのだろうか? もっとも彼の場合、本物をどんどん買うことができるから、写真の載っているだけの本など必要ないかもしれない。
(はたして彼の話はどこまで本当なのか? それともすべてうそなのか)
部屋のあちこちに目線を飛ばしながら、考えていた。
彼は指をあごに当て、しばらく考えるような仕草をしてから言った。
「君が思っているのはこういうことだろう。実は僕には妄想癖があって、誰も住んでいないこのマンションのモデルルームを自分の家だと思っているんじゃないかと」
自分の心を読まれたようで、心臓が高鳴った。
「いや、そんなことは思っていないよ。ちょっと気になっただけだよ。生活感がないなあってね」
「いいんだよ、別に。はじめて来る人はみんなそう思うよ。ほんとに僕がここに住んでいるのかってね。でも、ここに住んでいるのはほんとうだ。ちょっと待ってて」
と言って、隣の部屋に行った。
(何をしようというのだ?)
緊張して手を握り締めた。しっかり汗をかいていた。
しばらくすると、彼は手を後ろに隠しながら戻ってきた。
「何を持ってきたの?」
震える声で訊いた。唾を一度飲み込む。
「新聞だよ。モデルルームだったら、新聞なんて配達してくれないだろ?」
と言って、机の上に今日の朝刊を投げた。
確かに彼の言う通り、新聞を配達して来るんだから人が住んでいることは間違いないのだろう。
彼の行動で、少し安心することができた。しかし、彼が僕のことを騙そうとしているのではないかと感じていたのは確かだ。
(本当は彼はコレクターでも何でもなくて別な目的で僕をここに連れてきたのではないか)
そう疑っていた。村田も強引に連れてこればよかったと後悔した。
「腕時計はどんなとき一番美しいと思う?」
彼が突然聞いてきた。
「それは難しい質問だね。僕は手入れがしてあればいつでも綺麗だと思うよ」
僕は無難に答えた。
「俺は違うな。腕時計は腕にはめられている時が一番美しい。いくら手入れが行き届いていても使われていないのは美しいとは言えない。人の手首と一体になることで美しさが生まれるんだ」
珍しく彼は感情的になり、強い口調で熱っぽく語った。
初めて彼の口から出されたこの感情な発言はどこか気味悪さを含み、僕の警戒心を増大させた。
真木は、突然身を乗り出すと、
「ほら、君の時計もこんなに美しく輝いている」
僕の手首を優しく撫でながら言った。うっとりとした恍惚の表情だった。
「綺麗な手首をしてるね。こんな人にはめてもらって、時計も本望だろう」
強引に僕の手を顔に近づけていった。
ぞくっとして、慌てて手をテーブルの下にしまいこんだ。手の甲が机の角に当たって音が鳴った。
「早速なんだけど、コレクションの方を見せてくれない?」
僕はさっさと目的を済ませてしまおうと早口でいった。後から考えると、このときにこんなことを言わずに帰ってしまえばよかったのだが、コレクター魂がそれを許さなかった。
「ああ、いいけど」
そのとき、僕の目のほんの片隅に床の汚れが写った。
(なんだあれは?)
どす黒い汚れだ。乾いた血のようにも見える。人の顔程度の広さだ。他の部分がきれいなだけにその部分が目立って見えた。場所は冷蔵庫の前。
(あれ? 冷蔵庫が三台ある)
そのとき気が付いたが、なぜか大きな冷蔵庫が三台あった。
(彼は一人暮しだから、そんなにたくさん必要ないのではないか?)
外はいつの間にかに雨が降り出していた。部屋の窓にも水滴が付き初め、さっきまで鳴いていたセミの声も聞こえなくなっていた。
冷蔵庫三台と床にこべりついた血のような汚れ。そして、包丁を使うのが楽しくてしょうがない住人。これらの事実が意味することとはいったい……。
彼はゆっくりと立ち上がると、
「コレクションなら……」
僕はその瞬間、話そうとするのをさえぎって言った。
「なんで冷蔵庫が三台あるの?」
彼は冷蔵庫の方をちらりと見ると、
「それは冷蔵庫ではなくて、冷凍庫だよ」
と言った。特に動揺した様子はない。
(冷凍庫? 彼はさらりと答えたがなんで冷凍庫なんかが置いてあるのだ?)
僕の頭の中では冷蔵庫の中身に関して、恐ろしい考えが瞬間に浮かんだ。全身に力が入って背筋を伸ばした。
(僕の考えが正しければ、彼はもはや狂人だ)
マニアの道を突っ走りすぎて人の道から外れてしまったのか?
冷凍庫の唸るような低い音が腹に響いてきた。真木は相変わらず表情のない顔で座っている。
「何が入っているの?」
僕は恐る恐る聞いてみた。
「それはいいだろ。それよりコレクションを見せるよ」
そう言いながら彼はキッチンコンロの下の扉を空けた。中には鍋や調味料が入っているのが見えた。そして、さっき彼が話していた包丁も光っていた。
彼の動きを観察していた僕は彼が包丁に手を伸ばしたのがわかった。
「ちょっと待て」
叫びながら彼のもとに駆け寄ると、後ろから羽交い締めにした。
「何するんだ?」
彼はもがきながら抵抗した。すぐ傍で彼の息使いが聞こえてくる。
「なんで包丁なんか取ろうとする?」
「包丁? 何のことだ?」
「すべてわかったんだ。本当のことを言え」
締め付ける力を強めた。彼は観念したように力を抜いて、
「本当のこと?」
「そうだ。あの汚れはなんだ?」
僕はあごで汚れの方を指した。
「あの血の跡か。あれはりんごの皮を剥こうとして怪我をしたんだ。そのときに付いた」
「嘘だね」
「なんで嘘だと?」
「君はさっき腕時計は腕に付けている時が一番美しいと言っただろ」
「それがどうした?」
「だから入っているんだろ? あの中に腕時計が」
彼は抵抗することもなく、話を聞いたが、僕はありったけの力をこめて強く締め付けた。
「あの中に、どうして?」
「そこまで白を切るなら教えてやる」
一旦深呼吸をした後、僕は言った。
「君はうまく僕を騙してここに連れて来た」
「何のことだ?」
「黙って聞け」
どなりつけて、僕は続けた。こうなったら思っていることを全部言うしかない。
「これまでにも君は何人か、僕のような腕時計のマニアをここに連れて来たはずだ。そうだろ?」
彼は首を回して僕の顔をいぶかしげに見た。
「何も答えないならそれでもいい。なぜ君がここに連れて来たか。それは僕を殺して腕時計を奪うためだ」
僕は彼の耳元で大声でいった。
「黙って聞いてれば、何を言ってるんだ。連れ込んだ人のはめていた腕時計を奪って冷凍庫にしまっているとでもいうのか? 僕が何でそんなことをしなくてはいけないんだよ」
彼は明らかに狼狽している。唇がかすかに震えていた。
「君は腕時計は腕にはめているのが一番美しいといっていた」
「たしかに言ったよ。でもそれが悪いことか? 美しいと感じる光景を素直に言っただけじゃないか。それをとがめられる理由はない」
「それは別に悪くないよ。そういう気持ちは僕にも理解できるから」
「だったら……」
「だったら許してくれとでもいうのか? いい腕時計をした人をここに連れ込み、腕を切断し、腕と腕時計が一体のまま冷凍庫に保存していることを」
間違いない、彼は常人ではない。僕の考えが間違っているとすれば、あの冷凍庫はなんだ? ただのインテリアだとでもいうのか?
あの連続殺人犯ハンドカッターは真木だったのだ。間違いない。彼は、夜な夜な外に出かけては時計をはめている人を襲い。殺害した後、手首を切り取って持って帰って来ているんだ。よく切れる包丁とやらで切り取って。
雨は益々勢いを増し、窓の外は流れ落ちる雨水で見えなくなっていた。窓を叩く雨音が僕の心を奮い立たせてくれた。
「何を言い出すんだ急に」
慌てて逃げ出そうとしたが、そうはいかない。
「今も包丁を取って僕を襲おうとしたんだろ?」
最近は、警戒して夜出かける人が少なくなってきたから昼間にターゲットを探していたんだ。その罠にかかってしまったのが僕ってわけか。だけど、僕の手首は冷凍庫なんかに保存させない。
「ちがう。時計をつけたまま腕を切断するなんてそんなことするわけがないだろ」
彼の行動に同情はするが、認めはしない。
マニアは『狂人』であっても、狂った人間であってはならない。
「言い逃れはできないぞ。無実だと言い張るなら冷凍庫を開けてみろ」
僕は彼に、両手を上げたまま近づいて開けるように指示した。
彼は僕の言う通りに両手を突き上げ、ゆっくりとぎこちない足取りで冷凍庫の前まで歩いた。立ち止まって、僕の方を振り返る。僕は何も言わないでうなずいた。
彼は取っ手に手をかけると迷いもなく一気に開いた。
白い冷気が流れ出す。中身が確認できるまで数秒かかった。
「それは?」
僕の目に飛び込んできたのは銀色の袋だった。表面には何やら細かい文字が書かれている。霜が掛かっていてはっきりと読むことはできない。しかし、何処かで見たことのあるものだ。それが、冷凍庫いっぱいにぎっしり詰まっていた。
「これは、冷凍食品だよ。言ってなかったけど俺の父親は冷凍食品メーカーの社長をやっている。だからこうして会社の製品を送ってもらってここに保存しているんだ」
その口調から明らかに彼が腹を立てていることがわかった。
僕は自分で手にとったが確かに彼が言う通り冷凍食品だった。スーパーでもよく見かけるし、自分の家の冷蔵庫にも入っている。
「そうだったのか、僕はてっきり……」
「てっきり今話題のハンドカッターだとかいう殺人者だと思ったの? 俺はそんな風に見られるのかな?」
彼の言う通りだ。いくらなんでも人殺しをするなんてばかげている。よく見れば気弱そうな好青年じゃないか。生活観がないように見えたのは冷凍食品を食べて生活しているからか。実は料理もあまりしていないのだろう。
「それに、彼なら捕まったよ」
と言って、真木は新聞を広げた。そこには『連続殺人犯捕まる!』という見出しで、犯人の逮捕されたニュースが載っていた。
「そうだったのか、逮捕されていたんだ」
ほっとして軽い溜息をついた。
昨日の犯行後、巡回中の警官に捕まったらしい。夜のニュースが終わったあとのことらしく、僕も村田も新聞をとっていないから知らなかったのだ。
それにしても、なんで人殺しだなんて思ったりしたんだ? 今日の僕はどうかしている。(これじゃあ、まるで僕の方が狂人だ)
そう思って苦笑いをした。
「ごめんね。僕の勘違いだ。でも、何でさっきは包丁なんか取ろうとしたの?」
「包丁を取ろうとしたのではなくて、奥のスイッチを押そうとしたんだ」
「スイッチ?」
彼はさっきと同じ場所に行くと、さっきとまったく同じ姿勢になった。カチッという電灯を付けるときのスイッチのような響きだ。
その途端に一定のリズムを持った機械音がどこからか聞こえてきた。モーターが回るとき発する音のようだった。部屋全体がかすかに揺れたように感じた。
「何の音なの?」
「向こうの部屋に行けばわかるよ」
怒りはおさまったのか、楽しそうな口調で言った。
僕は彼の指差す方向の部屋に向かった。その部屋に一歩足を踏み入れると体が凝固した。
「これはすごい」
その壮大な光景を見ながら僕は言った。
彼が押したボタンはこの部屋の壁を取り去るものだったようだ。最初に見たときの壁は無くなり、奥から新しい壁が現れていた。
その壁には無数の腕時計が所狭しと掛けられていた。
パテック・フィリップ、バセロン・コンスタンチン、ブレゲ、オーデマ・ピケ、IWC、ジラール・ペルゴ、ジャガー・ルクルト、ブランパン、ユリス・ナルダン、ゼニス、セイコー、オリス、ブライトリング、モーリス・ラクロア、アラン・シルベスタイン、フランク・ミュラー、ジェラルド・ジェンタ、ダニエル・ロート数え上げたら切りがない。どれを見ていいかわからず目が回る。
その一個一個の時計の限られた空間には外部と独立した規則正しい動きがあり、それぞれの方法で時を刻んでいる。宇宙の時間すべてがこの壁の中に凝縮され、どれか一個をいじってやれば時を操れるのではないか。そんな錯覚にも陥る。
(いったい幾つあるのだろう?)
二百、いや三百はある。彼が数百はあると言っていたのは正しかった。どれもこれも名器と呼ばれるものばかりだ。世界中捜しても個人でこれだけのコレクションを持っている人は少ないだろう。
「すばらしい、究極のコレクションだ」
それだけ言うと僕は、食いつくように時計を眺めた。
そんな僕の様子を彼は、腕を組んだまま何も言わず見つめていた。その表情は鯉に餌を与えるような、上に立った人間のする目のように思えた。
僕はそれを気にしなかった。収集マニアとはそういうものだ。自分のために集め始めたものでも、そのうち誰かに見せて自慢したくなる。
「これが、オメガの『スピードマスター・プロフェッショナル』か」
生で見るのは初めてだった。
摂氏マイナス十八度からプラス九十三度までの温度変化に対応可能し、真空・無重力状態においても可能かつ正確なムーブメント、ロケット発射時や大気圏突入時にかかる十六Gに対応可能。さらに、一秒間に五Mzから二千Hzの振動に対応可能し、四十Gの衝撃にも対応する代物で、NASAの公式時計として採用されている。アームストロング船長が人類で初めて月面を歩いたときも、彼の腕にはしっかりとオメガのマークが輝いていた。
収集マニアの習性なのだろうか。人のコレクションの中で自分が持っていないものを発見すると手に入れたくなってしまう。たとえそれが今まで一度も欲しいと思ったことのないものでもだ。
(このスピードマスターを欲しいと言ったらくれるだろうか?)
いくら金持ちといっても何百万もするものを易々とくれやしないだろう。それほど仲がいいわけでもないし、後々恩を売られるのもいやだ。もっとも、今回は殺人者に疑われ不愉快な思いをしているだろうから売ってもらうことすら難しい。
ふと、頭の中に悪魔が現れた。
(盗んでしまえ)
一個くらい無くなっても気が付きはしない。
彼がトイレに行っている間とかに抜き取って、うまく配列させておけば、これだけの数があるんだからバレはしないはずだ。だが、そんなにうまい具合に彼がトイレに行くわけはないか。
そんなことをうだうだ考えていると、悪魔の仕業なのか、
「ちょっと、トイレに行ってくる」と彼が言った。
チャンス到来だ。この千載一遇の機会を逃す手はない。
彼がトイレに入るのを確認するとすばやく手を出した。しかし、時計に触れる寸前のところで手を止めた。
(本当にこれでいいのか?)
もしこの方法で手に入れることができたとしてもそれを誇らしげに腕にはめることができるだろうか? 人のものを盗んだという罪悪感と恥ずかしさから、はめることすらできないのではないか?
僕は手をゆっくりと引っ込めた。
将来自分の努力で手に入れよう。それが僕の結論であり、狂人になることを防いでくれた。
いつの間にかに真木がトイレから戻ってきていた。気が付いたときにはもうすでに僕の真後ろにいた。
振り向きながら、
「戻ってきてたんだ」
と言った瞬間、背中が熱くなるのを感じた。
今まで味わったことのない痺れを含んだ熱さだ。立っていることができず、床に倒れ込んだ。
顔と肩を強く打ち、フローリングの床に唾が飛び散った。
息苦しくて呼吸が乱れる。
「あ…、あ…」
やっとの思いで声を出した。
霞んだ目を開けると、血で真っ赤になった彼が立っていた。
手には包丁がに握られている。刃先からは新鮮な血がぽたりぽたりと滴り落ちている。
そのときになって、やっと自分が背中から刺されたことを理解した。
「どうして?」
僕はかすれる声で聞いた。
「君の『モノ』をくれ」
彼はそう耳元で囁くと、僕の体を仰向けにさせると、今度は腹に包丁を突き刺した。
血があふれ出て彼の顔に飛び掛った。
「はあ、はあ」
興奮して息を切らす彼は、刺した傷口を両手で押し広げ、そこから手を中に入れると何か探すように動かし始めた。ぴちゃりぴちゃりという水分を拭くんだ音が、雨音と重なって大きく聞こえた。
体の中をいじられる感触が脳に直接響く。
痛みはもうなくなっていた。
まだ意識があった僕は、
「何を…し…てる?」
口を動かしたが、声は出なかった。
相変わらず彼は、
「時計は? 時計はどこ?」
と言いながら、僕の体の中をいじくり回している。彼の腕が動く度に、体は自然にびくりびくりと痙攣した。
遠くで雷の音が聞こえた。が、光を見ることはできなかった。
薄れ行く意識の中で、昨日の大学での講義を思い出していた。
『徹夜が続いたり朝寝坊が続くと、誰でも生活のリズムが崩れてきて、他の人と同じ時間に食べたり寝たりできなくなる。このずれが生じるのは、人間は本来二十四時間という一日の中で行動をするように作られていて、一日の生活のリズムが決まっているからだ。このリズムの基盤となるのが、時間や季節を把握する体内時計だ』
そう説明していた教授の顔が目に浮かぶ。
(彼が欲しがっていた時計…か…)
意識を失う瞬間に目に入った僕の腕時計は狂うことなく時を刻んでいた。
END
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