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妖精のいた夏

 僕は買ったばかりのゴーグルをはめると、思いきり息を吸い込み、海へ飛び込んだ。一瞬にして視界が真っ青になる。大の字になって、上を見上げた。口から漏れた空気が不規則に揺れながら海面へと上っていく。八ヶ月ぶりの海中は、変わることなく僕を受け入れてくれた。
 今年こそは、小学校のときにやり残した宿題を終わらせられるだろうか。
 僕は鈍った泳ぎの感覚を取り戻すため、腕の動きを確認しながらゆっくりと動かした。しかし、すぐに海中にいるのが苦しくなって、海面へと急いだ。
 顔を出して、荒く息をする。塩辛い味が口に充満して、口をすぼめた。
「一分か。久しぶりだと息が続かないな」
 僕は腕時計を見て呟いた。
 一週間も練習すれば、去年と同じくらい長く潜れるようになるだろう。今日は五月二十日だから、六月になったら本格的に海中を探せる。そのころには、海水も今よりは暖かくなっているはずだ。
 僕は岩に登ると、腰掛けた。置いておいたタオルを震える手でつかみ、丁寧に体の水分を拭き取る。
 ひざを抱えて座って海を眺めると、対岸に自分の住んでいる海北村が見えた。
 村の人たちが、『妖精の島』と呼ぶこの島で、素潜りをするようになってもう十年になる。村の海岸から一キロ程度離れた妖精の島は、格好のダイビングポイントで、七、八月には多くの人々が、素潜りやスキューバを楽しんでいる。それでも、五月から潜ろうなどと考える物好きな人間は僕一人だけだ。
 突然海に照りつけた太陽の光が反射して、思わず目をしかめた。このとき、なぜだか今年こそ、十年前に消えた思い出と出会える気がした。

 僕は何度か潜ったあとに、島に上がって休憩していた。砂が擦れるような物音が聞こえたのは、光る波の美しさに見とれていたときだった。
 はっとして振り返ると、視線の先に白くて細い足が見えた。目線を上に移動させると、均整のとれた細い体に黄色い水着が張り付いていた。
「あなた、ここで何しているの?」
 話しかけられて、女性の顔を見た僕は声が詰まった。
 年は僕と同じ、二十歳くらいだろうか。黒目の大きな目と薄い唇。細長い鼻にうっすらと浮かぶえくぼ。肩まで伸びた茶色い髪は、海水を含み、美しい光沢を放っている。僕が美人と思う全ての条件を満たしていた。
「ちょっと素潜りを」
 彼女は口を手で隠しながら優雅に笑った。そして、笑顔のまま言った。
「素潜りの季節には早いんじゃないの?」
「そういう君も、水着を着ているところを見ると、村から泳いできたんでしょ? 同じじゃない」
 寒さで震えていたはずの僕の体は、熱くなっていた。
「さあ、それはどうかしらね」
 そう言うと、彼女は僕の隣に座った。
「素潜り、楽しい?」
 首を傾げて訊く彼女の仕草が、どこか懐かしく感じられた。
「楽しいとか、そういうんじゃないんだ。十年前に、ここでなくしたものを探してるだけだよ」
「何を落としたの?」
「うーん。落としたのとは少し違う。海の中で消えてなくなったんだ。僕の目の前でね」
「どういうこと? 何が消えてなくなったの?」
 彼女は丸い大きな目を、さらに大きくして僕に訊いてくる。
 僕は海の遠い場所を見た。
「妖精さ。海の妖精」
 そう口にした瞬間、腕時計の針が逆回転するようなイメージが浮かんだ。僕の頭の中で、時の流れが急加速で逆戻りをはじめた。

 十年前、僕は小学四年生で、海北村の小学校に通っていた。
 校舎は木造で古かったが、廊下を歩いたときの、木の軋む音が心地よかったし、窓から見える壮大な海の眺めが大好きだった。
 各学年は一クラスで、それぞれが二十人程度の小さなものだった。それだけに、みんなの仲もよかった。クラス全員が友達だった。
 都会の学校と大きく違うのは、水泳の授業だろう。学校にプールがない変わりに、海で水泳の授業を行っていたのだ。危険じゃないのかと思うかもしれないが、村の砂浜から入れる海は入り江になっていて、流されるような波や流れはなく、二十メートルくらいまでは小学生でも足がつく程度の浅瀬が続いていた。もっとも、幼いころから海を遊び場にして、誰もが泳ぎの達人の僕らにとっては、足がつこうがつくまいが関係なかった。
「次、体育だろ。早く着替えて海に行こうぜ」
 僕は先陣を切って水着に着替えると、他のみんなを引き連れるようにして海へと向かった。勉強はからっきしだめだったが、水泳だけは得意だったのだ。
「みんな、こっちだぞ」
 Tシャツ姿の白石先生が手を振っていた。筋肉質の浅黒い肌が、白い砂浜に浮き上がって見える。僕たちの担任だ。
 生まれも育ちも海北村なので、僕たちの気持ちをよく理解してくれる。三十五歳になっても結婚できないのは、子供と話すのに慣れすぎて大人の女性とうまく話ができないからじゃないかと、僕は子供心に心配していた。
 本人は結婚したくないだけだと言っていたけど、狭い村のでのこと、先生が何度かお見合いをしていることは僕たちも知っていた。
 先生は僕らを横二列に並べた。空には梅雨を感じさせない青空が広がっている。足下の砂もじんじんと熱い。
「よし、みんな集まったな。今年でみんな四年生になったわけだから、最後の水泳の授業は遠泳に挑戦してもらうから、そのつもりでいるように」
「えんえい?」
 誰かが言葉の意味をたずねた。
「遠泳とはな。長い距離を泳ぐことだ。おまえらがいつも授業で泳いでいるのは、浅瀬の辺りだけだろ。でも、遠泳では、あの島まで泳いでもらう」
 先生は振り返りながら指を差した。僕はその先を、目を細めながら追いかけた。
「妖精島」
 思わず声が出た。
 夏になると村の大人たちが素潜りを楽しみ、海中の景色が幻想的で美しいと評判の島だった。ダイビングの穴場として、都会からやってくる人も多い。都会の人たちの中には、水中カメラを持って潜っている人もめずらしくない。
 妖精島という名の由来は、百年以上前にさかのぼる。
 昔、村にどこからともなく一人の外国人の女の子が現れたそうだ。女の子はすぐに村の子供たちと仲良くなって、海で遊ぶようになったが、島で遊んでいるときにあやまって海に落ちてしまった。子供たちは助けようとみんなで海に飛び込んで探したが、なぜか見つけることができず、行方不明になった。
 その後、素潜りをする大人の中に、度々、海中で女の子を見たという人が現れた。女の子の姿は、長い茶色い髪をして、背中に小さな羽根のあり、手の平に乗りそうな大きさだったそうで、近付こうとすると、黒目の大きな瞳でじっと見つめられ、動けなくなると言われた。
 村の人たちは、行方不明になった女の子は欧州から来た海の妖精で、海に帰ったのだと思うようになった。妖精になった女の子は、海の中で村を見守ってくれていると信じられたのだ。だから、今でも村の人たちは、島の周りの海中に、小さな妖精が住んでいると信じている。
 幼い頃から両親に、妖精の話を何度も聞かされていた僕は、いつしか大人になったら、島まで泳いで妖精を探してみたいと思うようになっていた。だから、先生から妖精島まで遠泳すると聞いた瞬間、全身に血が駆けめぐった。
 妖精島に行ける。妖精に会うことができる。
 先生は反応を確かめるように僕たちの顔を見回した。
「島までは大体千メートルあるぞ。がんばって練習して泳げるようにならないとな」
 僕たちのあいだに、困惑の感情がこもったどよめきが起こった。
「千メートルなんて長すぎるよ」
「途中で力尽きちゃう」
 口々に不満を漏らした。
 僕はそんな彼らをしり目に、妖精島を睨み付けるように見て、闘志を沸き立たせていた。
 千メートルなどという長い距離は一度も泳いだことはなかったが、やってできないことはないだろうという漫然とした自信があった。
「今はまだ六月だろ。島まで泳いでもらうのは九月になってからだ。それまで一生懸命練習すれば全員行けると思うぞ」
 僕らは黙った。
「島まで泳げなくても、先生が船で追いかけるから、もうだめだと思ったら船に移ればいい。とにかく、先生は全員に遠泳に挑戦してほしいと思っている」
「分かったよ、先生。早く練習しようよ」
 僕は飛び跳ねた。
「よし、いつも通り、二人一組になってクロールの練習だ。お互い相手を見失わないようにな。溺れそうになったときは助けてやるんだぞ」
「はい」
 見事に声がそろった。
「それじゃあ、練習開始」
 全員が浜辺から海へと走り出した。
「健二。ちょっと待て」
「何? 先生」
 僕は体をふらつかせながら止まった。
「すまんが、香奈に泳ぎを教えてやってくれないか」
 先生の隣の香奈は下を向いていた。口を尖らせ不満そうな顔だ。小学生のくせに茶色く染めた髪が、太陽の光を反射して、生意気そうな顔を引き立たせた。
「何で僕が教えないといけないんだよ。僕だった練習しないと妖精島まで遠泳できないよ」
「お前なら練習しなくても、あんな距離くらい泳げるだろ?」
 そう言われて、自信がないとも言えなかった。
「うん、まあね」
「香奈は転校してきてまだ半年だ。海で泳いだこともないそうだから、お前が見てやってくれよ」
 香奈を見ると、しかめっ面をして空を見ていた。とても、教えてほしそうな様子ではない。僕は香奈の態度が気に入らなかった。
「やっぱり、嫌だ。海で泳いだこともないようなやつに教える必要なんてないよ。浮き輪にでもつかまって、ぷかぷか浮いていたらいいさ」
 僕の発言に気が触ったのか、香奈は眉を震わせた。
「先生。私、ちゃんと消毒してあるプールじゃないと嫌です。海なんて汚い場所で泳げません」
 香奈は学校の方に駆けていった。
「おい、待てよ。香奈」
 先生が慌てて呼び止める。
「放っておいたらいいよ。無理矢理泳がせる必要もないさ」
「同じクラスの仲間だろ。水泳教えてやったらいいじゃないか」
「あんな都会育ちのやつは、僕たちの仲間にはなれっこないさ。じゃあ、僕、練習しますから」
 海に向かった僕だったが、勢いで口にした言葉を後悔していた。
 香奈は、引っ越してきてから半年になるが、いまだにクラスの仲間たちと打ち解けらなかった。なかなか自分から話しかけようとしない香奈も悪いが、村以外の子供と話をしたことがなかった僕らの、よそよそしい態度にも原因があるように感じられた。
 香奈と仲良くなりたいと思っても、どこかで本心を隠し、外国人を相手にするときのように、あたりさわりのない会話だけをしていた。
 何度も話しかけようとして、その度にクラスの連中の視線が気になってやめた自分。せっかく新しい仲間ができたのに、拒絶するような行動をしている自分。なんて臆病で、いくじがないのだろう。
「健二。先生と何を話していたの?」
 田上亮太だった。僕と同じくらい泳ぎの上手い奴だが、違うのは勉強もできるということだ。
「別にたいした話じゃないよ。香奈に水泳を教えてやれってさ」
「あの生意気な女にか、それは大変だな」
「断ったよ。本人もやる気ないみたいだったし」
「そうだよなあ。何かにつけて都会と比較して、村の生活をばかにするようなやつが、すすんで海で泳ぐわけないもんな」
 海に入る直前で立ち止まった。楽しそうに声を上げながら泳いでいるみんなが、僕の視界に入っていた。香奈が教室に戻っていったことは誰も気づいていないらしい。
「やっぱり、香奈は都会に帰りたいのかなあ」
 僕は素直な疑問を口した。
「知らないよ。帰りたければ帰ればいいんじゃないの? 勝手にしたらいいさ」
「言い過ぎだよ。香奈だって、都会で生まれ育ったんだ。村での生活に戸惑っているだけかもしれないだろ」
 きつい口調になっていた。
「……うん」
「僕たちだって、都会に引っ越したら、村の話をするさ。村のことを知らせないと、心のギャップが埋まらない。だから、僕たちが村でのルールばかりを押しつけていたら、香奈だってつらいんじゃないのかな。少しは都会のルールも知ってほしいと思うさ」
「健二はいつから、先生みたいなことを口にするようになったんだ。よそ者は、いつまでたってもよそ者だよ。仲間になんてなれないさ」
 亮太は走って海に飛び込んだ。
 僕は亮太の言葉が本気だとは思えなかった。本当は仲間になりたいのに、無理に拒絶しているような態度をとっているように感じられた。みんなが仲間に入れようとしていないのに、自分だけが受け入れることはできないということだろう。
 結局は、今の仲間だで十分に楽しければよくて、やっかいな新しい仲間などには興味がないということだ。
 泳ぎだしても、僕の頭からは、香奈の顔が離れなかった。辛さを隠して強がっているような苦渋の顔が焼きついている。
 彼女がみんなと仲良くなってほしいと思うのは、クラスの仲間を裏切ることなのだろうか? 余計なことをするなと、とがめられることなのだろうか?
 そんなはずはない。友達思いの連中ばかりだ。表には出さなくても、心の中では、僕と同じように香奈を大切に思っているはずだ。ただきっかけがないだけなんだ。
 素直に水泳を教えてあげると言えなかった自分が、愚かで情けなかった。

 授業が終わり、みんな帰ったあとの教室で、僕は一人窓から遠くの海を眺めていた。
 結局、水泳の授業が終わってから香奈に話しかけることができなかった。僕はますます自己嫌悪に陥って、ため息ばかりをついた。
「明日こそ、香奈に謝って、水泳を教えてあげよう。彼女もきっと喜んでくれる」
 呟いて教室を出ようとしたとき、足下に光る何かを見つけた。拾い上げると名札のバッジだった。伊藤香奈と書いてある。
 僕はこのとき、なぜかとても落ち着かなくなって、バッジを持つ手が震えた。
 どうしよう。香奈の机の上に置いておこうか。でも、今頃、どこかでなくしたと思って探しているかもしれない。
 僕はしばらく考えたあと、バッジを持ったまま教室を出た。
 人気のない海岸沿いの道路を歩くと、朱色の太陽が海を照らし、生暖かい風が頬を撫でていく。真夏にはにぎわうこの海岸も、今日は誰もいない。
 海辺を一人で占領したくなった僕は、堤防の間の階段を下りて、砂浜に素足で立った。昼間はあんなに熱かった白い砂もすっかり冷えて、僕の火照った足を冷やした。
「あれっ?」
 声を出したのは、海の中に人がいたからだった。
 日の沈みかけた時間に泳ぐ人を見るのは、はじめてだった。というのも、村に面した海は夕方のなると、昼間の穏やかな様子とは一変して、満ち潮の関係で流れが速く、水も冷たくなる。海水浴を楽しむのには危険なのだ。
 よく見ると、僕と同じくらいの年の子供だった。紺色のワンピースのスクール水着を着ている。
 泳ぎは決して上手いとは言えず、海の波にだいぶ手こずっているようだった。
「誰だろう?」
 心配になって、女の子の挙動に注目した。息継ぎのときにちらりと見えた顔に、僕は思わず背筋を伸ばし、目を凝らした。
「……香奈?」
 背中まで伸ばして、茶色く染めた髪。黒目の大きいまん丸の目。愛嬌のある小さな口。香奈に間違いない。
 でもどうして、海なんかで泳がないと言っていたあいつが泳いでいるんだ?
 昼間の言葉が嘘のように、懸命に手足を動かしている。
 きっと、香奈は夕方の海が危険だということを知らないんだ。
 僕は今すぐ戻ってくるように言おうと、波打ち際まで行って、大声を出した。しかし、その瞬間、香奈の様子がおかしくなった。
 両手を不規則に動かしながら、浮かんだり沈んだりしている。口をめいっぱい開け、助けを求めるように、僕の方を見ていた。
「まずい。海流に飲まれたんだ」
 僕は着ていた服を脱ぎ。パンツまで脱いで海に飛び込んだ。服を着ていたんでは、疲れてこっちが溺れてしまう。
 僕はとにかく全力で手足を動かした。時々、香奈の位置を確認しながら、近づこうとするが、思った以上に海流の流れが速いらしく、なかなか追いつくことができない。
 しだいに、香奈は岸から遠くに流されていく。僕の体も、体温が奪われ痺れてきた。さらには、冷たい海水と暖かい海水が混ざった流れが心臓を刺激して、気を失いそうになる。それでも、毎日練習している泳ぎのフォームを崩さないように、神経を集中させた。
 僕はクラスで一番泳ぎが上手いんだ。絶対に香奈を助けてみせる。
 心で叫んで、泳ぎを加速させた。幸運なことに強い流れに乗ることができた僕は、一気に香奈に近づいた。
 手が届くところまでくると、僕は香奈の腰を抱きしめ、海流から出そうと、がむしゃらに引っ張った。何回も、海水を飲んで、口が麻痺してきた。
 最初抵抗した香奈も、すぐに力を抜いて、僕に体を預けてくれた。しかし、急に現われた大きな波に呑まれて、僕たちは再び離れ離れになった。
 香奈つかまれ。
 心で叫びながら手を伸ばした。水中眼鏡をはめていないから、彼女の場所がよく見えない。しかし、気持ちが通じたのか、香奈の手が僕の手を握り締めた。冷えきった手が彼女の危機を伝えた。
 僕はありったけの馬力を使って、香奈の顔が海面に出るように持ち上げながら、岸へと向かった。
 苦しくて、泣き出しそうだったけど、香奈が流されなくてよかたっとほっとした。つらいのにうれしい。今まで味わったことのない不思議な感覚だった。
 岸に着いた僕は、仰向けに転がったまま犬のように激しく呼吸した。全裸の姿は恥ずかしかったが、とても動けるような状態ではなかった。蓄えていたエネルギーを全て使いきってしまったのだ。
 僕の顔に一定間隔で波が打ち寄せた。
 香奈は僕の手下げ鞄からタオルを持ってきて、差し出した。
「ありがとう」
 香奈と同時に同じ言葉を発して、思わず手を引っ込めた。
 僕は香奈と目線を逸らしながら、タオルを取った。
「ここの海は夕方になると流れが早くなって危険なんだ。もう二度と泳がない方がいい」
 体が冷えたのか、怖い目にあったからなのか、香奈は肩を震わせて、握りしめたこぶしを見つめていた。いつもの高飛車な態度はなかった。
「お前も拭けよ。風邪引くぞ」
 僕のタオルをためらいがちに受け取ると、香奈は黙って体の水滴を染み込ませた。僕は彼女の仕草がたまらなくかわいくて、みとれていた。
 香奈が髪を拭きはじめたとき、再び話しかけた。
「どうして、海で泳いでいたの?」
 昼間の出来事があって、僕は香奈はプールでしか泳がないかと思っていた。
「だって……」
 青ざめた唇が、ぴくりと動いて止まった。
「だって、何?」
「だって、泳げないと仲間に入れてもらえないんでしょ」
 潤んだ瞳に光が溜まっている。普段、気のない態度を取っている香奈が、僕たちと仲良くなりたいと思っていたことを知って、僕は冷たい海に投げ入れられたような衝撃を受けた。
「泳げなくたって、香奈は僕たちの大切な仲間だよ」
 自然に出た言葉だった。香奈と毎日学校で楽しく会話できたら、どんなにうれしいだろうと想像していた。
「……」
 僕は大きく、息を吸い込んだ。
「今日はごめん。授業のとき水泳を教えてあげていたら、危険な目にあわせることもなかったのに」
「ううん。私の方こそごめんなさい。素直に教えてって言えなくて」
 素直になれていなかったのはこっちだよと僕は心で呟いた。
 香奈は決して僕たちのことを田舎者だとばかにしていたわけではない。僕たちと遊んだり、話したりしたかったのだ。一緒に泣いたり笑ったりしたかったのだ。
 香奈の気持ちが、すっと胸に染み込んできて、彼女のことを急に近くに感じた。
「香奈はどうして今は、そんなに優しく接してくれるの?」
「学校のときと違う?」
「ああ、大違いだよ。学校の香奈が悪魔なら、今は天使だよ」
 僕が笑ったのにつられて、香奈も笑った。彼女の素直な笑顔を見るのは、はじめてだった。
 意外にも冗談が通じたことに安心した。学校での愛想のなさから、僕は香奈がジョークは嫌いだと思っていたのだ。
 何て愛らしいんだろう。学校でも、もっと笑顔を見せてくれればいいのに。
 香奈の頬笑みを、自分だけが見れたことが嬉しかった。
 このときすでに、僕の初恋ははじまっていたのかもしれない。
「私、クラスのみんなに嫌われてる?」
「そんなことないよ。嫌ってなんかないさ」
 香奈は、僕が言葉に詰まったのを見逃さなかった。
「いいの。私知ってるのよ。みんなが私のような、よそ者とは仲良くできないって言っているの」
 乾きかけた彼女の髪が、弱々しく風になびいた。
「誤解だよ。僕たち転校生なんて今までいなかったから、どう接していいか分からなくて戸惑っていたんだ。だから、本当はみんな、香奈と仲良くなりたいと思っているよ」
「ほんと?」
「うん。ほんとだよ。だから、香奈も明日から水泳の授業参加しろよな。きっとみんなも喜んでくれるさ」
「健二君。泳ぎ、教えてくれる?」
「もちろんさ。僕が教えたら、香奈もすぐに上手くなるさ。最後の授業で一緒に妖精島まで泳ごうよ」
「ありがとう」
「あっ、そうだ。ちょっと待って」
 僕は鞄まで走って、名札を取り出した。
「教室に落ちてたよ。探してるかもしれないと思って持ってきた」
「家に届けてくれようとしていたの?」
「そう。行く前に、香奈を見つけたけどね」
「ありがとう。健二君て優しいのね」
 僕は香奈に名札を渡した。そのとき触れた彼女の手は、握ったら壊れそうなくらい軟らかかった。
 僕は脱ぎ捨てた服を集めて着た。
 すでに夕日が水平線にかかりそうだった。
「じゃあ、明日な」
「あっ、健二君。私……」
「何?」
「う、うん。何でもない。今日は助けてくれてありがとう」
「気にするなって。風邪引くなよ」
 僕はできる限り、かっこよくきめた。
 香奈と二人きりで話ができたことが嬉しくて嬉しくて、ずっと笑ったまま家へと続く坂を駆け下りた。
 よかった。香奈は思っていたような嫌なやつじゃなかった。都会で生まれても、僕たちと何も変わるところはない。
 鼻から入ってくる潮風が気持ちよくて、わざと大きく息を吸った。視界に入った妖精島がやけに近くに感じられた。

 次の日も、絵の具の青そのままの晴天だった。
 水泳の時間。昨日と同じように、二人一組で練習することになった。
「先生。今日は僕が香奈に泳ぎ方を教えるよ。いい?」
 白石先生は、目をしばたかせた。昨日あれだけ嫌がっていたのに、どういう風の吹き回しだとでも思っているのだろう。
「もちろんいいよ。おい、香奈。健二に教えてもらえ」
 香奈は恥ずかしそうに、うつむきながらうなずいた。
 僕はゆっくり歩く香奈の手を引き、海へと急かせた。
「ねえ、みんな。今日は香奈も泳ぐって」
 僕の声に気がついて、ちらりとこっちを見たやつもいたが、無視するように視線を外した。香奈の顔が急に不安そうになった。
「やっぱり、私……」
「いいから来いって」
 僕は香奈を海に投げ捨てるように押し出した。
 香奈は甲高い声を出しながら、肩まで海水に浸かった。
「どう? 昨日と違って、気持ちいいだろ」
「うん」
 純粋さの溢れる笑顔だった。
 香奈は少し臆病なだけだ。僕らと同じように、どう接したら仲良くなれるか分からなくて、冷たい態度を取ってしまっていただけ。ほんとうはとても暖かい心を持った女の子なんだと、香奈の笑顔見ていて確信した。
「泳いでみて」
 僕の言葉で、香奈は大きく水しぶきをあげながら、ゆっくりと進んだ。そして、しばらくすると、息継ぎで海水を飲んだらしく、立ち上がって咳き込んだ。
「いいか。海の中はプールとは違って、波が来る。だから、呼吸をするときはなるべく呼吸する側と反対の手を強めにかいて、頭を浮かせるようにするんだ。そうすれば、低い波なら乗り越えられる」
「うん」
「もっと大事なのは、素早く呼吸すること。吐くのは水中でゆっくりと、吸うのは空を見ながら、一瞬でだ」
「一瞬って、どれくらい?」
「これくらいだよ」
 僕は首を振って手本を見せた。
「そんなに早く」
「最初は無理かもしれないけれど、練習すればできるようになるよ」
「うん。分かった。がんばる」
 香奈は僕の言ったことを忠実に会得しようと、何度も息継ぎの練習をした。
「すごいね。もうだいぶ上手くなった」
「ありがとう。きっと健二君の教え方が上手だからよ」
「健二。こんなやつに水泳教えてるのか?」
 亮太が眉をしかめている。僕はこんなやつという言葉に腹を立てた。
「香奈だって仲間なんだし、一緒に練習してもいいだろ」
「分からない奴だなあ。こいつは田舎なんかより、都会が好きなんだよ。俺たちの仲間なんかじゃない。だから、コースで仕切られたプールが泳ぎたいの。海での泳ぎなんてしたくないんだよ。どうせやる気がないんだから、教えても無駄さ」
「誤解だ。香奈だって僕たちと一緒に海で泳ぎたいと思っているよ」
「健二はやけに、香奈の味方するようになったなあ。都会の話を聞いて、もう田舎者の仲間はいらなくなったのか?」
「都会だとか田舎だとか、そんなことはどうでもいいだろ。同じクラスの仲間だし、友達だ。だから、僕は誰の味方をするってことじゃなくて、みんなで仲良くしたいだけだ。その方が楽しいだろ」
「楽しい? こんなひ弱で傲慢な女なんかいない方が楽しいさ。いても、じゃまでうっとうしいだけだからな」
「何だと」
 僕は我慢の限界を超えて、亮太を突き飛ばした。不意をつかれたのか、亮太は水しぶきを上げながら倒れた。
「痛ってえなあ。何しやがる」
 今度は亮太が僕に殴りかかってきた。僕は亮太の腕をつかみ、睨み付けた。亮太の力は思ったよりも強くて、押し返すことができない。
 二人とも力を込めたまま、にらみ合った。
「やめて」
 僕はびくりとして、叫び声を出した香奈を見た。
 彼女はいつもの冷めた目に戻っていた。
「私は先生から健二君に泳ぎを教えてもらえって言われたの。だから見てもらっていただけよ。健二君だって、先生に言われて、しぶしぶ私に付き合ってただけ」
「おい、ちょっと待って」
 僕の言葉を香奈は無視した。
「私は健二君と友達になった覚えはないし、仲間だなんて言われても迷惑なだけよ。もう話しかけないで」
 それだけ言うと、香奈は振り返りもせず、教室の方へ歩いていった。
「みてみろ俺の言ったとおりじゃないか。健二も今まで通り、俺たちだけと仲良くしていたらいいんだよ」
 僕は寂しげな香奈の後ろ姿を眺めていた。
 香奈は仲間外れにされそうになった僕を助けるために、心にもないことを言ったに違いなかった。一人、悪者のになって僕を救ってくれたのだ。
 香奈の気持ちが理解できたら、これ以上亮太に香奈と仲良くしようとは言えなくなった。また喧嘩になって、香奈に嫌な思いをさせるだけだ。
 でも、僕は香奈の発言は間違っていたと思う。僕のことなど考えなくて、素直にクラスのみんなと仲良くなりたいと言ってくれたほうがよかった。僕が仲間外れになるのは一時的なことだ。みんなが香奈の本心を知って、分かり合ってくれたらきっと仲良くなれる。 
 本心を隠し、一人、壁を作って誰も近づけないようにしても、何も変えることはできない。
「くそっ」
 伝わらない思いがもどかしく、やり場のない怒りをこめて海水を蹴った。飛び散ったしぶきが、口に入って吐き出した。今まで飲んだ、どんな海水よりも、苦い味がした。

 帰りの時間まで、僕は何度も香奈に話しかけようとしたが、その度に、目を逸らして無視をされた。しつこく話しかけてくる嫌いな相手を見るような、迷惑そうな態度。
 僕はだんだん、昨日の海での出来事が嘘のように思えてきた。
 僕が香奈の本心だと思っていたのは、実は嘘で、亮太たちが思っているようなのが本当の香奈なのかもしれない。僕は香奈にからかわれていただけ。仲良くなりたいなんて言って、人が良さそうな僕をおちょくって、楽しんでいただけなのかもしれない。
 あれこれ考えながら、香奈を助けた海岸に腰を下ろし、海を眺めていた。
 穏やかに打ち寄せる波が、僕の気持ちを落ち着かせてくれた。薄い雲に覆われた太陽は朱色に滲んで見えた。
 僕は後ろから近づく足音に振り返った。
「何だ。亮太か」
「俺で悪かったな。誰か待ってるのか?」
「いや、別に。誰も待ってないさ」
「香奈のことなんだけどさあ」
「何?」僕は身構えた。
「俺の両親が言ってたよ。都会の人間には人情なんかない。自分の利益のためにはすぐ人をだまして利用するってな。健二も香奈に何を言われたか知らないけれど、だまされるなよ」
 亮太の言葉が胸に突き刺さった。自分が疑っていたことをみごとに指摘された。
 村の大人たちが、都会の人を快く思っていないのは僕も知っていた。夏にやってくる観光客の中には、都会には儲かる商売があるなどと言って、村の人から金をだまし取る人間もいるからだ。
 親切心で観光客を家に泊めたら、金や貴金属を盗まれたという事件もあった。都会の人間は信用するな。村ではそれが合い言葉のようになっていた。
「だまされなんかしないよ。僕たちと仲良くなりたいって言ってきたから、少し相手をしてやっただけさ」
 もしかしたら、香奈にだまされているのかもしれないという僅かな疑いが、本心とは違う言葉を口にさせた。
「よかった。だまされてないみたいで」
「冷たい都会の人間なんかと、友達になろうなんて思うわけないだろ。仲良くなったふりをして、からかってやっただけだよ。さあ、もう帰ろうか」
 立ち上がり、ズボンに付いた砂を払って、振り返った。
 その瞬間、僕は凍り付いたように動きを止めた。目の前に香奈が立っていたのだ。潤んだ瞳には、今にもこぼれそうなくらいの涙が溜まっていた。
 何かを言いたそうに、唇を震わせていたが、何も口にせずに走っていった。
 僕は突っ立ったまま、揺れる茶色い髪を目で追った。
 今亮太に言った言葉を、香奈に聞かれた。
 夕方の海は危険だと言ったのに、泳ぎが上手くなりたいがために、香奈は今日も練習しにきたんだ。
「あいつ、泣いてなかったか?」亮太が言った。
「……」
 香奈は僕の言った言葉を聞いて泣いたようだった。
 僕は大きな間違いを犯した。
 彼女は本気で僕たちと仲良くなりたがっていた。それなのに、僕はそれを疑ってしまった。僕の言動は、香奈をどれだけ傷付けたことだろうか。
 香奈が僕に見せてくれた笑顔は嘘なんかではなかった。友達の言葉を鵜呑みにして、大切な新しい仲間を信じられなかった自分が恥ずかしかった。
 胸につかえる思いは、夜になってもとれることがなかった。

 次の日、香奈と一度も話せないまま水泳の時間になった。
 僕は海岸に向かいながら考えた。
 昨日と同じように香奈に泳ぎを教えてあげたいけど、恐らく彼女は嫌がるだろう。でも、何としてでもゆっくり話す時間がほしかった。お互いに本心を話し合ったら仲直りできる。そう信じていた。
 僕は何度も香奈に視線を向けたが、彼女は僕のことなど意に介さない様子であらぬ方向を見つめるだけで、一度も目線が合うことはなかった。
「みんなに重大な発表がある」
 白川先生が、海岸に並んだ僕らに言った。
「今日は天気もいいし、海の波も穏やかだ。だから、今から全員に妖精島まで泳いでもらう」
 僕たちは一斉に驚きの声を出した。
「妖精島まで泳ぐのは八月終わりじゃなかったの?」
「もちろん、八月にも泳いでもらう。今日は予行練習だよ。無理しないようにゆっくり泳いだらいい。先生も手漕ぎのボートの後ろに浮き輪のついたロープを付けて追いかけるから、休みたい者はつかまってくれ。とにかく、全員で島に上陸しよう」
 休憩できるのなら行けそうだと思ったのか、文句を言う者はいなかった。
「香奈、泳げるか?」
 先生は香奈の前に立った。僕は、恐らく足のつかない場所を泳いだことがない香奈は一人残るだろうと思った。しかし、香奈は意外な答えをした。
「はい。もちろん、泳ぎます」
 意志の硬さが詰まった、力強い言葉だった。
 僕は香奈の言葉を聞いて、少し前のことを思い出した。
 さっき僕が何度見ても、香奈はどこか海の彼方を見ているように思えていたが、彼女の目に写っていたのは妖精島だったのではないだろうか。これから島まで泳ぐことを知っていて、決意を固めるために見ていたのではないか。慣れないことだから、先生が気を利かせて、先に香奈に泳ぐかどうか訊いていたのかもしれない。
 そう考えても、僕の胸には、ぬぐい去れない違和感が残った。
「さあ、出発だ。練習通り、二人一組でお互い助け合って泳いで行くんだ。いいな」
 先生はボートを漕ぎ出した。
「おい、香奈。足がつかないけど大丈夫か?」
 僕はそっと話しかけた。気のせいか、彼女の髪が昨日より長くなっているように感じた。しかし、そんなはずはないと思い、何も言わなかった。
「私のことは放っておいて」
「そうはいかないよ。何かあったら助けるからな」
「助けなんかいらないわ。泳いでる途中に私の体に触ったら、二度と口きかないからね」
「構わないよ。何かあったら絶対助けるから」
 たとえ話してくれなくなっても、香奈が無事でいてくれるのならそれでいい。
 僕は香奈の身に、何かよくないことが起こりそうで不安だった。
 初めて少し遠くまで泳いだときに、緊張のあまり足がつって溺れかけたときの記憶が、初めて泳ぐ香奈とだぶって、妙な不安を抱かせているのかもしれなかった。
 香奈が泳ごうとするのを呼び止めた。
「集団の中には入らない方がいい。人の掻く波で、泳ぎにくい。一番外側を泳ぐといいよ。僕も後ろから追いかけるから」
 香奈は何も返事をせず、黒い水中眼鏡をはめると、僕の言った通り、端の方で泳ぎだした。僕の僕も少し離れて、後に続いたが、香奈が海に入る瞬間に見せた、いつになく引きつった顔が、僕の不安を増長させた。
 六月下旬の海は、雨水が多く流れ込んでいるせいか、真夏に比べると濁っていて、水温も低い。天気が良くても遠泳をする条件としてはあまりよくないのだが、みんなは先生のボートを囲うように泳ぎ、順調に島を目指した。
 海での泳ぎは、慣れていないと方向を見失うものだが、香奈は比較的上手く泳いでいた。左右の手のバランスがよく、息継ぎのテンポもよかった。
 僕は香奈の斜め後ろから続いた。
 後ろを見ると、もうかなり岸から離れていた。実際はそれほどの距離ではないのかもしれなかったが、岸から沖へ出るときというのは、短い距離でも遠くに感じるものなのだ。 海水の冷たさが予想以上に体力を奪っていく。何人かの女子が、すでにボートの浮き輪で休憩しはじめていた。
 僕は香奈に休憩するように言いたかったが、彼女はまるで疲れを感じていないかのように、手足を一定の速度で動かし続けていた。
 香奈は何を考えながら泳いでいるのだろう。
 休憩しないで、島までの泳ぎ切って、みんなの仲間になろうと考えているのだろうか。だとしたら、今度こそ彼女の味方になる。誰が何と言おうと、彼女が嫌がろうと、僕は彼女の味方でいたい。
 冷たい海に浸かっていても、体が熱くなった。
 島まで、まだ半分の道のりが過ぎたころ、ほとんど全員が一回は浮き輪で休憩した。
 恐らくまだ休憩をしていないのは、僕と香奈だけだった。誰もそれに気がついていないだろう。僕も体力を消費し、周りの様子を確認する余裕がなくなってきていた。香奈のフォローをするのがやっとだった。
 彼女は辛いはずなのに、表情も変えないで、よくがんばっている。一人孤独に妖精島を目指す彼女。いつもこうやって、一人で戦ってきたのだろう。
 冷えた海水を何度か飲んで、肺が痛くなってきたころ、島の姿が大きき見えてきた。
さすがに香奈も疲れてきたらしく、スピードが落ちて、苦しそうに険しい顔をしていた。  
香奈、がんばれ、あと少しだ。
 心で叫び、香奈に伝われと念じた。
 本当は耳元で声を出してあげたかった。不安な気持ちで泳いでいるに違いない香奈の力になってやれない自分が、もどかしくてしかたがなかった。いっそう、先生の乗る船の上から、がんばれと応援したかった。しかし、香奈と一緒に妖精島まで泳ぎ切りたいという気持ちの方が大きかった。
 島までの距離はもう百メートルもなくなった。
 泳ぎのフォームは崩れてしまっているが、香奈は一度も休憩することなく泳ぎ切ろうとしていた。他のみんなも疲れのピークに達しているのか、泳ぎはじめの余裕はなく、懸命に島を目指していた。
 よかった。無事妖精島に着くことができた。
 そう思った瞬間、香奈がどういうわけか、集団の中に突っ込むように泳ぎだした。このまま一番端で、泳いでいても何の問題もないはずだったのに急にコースをそれたのだ。
 僕は香奈の突飛な行動に、意表を突かれ、追いかけるのが遅れた。僕は残り少ない力を振り絞って、香奈を追ったが、なにぶん二十人もの子供たちが一斉に泳いでいる海の中。水しぶきや波やらで、香奈の姿を見失ってしまった。
 集団の中では、もはや誰が誰だかわからない。僕は集団から少し離れた位置を泳ぎ、もしも香奈が遅れてきたら助けようと考えた。しかし、そのまま島までたどり着いた。
 誰一人遅れることなく、全員で泳ぎ切ることができた。
 島の岩場で、海から顔だけを出して、呼吸を整えた。岩を登る気力は残っていなかった。 一度も休憩しないで泳いだんだ。これで、他のみんなも香奈を仲間と認めてくれるだろう。
 僕は海から顔だけを出し、香奈を探した。
「香奈。どこ?」
 返事がない。また無視されたかと思って、茶色い髪の女の子を探した。
 髪を茶色に染めている子は、彼女以外にいなかったから、すぐに見つかるはずだった。しかし、どれだけ探しても見つからなかった。女の子の顔を一人一人確認したのに、香奈はいなかった。
 香奈が消えた。
「先生、大変だ。香奈がいない」
 僕の叫びで、先生の笑顔は凍り付いた。
「誰か香奈を見なかったか?」
 誰も返事をしない。
「先生ごめんなさい。僕が香奈とペアだったのに、途中で見失って……」
 涙が溢れてきた。
 絶対に助けるなどと言っておいて、香奈を海の中に置き去りにしてしまったのだ。香奈が集団に突っ込んだとき、どうして足を引っ張ってでも止めなかったのだろう。
 後悔しても手遅れだった。
「すぐそこまで、一緒にいたんです。探してきます」
 僕は再び泳ぎだした。
 水中眼鏡越しに眺める海の中は濁っていて、数メートル先を見るのも困難だった。でも、必ず見つけなくてはいけない。
 二度と香奈の笑顔が見られないなんて、絶対に嫌だ。
 僕が探す姿を見て、疲れているはずの他のみんなも探しはじめてくれた。
「香奈はどの辺りまで一緒にいたんだ?」
 亮太も真剣だった。
「島まで二、三十メートル手前くらいまではいたはずだよ。突然、香奈がみんなの中に突っ込むように泳いでいって見失ったんだ」
「流されたのかもしれない。島の周りも探してみよう」
 みんなで手分けして、辺り一帯を捜索した。先生もボートを漕いで、見回った。
 僕は岩場の隙間や、島の反対側。島の上や先生のボートの中まで探したが、香奈の髪の毛一本すら見つけることができなかった。
 ただでさえ疲れていた体は、もう動けないほどに疲労した。
 他のみんなも体力の限界がきて、声も出ない様子で、岩の上に寝転がって海を眺めていた。
 香奈はいったいどこへ行ったというのだ。島に到着する直前まで確かに姿があったのに、消えてしまった。
 僕はまだ、香奈が行方不明になったとは信じられなかった。またいつものように、「あんたたち何やってるの? 私なんかとっくに島に着いていたわよ」などと言いながら、どこからか現れると思っていた。
 しかし、いつまで待っても彼女は姿を見せなかった。
「香奈……」
 呟いたと同時に、頬から伝っ涙が、海に落ちた。
「香奈はいなくなったみたいだね」
 先生は平気な様子でそう言った。まるでこうなることを知っていたような態度だった。僕は涙を拭いて立ち上がった。
「香奈が行方不明になったんだよ。先生は悲しくないの?」
 先生は僕の顔を見つめると、二、三度うなづいた。
「先生だって悲しいよ。でも、仕方がなかったんだ」
「どういう意味?」
「みんなには内緒にしていたけれど、香奈はこの妖精島に住む妖精だったんだよ」
「妖精?」
 先生の突然の告白が理解できなくて、訊き返した。
「昔、この島でいなくなった女の子の話を知っているだろ。彼女は海に落ちて、妖精になった。香奈も同じだ。妖精島の妖精に戻ったんだよ」
「そんなの嘘だ。香奈は東京から来たって言ってたじゃないか」
「東京から来たというのが嘘なんだよ」
「どうして嘘なんかついたの? 最初から妖精だと言ってくれればよかったのに」
「妖精島の由来となった女の子は外国の女の子だったけど、村のみんなは彼女を仲間として受け入れて友達になったんだ。それは、子供たちが、彼女のことをよそ者だと言って仲間外れにしなかったからだよ」
「……」
「昔の子供たちは、外国人から来た子でも、村の外から来た子でも、変な先入観を持たないで、の友達を相手にするのと同じように接したから友達になれたんだ」
「まさか、彼女も同じ?」
「そう。香奈は自分は東京から来たと言って、君たちが自分のことを受け入れてくれるかどうかを試したんだよ。妖精は海を守ってくれている。守る価値があるかどうか、見に来たんだ」
「香奈が妖精だったなんて」
「君たちは追い返してしまったみたいだけどね」
 彼女は僕たちを試すために来た。もし、最初に彼女が村で育ったと言っていたら、仲間外れにしただろうか。そんなはずはない。同じ仲間として友達になっていたはずだ。
 僕たちはただ東京から来たというだけで、彼女のことを差別し、仲間外れにしたんだ。
「いいか、みんな。君たちはこれから先、いろいろな人と出会う。良い人も悪い人もいるだろう。だけどな、自分勝手に相手のことを嫌なやつだと決めつけてはいけない。お互いに相手のことを理解し合わなくてはいけないんだ。最初から差別するような態度を取っていたら、誰とも仲良くできない、心の狭い人間になってしまう」
 拳銃で撃たれたように、先生の言葉が胸に刺さった。
「先生、ごめんなさい。ぼ、僕……」
 しゃくり上げて言葉が出なかった。
 香奈はもう戻ってこない。そう思ったら、急に力が抜けた。座り込んで泣き続けた。
 他のみんなもうつむいたままで、言葉を発する者はいなかった。みんな、自分の行動を反省しているようだった。
「先生」
 亮太が手を挙げて立ち上がった。
「もう一度、香奈に会えないんですか?」
「会ってどうするんだ?」
「謝りたいんです。ほんとは仲良くしたかったのに、ひどい態度を取ったことを」
 涙を拭くと、僕たちに向かって言った。
「みんなだってそうだろ? きっかけがなかっただけで、本当は香奈と友達になりたかったはずだ。そうじゃなかったら、倒れるまで、いなくなった香奈のことを探したりしないだろ」
 僕たちは無言で頷いた。
「もう一度探してみよう」
 亮太は海に飛び込もうとした。
「待て」
 先生が亮太に歩み寄った。
「香奈は妖精になったんだ。もう会うことはできないんだよ。人生では出会いがあれば別れがある。大切な仲間もずっとそばにいてくれはしない。だから、別れるときに悔いが残らないように、会えるときに相手のことを大切にしてやらなくてはいけないんだ」
 先生の言葉は一言一言に重みがあり、これまで聞いたどんな話よりも、心に残った。
 友達はいつまでも一緒にいるわけではない。いつかは、離ればなれになって、自分の道を進む。
 香奈は妖精になって僕らの前から姿を消した。ひどい仕打ちをした僕たちのことを許してくれるのなら、優しく見守ってくれるはずだ。
 僕は岩の縁に立ち、独り呟いた。
「香奈。君のこと、いつまでも忘れないよ」
 そう言った瞬間、濁った海は、太陽の光を反射して笑ったように見えた。

 そこまで話すと、僕は海に向かって叫んだのと同じ位置に立って、石を投げ込んだ。石は、ゆらゆらと揺れながら淀んだ海の中を落ちていった。
「香奈ちゃんとは、いなくなってから一度も会ってないの?」
「ああ、あれっきりさ。誰も見たっていう人はいない。僕は次の日から毎日妖精島を探したし、毎年夏になると妖精島の周りの海に潜っているんだけど、見つけられなかった」
「本気で、彼女が妖精だったって信じているの?」
 僕は含み笑いをして、彼女の目を見た。澄んだ瞳に見つめられ、一瞬、時間が止まったかのように感じた。
「確かに、僕にとって彼女は妖精のような存在だよ。でも、彼女が消えたのは、海の中で妖精になったからじゃない」
「どういうこと?」
「僕は香奈が消えてから、彼女の家にいってみたんだ。でも、やっぱりいなかった。彼女どころか彼女の両親もね。でも、近所の人にきいたら、引っ越したんだと教えてくれたよ。だから、彼女は妖精になっていなくなったわけではなく、僕らには何も言わずに引っ越したんだ。嫌われていると思っていたから、誰にも言わなかったんだよ」
「でも、香奈ちゃんは海で消えたんでしょ?」
「もちろん、消えたのは本物の香奈だったよ。でも、香奈がいなくなったときのことをよく考えてみたら、彼女が突然僕の目の前からいなくなった謎も解けたんだ」
「どういう秘密があったの? 教えて」
「じゃあ、問題です。はたして香奈はどうやって、海の中で僕の目の前から一瞬にして消えたのでしょう。近い答えを出すことができたら、全て話すよ」
「面白そうね。考えてみるわ」
 細い指をあごに当てた。水色のマニキュアが海の光を反射した。
「分かった。彼女は海中に潜っていたのよ。潜水して、みんなに見つからないように隙をついて息をしていた。どう?」
「最初に僕もそう考えた。でも、子供の体力では長い時間潜るのも大変だし、誰も見ていないタイミングで顔を出して、息をし続けるなんて不可能だよ。一時間近く探したはずだから、絶対に誰かに見つかる」
「じゃあ、泳ぎはじめるときにクラスの誰かと入れ替わったっていうのはどう? 君が追いかけたていたのは、他の女の子で、香奈ちゃんは岸に残っていた」
「泳いでる途中に、何度も顔を確認したし、人間の泳ぎ方には癖があるから一目見ただけで、誰が泳いでいるか分かる。確かに香奈の泳ぎだったよ。他人だったなんてことはあり得ない」
「難しいわね」
 彼女は目を細めて空を見上げた。
「ヒントは、六月の終わりころで、みんなまだあまり日焼けしていなかったこと。海が濁っていたこと。そして、小学四年生という年齢かな。六年生だったら、きっと無理だったよ」
「……」
「分からないままの方が、夢があっていいかもしれないよね。謎なんてものは、知ってしまえば、何だそんなことかと思うだけだから」
 僕は妖精になった香奈を頭の中で想像した。
「香奈ちゃんが海で消えた謎。やっと分かったわ。今度は間違いない」
「言ってみて」
 僕は内心、またはずれだろうと思った。香奈が姿を消した方法は、少し考えて分かるような方法ではないのだ。
「香奈ちゃんは変装したのよ」
 僕はタオルを強く握りしめた。
「彼女は妖精島の近くまで泳いで、突然集団の中に入った。そのときに、茶色い髪のかつらを取り、スクール水着を脱いだ。そして、男の子ようの海パンに着替えたのよ。つまり、男の子に変装して、島まで泳いだの。まさか女の子が海水パンツを履いているなんて誰も考えないから見つけられなかったのよ。どう? 正解でしょ」
 僕は口を半開きのまま彼女の顔を見つめていた。
「夏の終わりだったら、水着の日焼けの跡が残っているから水着を脱いだことがばれるけれど、六月の終わりころだから、まだ日焼けしていなかった。それに、四年生くらいなら、女の子も男の子も体型はそんなに変わらない。六年生になると出来ないって言ったのは、男の子と女の子の体格が違ってくるからでしょう」
 彼女は僕の表情を探るように見た。
「水が濁っていたから、着替えるところを気がつかれにくいし、裸で泳ぐ恥ずかしさも少なくなるからできたのよ。髪の毛は前日に切りにいって黒く染めたのね。でも、泳ぎながら着替えるなんて、大変だったでしょうね。そうとう練習しないとできないもの。まあ、先生の漕ぐボートにつかまりながら着替えたのかもしれないけどね」
 名前も知らない彼女は、僕が正解だとも言っていないのに、当然のように話を進めた。「よく分かったね。君が言うとおりだよ。彼女は男の子に変装したんだ。髪を短く切って黒髪にし、水中眼鏡をはめて、海パンをはいていたら、誰も女の子だとは思わないからね。特に水中眼鏡の威力は大きい。実際、香奈を探しているとき、みんな水中眼鏡をはめていて、誰が誰がか分からなくなっていた。もしかしたら、僕の近くに香奈がいたかもしれないのに、まったく気がつかず、僕は髪の茶色い、黒い水中眼鏡をした女の子だけを捜していたんだ」
「そうよね。君の後ろで笑っていたかもしれないわね」
 彼女は軽く笑った。
「香奈は自分で自分を捜すふりをして、みんなが疲れ果てて岩場に登って休憩しはじめたころ、隙をついて岩場の隅に隠れたんだ。そこで、先生と僕らの会話を聞いていた」
「でも、どうして、香奈ちゃんは、海で消えるなんていう演出をして、転校していったのかしら」
「数日考えて、香奈のつかったトリックを見破った僕は、先生に言いにいったんだ。そうしたら、先生は自分が考えた方法だったと教えてくれたよ。香奈に細かい方法を説明し、誰にも気がつかれないように、スクール水着とかつらと黒い水中眼鏡を受け取り、海パンと別の水中眼鏡を渡したのは先生だったんだ」
「全ては、先生がしくんだことだったの?」
「香奈は半年の間で誰とも仲良くなれず、転校するとみんなに言っても冷たくされるだけだから、黙っていて欲しいと先生に言ったらしい。やっぱり都会に帰るんだとか、いなくなってよかったと言われると思っていたんだろう。だから、先生がみんなの前で消える方法を考えたんだよ」
「なるほどね」
「先生は香奈を消すことによって、自分勝手に相手の悪いところばかりを誇張し、差別していた僕らに、偏見を持たず、新しい出会いを大切にすることを教え、香奈には僕たちとの会話を聞かせて、本当は嫌われていなかったことを知らせてくれた。そして香奈に、もっと素直になって積極的に仲間を作ることを教えたんだ」
「優しい先生だったのね」
「ほんとにそう思うよ。僕はあれから十年、いろいろな人たちと出会ったけれど、先生の言葉を忘れたことはない」
 卒業してから、四年生のクラスの仲間たちとは会う機会がなくなったけれど、みんなそれぞれ新しい仲間とがんばっているに違いない。香奈も新しい学校では、友達をたくさん作って楽しく過ごしただろう。
「香奈ちゃんのこと好きだったの?」
 僕は岸の向こうに見える、小学校を見つめた。十年前と何も変わっていない。
「香奈は、僕のことなんて嫌いだったかもしれないけれど、僕は好きだったよ。だから、もう一度会って、傷つけたことを謝って、伝えられなかった思いを話したいんだ」
「香奈ちゃんは、引っ越したんでしょ。だったら、妖精島で毎日待っていても会えないんじゃない?」
「目の前で突然消えたきり、姿を見せない。僕にとって香奈は、妖精のような存在なんだ。妖精島で待っていたら、いつか会えるんじゃないか。そう思って毎日来ているんだ。僕らの思い出の場所はここしかないしね」
「毎日って、冬も?」
「もちろん。冬は船で来てる。こんなことをしている僕は、香奈にとっては迷惑な存在なのかもしれないよね。それに、十年前に少し話をしただけの僕のことなど覚えていないかもしれない。でも、僕はこれからも待ち続けよ」
 彼女の瞳は、涙で潤んでいるのか星をちりばめたように輝いていた。
「どうしたの?」
 急に黙り込んだ彼女を心配して訊いた。
「何でもないわ。私は香奈ちゃんも健二君のこと、好きだったと思うわよ。それに、今も彼女は君のことを忘れてない」
 彼女の真剣な眼差しが僕を見つめる。
「味方になってくれたこと、優しく水泳を教えてくれたこと、消えた自分を真剣に探してくれたこと、全てにすごく感謝しているわ」
 健二君?
 彼女はまだ話していない僕の名前を口にした。
「君は……」
 彼女の持っていたタオルが風に吹かれて、木の葉のように舞いながら海に落ちた。僕は急いで海に飛び込み、漂うタオルをつかんだ。
 そして、岩の上に戻ると、彼女はいなくなっていた。彼女が残していった甘い香りが、わずかに香るだけだった。
 僕は慌てて島の近くを探したが見つからない。
 どこへいったんだろう。
 僕はふと彼女の残していったタオルを見た。端に、子供っぽい字で、『かな』と書かれていた。水泳の時間に香奈が持っていたタオルだ。
 僕の両手に、汗がじっとりと滲んだ。
 今の女性は香奈だったんだ。
 自分の気持ちをあからさまに語ったことを思い出して、顔が赤くなった。
 また消えてしまった気まぐれな妖精。
「いつかまた会えるよね」
 そう呟いて、僕は海に飛び込んだ。
 遠い夏の思い出は、今も僕の胸の中にある。

END