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かいぶつくん

 パソコンを打つ指が震えていた。もう十日以上、一日数時間の睡眠をとる以外、全ての時間をパソコンの前で過ごしていた。
もう限界だった。自分が機械を操っているのか、逆に自分が操られているのか定かではなくなっている。意識を集中しなくとも指先が勝手にキーボードを叩き、頭に浮かべた映像を画面の中に作り上げてくれた。
「プロトタイプのデザインならこんなものでいいだろう」
 好きで始めた仕事とはいえ、これほどまでに辛いとは思っていなかった。テレビゲームに登場するキャラクターのデザイナーなんて、人より少しだけセンスがあってパソコンが使えれば簡単にできると思っていた。それが、睡眠時間を削り、命をすり減らすような仕事だとは、俺の考えが甘かった。
「絶対ヒットして、グッズがばか売れするキャラクターのデザインを考えろだなんて簡単に言ってくれるよ。俺は自動販売機じゃないんだから、金さえ払えばお望みのものが出てくるわけじゃないのに」
 つぶやきながら、コーヒーカップに手を伸ばした。飲んでくださいといわんばかりに湯気が立っている。
俺は大きくため息をついてカーテンに手をかけた。隙間から、強い光が射し込んできて目を細めた。人間の本能なのか朝日を浴びた瞬間、眠気がおさまっていった。
「とにかく月曜日のミーティングに間に合ってよかった。あれこれ文句は言われるだろうが、細かい部分のデザインまでしてあるし、手直しをする程度で済むだろう。でも、万が一、一からやり直せといわれたら……」
 俺は泳ぎ終わった後の犬のように首を振った。
「ゼロから作り直すことを考えるのはよそう。それより、早く準備しないと約束の時間に間に合わなくなる」
 今日は日曜だから、彼女の住むアパートに遊びに行く約束をしていた。眠いからといってキャンセルするわけにはいかない。今日はどうしても彼女に会わなければいけない理由があるからだ。
 気を取り直し、暖かいコーヒーでも飲んで体を温めようとカップに手を伸ばす。しかし、数十秒前に飲んだはずのカップが消えている。湯気を立てていたコーヒーがなくなっていた。床を見ても落ちていない。
「おかしい。ついさっきまで有ったはずなのに」
 俺は全ての動きを止め、ギリシャ彫刻のような表情で突っ立った。
「待てよ。さっき飲んだコーヒーはいつ準備したんだ?」
 昨日作った覚えはない。それによく考えたら俺はコーヒーは飲めないじゃないか。コーヒーを飲むと気持ちが悪くなるからもう何年も口にしていなかった。
 太陽の光にもようやく慣れてきて、全てのものがはっきりと見え始めた。俺は椅子に座り、怪しい光を放つパソコンの画面をしばらく見た後、窓の外に目をやった。絵の具の青そのものの空に小さな雲が一つだけ漂っていた。
「俺は、幻覚でも見ていたのか?」
 最初からコーヒーなどなかったのだ。デザインを完成させてから、俺はまだ何も口にしていない。それが現実だ。
「よっぽど疲れているんだな。ありもしないものが見えるだなんて。そもそもずっとパソコンの前に座っていたのに、熱いコーヒーを準備する暇などあるわけがないじゃないか」
 台所の蛇口をひねると、勢いよく顔を洗い、小学生のように蛇口に口を付けて水を飲んだ。今日は俺にとって大事な日なのに、寝ぼけたまま彼女に会うわけにはいかない。全身に行き渡るくらいの水を飲むと、何度も両手で顔を叩いた。
「よし、今度こそ本当に目が覚めたぞ」
 大きく息を吐いた。
「いつまでも寝ぼけている場合じゃない。遅れて行って彼女の機嫌を損ねたら、言いたいことも言えなくなってしまう」
 車の鍵を握りしめて、アパートを飛び出した。外の風は思ったよりも冷たくて身震いした。上着を取りに戻ろうかと思ったが、ふと目に入った腕時計を見てそのまま車に向かった。もうとっくに彼女との約束の時間が過ぎていたのだ。知らない間に。

 場所は、彼女の住むアパートの前。俺は車の中で放心状態になっていた。
「アパートの二階。薄いピンク色のカーテンがついているのが彼女の部屋だ。それはいい。問題なのは……」
 俺は一向に車から出る気がしなかった。
「俺は頭がおかしくなったのか? 絶対に会うつもりで来たけれど、やめた方がいいかもしれない」
 彼女にどうしても伝えたいことがあったのだが、このまま帰ってもいいとさえ思っていた。なぜなら、この場所にたどり着くまでの記憶がないのだ。
 車に乗り込むと、いつの間にか彼女のアパートの前だった。いつ車のエンジンをかけ、どちらの手でハンドルを握り、どうやってアクセルやブレーキを操ってアパートまでたどり着いたのか。まったく記憶がない。
 確かめるようにエンジンをかけると、たばこに火をつけ、力一杯吸い込んだ。窓の外に思い切り吐き出す。
 居眠り運転でもしていたのか? 目が覚めているつもりでも、気がつかない間に睡魔に襲われ眠ってしまうのだろうか。
「くそっ、しっかりしろ。黒田秀明」
 たばこ三本をくわえると、火をつけた。目から涙が出るほど煙が出た。のどがいかれるくらいにせき込んでから、吸い殻を投げ捨てた。
「俺はいたって正常だ。大丈夫。乗り切れるさ」
 車の鍵を閉めて手のひらを見ると、油っぽい汗が滲んでいた。冷えた風に当たっても、乾いていく様子はなかった。

 彼女の部屋の呼び鈴を押すと、彼女は変わらない笑顔を見せてくれた。
「どうしたのよ、青白い顔して。目に隈ができているわよ」
「何でもない。普段通りだよ。心配するなって」
 そう言いながら、部屋に上がった。料理の途中だったらしく、甘酸っぱいにおいが部屋中に漂っていた。
「もう昼ご飯の時間なんだね」
「秀明、来るのが遅いから作り始めちゃったわよ。作り終わっても来てなかったら一人で食べるつもりだったんだからね」
 彼女は不服そうに頬をふくらませた。本当は怒ってなどいないことを俺はよく知っている。
「ごめんな。もっと早く来るつもりだったんだけれど、寝坊してさ」
「寝坊じゃなくて、寝なかったんじゃないの? よく徹夜するんでしょ」
 相変わらず彼女はするどい。まあ、今回ばかりは、誰が見ても寝てないようにしか見えないかもしれないけれど。
「どうせ朝ご飯も食べてないんでしょう。すぐオムライスを作るから待ってて」
「ありがとう。ゆかりの料理はいつも……」
 そう言って彼女を見た瞬間、言葉に詰まった。彼女の肩に黒いものが乗っているように見えたのだ。目を凝らす。確かに何かが肩の上で動いている。この世にありもしないものが視界に入っている。
「どうしたの? 難しい顔をして」
「何でもないよ。何でもない」
 俺はすばやく彼女から目線を逸らして言った。
 とうとう明らかに幻覚だと分かるものが見え始めた。目を覚ましながら、頭の一部が寝ているとでもいうのか?
 そう思ったら、背中を冷たい感覚が流れた。
 もう一度彼女の肩を見ると、黒い物体は、彼女の動きに合わせ器用に背中を移動した。俺は彼女に気づかれないようにそっと近づいた。黒いものは、僕に背を向けてキッチンに立つ彼女の背中の上に乗り、落ちないように手のようなもので彼女のエプロンの紐を掴んでいた。彼女は何も気づいていない。
 正体を確かめてやろうと更に近づく。が次の瞬間、俺の体は凍り付いた。

 何でこいつが、この部屋に? しかも、彼女の背中の上ときた。

 ため息をつくことしかできなかった。なぜなら、彼女の体にへばりつき、離れようとしない黒い物体は、俺がついさっきまで頭を捻らせやっと作り出したキャラクター。つまり、俺が想像の中で生み出した生き物そのものだったのだ。
 細い胴体から、さらに細い手足が伸び、赤い目で大きな口には、牙を持っている。悪役キャラクターだ。俺の考えた設定では、黒魔導師の魔法で作った卵から生まれた怪物だ。名前はまだない。ゲームの中では主人公の邪魔をするのが役割だ。
 
 僕は自分が思っている以上に疲れているのかもしれない。現実と空想がごちゃ混ぜになるだなんて尋常じゃない。
 黒い怪物は、僕のことに気がつくと、台所に立つ彼女の背中にぶら下がりながら、首だけ回して僕を見つめた。目が合う、思っていた以上に憎たらしい目をしていた。
 もう少し柔らかな表情にしたほうが、子供にうけるかもしれないな。

 などと考える。小さな怪物は俺の考えを見抜いたように、にやりと大きな口の端をつり上げて笑った。思わず唾を飲み込んだ。俺は自分で作ったキャラクターに恐怖を感じていた。自分で自分を怖がらせるというかなり危ない精神状態だ。
 怪物は、口の中に隠していた牙を光らせるように見せつけた。吸血鬼とも思えるような、鋭い牙だった。黒いやつは、俺に目配せしながら彼女の背を登っていく。
 俺は重大なことを思い出した。俺の考えたキャラは、人間である主人公の首に噛みついて血を吸うのだ。牙は飾りじゃない。でも、もちろんゲームの中での話。今、目の前で黒い怪物が彼女の首に牙を突き立てようともそれは幻覚に過ぎない。単なる妄想だ。俺の心に描いた生き物が、俺の意志に反して現実の世界で見えているだけで、実在するわけがない。
 
 気がつくと、怪物は彼女の首を掴み、牙を首に刺そうとしていた。噛みつくか噛みつかないかの状態で目線だけを俺の方に向ける。まるで、こいつの血を吸うけれど、いいのか? と訊いているようだった。俺は頬をふるわせ、握り拳を作っていた。
 子憎たらしい怪物は、さあ噛みますよと言わんばかりに、大きく牙を振りかざした。その様子があまりにリアルだったため、俺は思わず声を出した。
「危ない。首に何かがいる」
 首から怪物を払いのけようと飛びついた。彼女は驚いて声を上げた。俺は彼女の首を掴みながら自分で生み出した怪物を探した。しかし、姿を見失った。
 何をやっているんだろう俺は。もともと存在しない生き物を捕まえられるわけがない。
冷静になると、ばかばかしいのと安心した気持ちが入り交じって床にかがみ込んだ。
「何してるのよ。びっくりするじゃないの。今日の秀明はどこかおかしいわよ。変な薬でも飲んだんじゃないでしょうね。だめよ、体調が悪いときはちゃんと病院に行かないと」
 彼女はそう言った後人差し指を口にやった。包丁を使っていた彼女は、俺が飛びついたせいで指を切っていた。
「ごめん。絆創膏を持ってくるよ。待ってて」
 僕は慌てて別の部屋から救急箱を運んできた。そして彼女を見ると、怪物が今度は肩の上で、彼女の指からにじみ出る血を舌なめずりをしながら眺めていた。子供が欲しいものをねだるときのような物欲しげな表情だった。彼女の血を飲みたくて仕方がないらしい。
 僕は目を閉じて、目の前の映像は現実のものではないと何度も自分に言い聞かせた。そして、怪物の姿が消えてなくなっていることを期待しながら目を開けた。
 願いが通じたのか、彼女にとりついていた黒い怪物はいなくなっていた。しばらくしても現れる様子はなかった。ほっとしたら、自然に笑顔が出て、元気も出てきた。
「怪我をさせてしまってごめん。実は、黒い変な怪物が君の体にまとわりついているように見えたんだ。驚いたことにその怪物は、俺がゲームのキャラクターとして考えた生き物だったんだよ」
 俺の真剣な話を、彼女は意味が分からないといった風に眉をひそめて聞いていた。
「体の上を動くだけなら良かったんだけれど、君に噛みつこうとしたからつい駆け寄ってしまったんだ」
「秀明がパソコンの中でデザインした、黒くて、人に噛みつく怪物とやから私を助けようとしたわけね」
 僕は軽く首を縦に振った。彼女は澄んだ瞳の奥に不安さを覗かせながら、僕に近づいてきた。すると、急に彼女の顔から笑顔が消え、震える指先をまっすぐに僕の肩に向けた。一歩一歩、避けるように僕から遠ざかっていく。
「どうかしたのか? 急に神妙な顔をして。山道で熊にでも会ったような顔だぞ」
 俺の言葉を聞いていない様子の彼女は、とうとう壁にもたれ掛かった。壁がなかったら、倒れそうなくらいに怖がっているようだった。そして、次の瞬間には思いもよらない言葉を口にした。
「黒い怪物が、秀明の肩の上に……」
 俺はバネのように飛び跳ねると、
「どこに怪物がいるんだ」
叫びながら体中を確認した。見つからない。俺は床を転がって怪物を体から離れさせようとした。しかし、一向に現れる様子がない。どんなに上手に隠れていても、何度も転がれば姿が見えるはずなのに。
 気がつくと、彼女が手を叩いて笑っていた。笑いすぎて涙まで流している。
「何がおかしいんだよ。怪物はどこだよ。もしかして、逃げ出したのか?」
「怪物なんているわけないでしょ。あんまり真剣だったから、からかってみただけ。秀明が考えた怪物がいるのはゲームの中だけよ」
 彼女の言葉で全身の緊張が解けた。
「何だよ。勘弁してくれよ」
 俺は何度も深呼吸した。
 すべては俺の妄想だ。目を覚ましながら、夢を見ていたのだろう。しっかりと目を覚ませば二度と怪物が目の前に現れることはないはずだ。
 笑うのをやめ、心配そうに俺を見つめる彼女を見ていたら、自分がどんなに間抜けなのだろうかと思えてきた。自分の考えたキャラクターに怯えて床を転げ回ったりするとは、自分で仕掛けた地雷を踏んで爆発するようなものだ。ドジで格好悪い。顔が火照った。
 もう破れかぶれだ。
 俺は、ポケットの中の小さな箱を握った。中にはダイヤの指輪が入っている。今日プロポーズしようと決めて来たのだ。付き合い始めて今日でちょうど三年。節目としては、最適ではないか。
 さっきまでとは違った汗で手の平が濡れた。
 大きく息を吸い込み、
「あのさあ、話があるんだけど……」
 口走った刹那、またしても黒い想像上の怪物が現れた。今度は、彼女の頭の上だった。こともあろうか、彼女自慢の長い黒髪を束にして匂いを嗅いでいる。怪物は俺が飾りでつけた小さな鼻を大きく広げ、髪をねじ込んで満足げに頷いた。
 俺は全身の力が一気に抜けた。

 今日プロポーズするのは、やめにしよう。疲れがたまって、頭がおかしくなっているに違いない。彼女が言うように病院に行った方がいいのかもしれない。とにかく、正常な精神状態になってから改めて告げよう。焦らなくても彼女はいなくなりはしない。
 彼女に帰ることを告げて、玄関まで行くと、また、怪物が彼女の背中から、顔を覗かせた。髪を掴んで頭のてっぺんによじ登ると、優しく彼女の髪をなでた。
 怪物が見せるの満足げな表情は、俺を苛立たせるのに十分なほど憎たらしいものだったが、疲れ果てた俺は、もはや空想の生き物の相手をする気になれなくなっていた。
 俺は、怪物には何も反応しないで、彼女に別れのあいさつを言い、玄関を出た。

 ドアを閉めながら、軽くバイバイと手を振ったとき、怪物はちょうど自慢の牙を光らせ、彼女の首に噛みつく瞬間だった。
「またかよ。もう驚きはしないよ。怪物くん」
 とことん疲れた。早く帰って、寝よう。
 ドアを閉めた途端、中から、叫び声が聞こえた。彼女の声だった。
 助けてと、大声で僕の名前を呼んでいる。聞いたことのない鬼気迫る声だった。
「ついに幻聴までも聞こえるようになったか」
 断末魔の叫び声とはこういうものをいうのだろうな。
 と冷静に考える余裕を取り戻していた。
「デザイナーの仕事を続けていたら、体が持たないな。仕事を辞めて、普通のサラリーマンにでもなるか」
 僕は耳を塞ぎながら立ち去った。
 車に乗る瞬間、彼女の部屋を見上げると、カーテンの隙間から、転げ回る彼女の姿が見えた。怪物から逃げているのだろう。しばらくすると、とうとう彼女は牙の怪物に捕まった。泣きながら振り払おうとするが、怪物は首を掴んだ腕をゆるめようとはしない。
 ピンク色のカーテンに真っ赤な血が飛び散るのを見ながら車のエンジンをかけた。
「さようなら、怪物くん」

END