始まりは学校だった。
昼休み。私はいつものようにクラスメートの奈保子とあかねの三人でお弁当を食べてようとしていた。
授業中とは、空気が違う。さっきまでの身も心も圧迫し、時の流れさえも押しつぶしているような空気とは変わって、心を躍らせるような軽い空気へと、チャイムの音色を合図に一瞬で交換されたようだ。蒸し暑さもやわらいでいるように感じた。
「今日はなんか、お昼になるまで長かったね」
私がお弁当袋の紐を解きながら奈保子に話し掛けると、
「あの嫌ーな、数学の授業があったからじゃない? こっちが分からなくて困っていると逆に笑顔を見せて、サディスティックに難解な問題を押しつけてくるあの態度は何よ。気持ち悪い」
「そうそう、あのカマキリみたいな攻撃的な顔を見るだけで鳥肌が立つわ」
奈保子につられたのか、あかねが得意の毒舌を披露した。独特のハスキーな声で言われると迫力がある。暑さで苛立っているのか言いたい放題だ。
このところ何かに取りつかれたのではないかと思うほど、私の周りでは嫌なことばかりが起こっていたから、昼食のときは一日で唯一心が休まる。彼女たちの愚痴も私にとっては心を落ちつかせる呪文だ。
私の机にお弁当を三つ乗せて、ちょっと狭いけど向かい合って食べる。いつもこうしているから違和感はない。でも、知らない人が見たら、何でそんなせせこましいことをしているのかと疑問に思うかもしれない。
「さあて、今日のお弁当は何を入れてきたんだっけ?」
母には内緒で父の使っていた弁当箱と箸を使っている。少し大きめだけど気に入っている。見ると昨日の晩ご飯の残りが、整然と並べられていた。自分で言うのもなんだけど、ドラクロワの絵画を思わせる色使いだ。私の愛するスイカもばっちり入っている。口に入った瞬間に広がる甘さは、二度と同じものがないといえるほどに繊細で多様だ。夏場には毎日食べないと気がすまない。こんなにスイカを好きなのは私とカブトムシくらいだろう。
「まぁまぁのできかな」
そう言ってあかねの方を見ると、相変わらず少食なのか、筆箱みたいな弁当箱にちまちまとおかずが入っていた。
そんなに少食で体は大丈夫なのだろうか? と余計な心配をしてしまう。特に病気がちというわけではないのだけれど、私から見たら痩せすぎだ。一見、色白で体の弱いお嬢様といった感じだけれど、話をしてみるとゴシップ好きの単なるミーハー娘だ。笑顔を絶やさず、人あたりのよいところは男子にもてそうでうらやましい。
それに引き換え、奈保子はなんだ。がつがつ食べて、お弁当箱を顔の前まで持ち上げて食べているから顔が見えない。ここはどこかの相撲部屋か? と思ってしまう。男っ気なんてまったくない、毎日の食事が恋人。全体重を支えている椅子が心配だ。
なんで高校では給食がないのだろう? と入学当時は本気で思った。別にお弁当も悪くないんだけど、朝早く起きて作るのがめんどくさい。
最初のころは母が父の分と合わせて作ってくれたんだけど、父が亡くなってからは作ってくれない。よっぽどショックだったんだろう。朝早く起きるのが嫌だから作ってくれないというわけではなさそうだ。
しかたがないから自分で作っているけれど、いつも、晩ご飯の残りか電子レンジでチンの冷凍食品に限られている。これでは料理が上手くなるなんてことは一生あり得ない。でも、いい。私が結婚するころには『自動料理機』なるものが登場していて、私の代わりにおいしーい料理をボタン一つで作ってくれるはずなのだ。
「ねえ、理恵の母は体は大丈夫なの? 最近電話でもあんまり元気なさそうだけど」
あかねはよく家に電話してきてくれるから母とも仲がいいらしい。だから、ちゃんと異変に気が付いている。
「うん。あんまり大丈夫じゃないかも。情緒不安定というか、精神的にかなりまいってるみたい。昨日も一点を見つめたままで、しばらくボーっとしていたの。私が話し掛けても気が付かないし、何を考えているのかわからないの」
本当に母は、父を愛していた。そんなに一人の男性を愛し続けることができるのかと不思議に思ったくらいだった。母が父を思いやる気持ちが、言葉に表さないでも伝わってきていた。ちょっと羨ましかった。でも、その反動で、いまだに立ち直れずにいる。私もこの先、恋人ができて結婚したとして、同じように夫を亡くしたらそんな風になるのだろうか?
「私、お見舞いに行こうか?」
あかねが優しく言う。
「そうね。きっと喜ぶと思うわ。お見舞いというか話し合い手になってあげて欲しいの。私との会話にも飽きてるだろうし、妹はまだ小学生だから自分のことで精一杯」
妹のマリは、髪は長く、目のくりっとした愛らしい顔をしている。長い髪の方が毎日色々な髪型に変えることができると言って伸ばし続けている。私はシャンプーのあとに乾かすのが大変だからショートカットを愛用している。妹もお父さんがいたころは悪戯ばかりしていたけど、今は大人しくなった。ああ見えて結構気を使っているのかもしれない。こちらとしては、今まで通りに明るく悪さでもしていてくれたほうが逆に気が楽なのに。
「相手の人の容態はどうなの?」
奈保子が話に割って入ってきた。
相手の人というのは、事故のときの相手のことだ。お父さんは、三週間前に会社からの帰宅途中、ダンプカーと正面衝突した。事故直後はまだ意識はあったらしいが、病院に着く直前で亡くなった。相手の運転手が飲酒運転ということで全面的に悪いのだけど、死んだ人は返ってこない。
何度あやまられても許す気にはなれない。行き場のない怒りが、ダムで堰きとめられた水のようにじわじわと貯まっていく。このダムが決壊した時、私はどうなるかわからない。
「あの人は、大した怪我じゃなかったみたいだから、もうじき退院するんじゃないかな? でもちょっと、悔しいな。本音を言うなら、もうちょっと苦しんで欲しいわ」
「そうよね。理恵のお父さんは死んでしまったのに、その人は元気にすぐ退院だなんて、納得できないわ」
奈保子は口惜しそうに舌打ちした。ほっぺたがしばらく揺れた。
「そうかしら。私はその人も、もう十分苦しんでると思うわ」
あかねがうつむきながら、元気のない声で言った。
いったん話を止めて、私の目をじっと見た。
「事故をした瞬間から、身をすりつぶしていくような苦しい思いをしていると思うわ。相手が死んでいるのに自分が無傷なんて、それほど苦しいことなんてないわ。交通事故を起こして、しかも、相手が死んだことを知ったとき、本人がどういう思いになるか考えたことある?」
か細い体から発せられる言葉の一つ一つが私の全身に滞留している。
あかねの言うとおりだ。望んで事故をする人なんていない。しかも、事故の相手が死んでしまったとなると、その後生きていくのは大変だ。周りからは殺人者のようにささやかれるかもしれないし、遺族からは一生恨まれることになる。テレビで事故のニュースを聞くたびに思い出すだろう。下手をするとそのときの体験がトラウマになって、一生車を運転できなくなるかもしれない。
もう一人の人生を背負っていけるほど人は強くはなれない。苦しみという十字架をお墓に入るまで抱え続けなければいけないということは死ぬよりも苦しいことだ。
「ごめんね。あかねの言うとおり、あの人はきっと心の中で十分過ぎるほどの苦しみを味わっているわ。なんか悪いことしちゃったな。こないだ会ったとき、無視し続けちゃったから。今度会うときは、ちゃんと向き合って話をするわ」
そう言ってはみたものの自信はない。あかねの言うことは理屈では分かっているつもりなんだけれど、感情は理屈通りにはいかない。自分ではコントロール不可能だ。苦しんでいることが分かっていても普通に会話することはできないと思う。
「二人して真剣に会話しちゃって、楽しくないわよ。あ、そうそう、二年四組の佐伯香織ちゃんのことなんだけど、知ってる?」
いきなり奈保子が強引に話を変えた。私にとってはもっと楽しくない話だ。
「知ってるも何も、今校内で大騒ぎじゃない。自宅の自分の部屋で首を吊って自殺したって。三日前だっけ?」
とあかねは、はしゃいだ様子で言った。
佐伯香織、一年の時に同じクラスだった。高校になって、初めてできた友達が彼女だった。活発なスポーツウーマンだった彼女が自殺をしたという知らせを聞いた時は、嘘だと思った。お父さんに続いて友達まで亡くしてしまうなんて信じたくなかった。
「あんな明るい子が自殺するなんて不思議よね。だってそうじゃない。今度の生徒会長選にも出ようとしていたんじゃない?」
という私の問いかけに、あかねは、
「そうそう、分からないのよね。新聞では、受験勉強を苦にしたのだとか書いてあったけど、四組の子に聞いた話では、自殺したその日も学校では普段通りで、その日の夜やるドラマを楽しみにしていたらしいのよ。ちょうど最終回だったから。でも、それを見る前に亡くなっちゃった。クラスの全員が自殺する理由がわからないって言ってるらしいわ」
「観る前に? 楽しみにしていたドラマを観れないほど追い込まれていたってことかしら? 何にそんなに追い込まれていたのだろうね? 私は去年同じクラスだったけど、やる気に満ち溢れていて、バイタリティの塊って感じだったわ。だから、いまだに人違いなんじゃないかと思ったりもするの、絶対、受験なんて気にするような子じゃなかったわ」
私は絶対を強調して言った。そう言ってはみたけど真実は分からない。表向きは明るい活発な女の子を演じていても、内面では繊細で傷つきやすかったのかもしれない。誰にも相談できずに独りで悩んでいたのかもしれないのだ。
「ちょっとしたミステリーよね。彼女の自殺の動機は何だったのか? 優等生がなぜ自殺しなければいけなかったのか?」
あかねは、あごを人差し指と親指で挟むと眉をひそめながら首を横に振った。二時間ドラマミステリーで探偵役の女性がする仕草を真似しているのだろう。
「ふふっ、君たち甘いわね」
と不敵な笑みを浮かべながら、奈保子が言った。
「何が甘いってい言うの?」と私。
「何がって全部よ。私がさっき言った。『知ってる?』っていうのは、自殺したことじゃなくて、なんで香織が自殺したのか知ってる? ってことよ」
「えっ? 奈保子は香織が自殺した動機を知ってるの?」
これは聞いておかなくてはいけない。慌てて私は聞いた。
「まあまあ、そんなに焦らないで。」
と言って、両手を前に出して上下に振った。
まったくじれったい。ご飯をお預けにされている犬の気分。早く教えて欲しい。
「動機というより、理由ね。絶対にそれが正しいとはまだ言えないんだけど、ヒントになることを知ってるわ」
動機じゃなくて、理由ってことは自発的な自殺じゃなくて作意的なものだったということだろうか。
「ヒントって?」
「彼女が自殺した時部屋の中には、書き置きらしきものとか、メッセージらしきものは一切なかったっていうのは知ってるわよね?」
「うん。知ってるわ」
「でも、不思議なものが有った。前日までは無くて、当日現場に残されていたもの」
「何?」
まったく、いつまで焦らすんだろう。
「香織が自殺しているのをお母さんが発見したとき、不思議なことにテレビが付けっぱしだったらしいの。しかも、ザーっていう砂嵐になっていたから奇妙に思ってよく見ると、ビデオを再生していたことが分かったの。ちょうど十二分のところで止まっていたんだって」
「それのどこが自殺した理由のヒントなのよ。ただ単にビデオを見ていただけなんじゃないの?」
くだらない。ビデオを観ていたってことのどこが自殺のヒントだっていうのだ。そういえば、ちょっと前に観たら死ぬというビデオを題材にした映画がやっていたけど、まさかね。
「ところが、違うのよ。普通、ビデオってカセットを入れて再生してから時間がカウントされるわよね。ということは、十二分で止まっていたから、そのテープを十二分観たことになるわ」
「そんなの当たり前じゃない。テープを再生するか早送りしないと十二分にまでならないわよ」
「でも、それはできなかったのよ。あの場合にはね。なぜならデッキから取り出されたビデオにはテープが付いていなかったのよ」
「えっ、テープがなかった?」とあかね。
「テープって、あの黒いセロファンみたいなやつでしょ? それがなかったってことは軸だけだったってこと?」
「そう、テープ以外は普通のビデオテープと何ら変わりないの。でも、不思議だと思わない? 十二分で止まっていたってことはビデオを観ていたってことだよ。テープがなかったら観れないのに」
「てことは誰かがテープだけ抜きとたってことかしら?」
私はもっとも単純な推理をした。
「そこが一番難しいところ。ビデオデッキに入っているビデオカセットからテープの部分だけを抜き取るなんて、手品みたいにトリックがないと無理だわ。だけど実際にはそれが行われている」
「そうか、言いたいことは分かったわ。つまりこういうことでしょ。香織は確かにビデオを観ていた。しかし、そのビデオテープを十二分まで観ると自殺した。その後、テープの部分だけ誰かが何らかの方法を使って持ち去った」
「そういうことね。だから、そのテープの内容がどんなものだったかが分かれば香織が自殺した理由も分かるはずよ。というか、自殺じゃなくて他殺かもしれないわ。そのテープを持ち去った人物が犯人よ」
消えたテープか。もし犯人がいるとすればどんなトリックを使ったのだろう? 見たら自殺するテープを作り、奇妙な方法で消滅させるトリック。そんな方法があるのだろうか。
もしほんとに犯人がいるのならビデオテープをデッキから取り出して持って行ってしまえばいい。その方が簡単で確実だ。中途半端にテープ以外の部分を証拠として残していくなんて何を考えているのだろうか。
自殺か他殺かという問題も興味深い。この世の中を生きている人間は多かれ少なかれ生きようという意思を持っている。自殺する人はその意思を失ったのだから、ある意味自業自得、死んでも仕方がないとも思える。自殺しようとした瞬間、誰かに説得されて自殺を止めたとしてもその先の人生を強い意思を持って生きていくことは難しいだろう。だけど、他殺はまったく逆だ。生きる意思を持った人間をこの世から消してしまうという行為は、絶対に許されるものではない。それが故意であったのならなおさらだ。
「あっ、そうだ。もう一つ謎があった。香織の死体にあったナイフがかすったような傷跡」
私は思い出して言った。
「何ヵ所かにあったらしいわね。自殺の前のためらい傷かって報道されていたけれど、手首を切って死ぬならともかく、首とか太ももにもあったんでしょ?」
「手首にもあったらしいから、最初はナイフで自殺しようとして、いろいろ試したんじゃない? 結局できなくて、首をつった……」
あかねの意見は正しいのかもしれない。それが一番自然だ。だけど、疑問が残る。それは彼女の部屋からはナイフが発見されていないことだ。ナイフで付けた傷だとすると、そのナイフはいったいどこへ行ってしまったのだろうか? やはり自殺じゃなくて他殺なんじゃないだろうか。
私が天井を見上げながら妄想にふけっていると、
「二人とも、それが人間の仕業だと思うの? 霊よ。霊がやったんだわ」
あかねは目を細めながら、おどおどろしい調子で言った。ハスキーボイスが耳に残る。
単純な思考が羨ましい。
(犯人がいるとしたら今はどんな気持ちでいるんだろう)
弁当箱を鞄にしまいながら窓の外を見ると、グラウンドの向こうにある小さな工場の煙突から真っ黒な煙が、新たに生み出された生きもののように、天へと昇っていくところだった。
学校から帰る途中、晩ご飯の食材を買うためにスーパーに寄った。初めてのときは、おばさんの視線が気になって、制服のまま入るのには抵抗があったが、今では何のためらいもなく買い物ができる。学校帰りの私の役割としてすっかり定着してしまった。
(今日の晩ご飯は何にしようかな)
もちろん作るのは私ではない。
ほんの数週間前までのように、学校帰りに奈保子らとファーストフードの店で、だらだらと無駄なお喋りをするのが日課だったころが懐かしい。
皮肉なことに父が亡くなってから、母との会話が極端に増えた。母は学校であったほんの些細なことでも楽しそうに聞いてくれる。私にとってはそれはうれしいことだし、母も独りきりできっと寂しいのだろう、私との会話の最中だけでも、つらい気持ちから解放されてくれたらいいと思う。
買い物を手早く済ませると、スーパーを後にした。
肌を刺す紫外線の攻撃に耐えながら、一定のリズムで歩いた。家に着いて、玄関に向かおうとして、ふと立ち止まった。ポストに封筒らしきものが入っていることに気が付いたからだ。入り口に強引に突き刺したのか、ほとんどの部分が外に飛び出して今にも落ちそうだ。
(何だろう?) そう思って引き抜いた。
厚手の大きめの封筒の底に何やら四角い箱のようなものが入っているのが手触りで分かった。表面には宛先らしきものは何も書いていないし、裏にも差出人の名前はない。誰かが間違えて入れたのかもしれない。
振ってみるとカタカタと音がした。
(ひょっとしてビデオかしら?)
学校での奈保子の話を思い出してそう思った。香織は自殺する前にビデオを見ていた。そんな話を聞いた後だから中身を見るのに抵抗があったが、好奇心に負けて、封筒を少し破って中を覗いてみた。
中にはビデオテープが一本入っていた。ラベルは貼っていない。テープはちゃんと入っているようだ。
急に心臓が騒ぎ始めた。
このビデオを見るべきか、見ざるべきか。ハムレットのように自問自答した。
考えられることは二つ、一つはこのビデオは私たち家族三人の誰かに対する贈り物で、何かのイベントのときに撮影した映像。渡そうと思って持ってきたが、誰もいなかったからポストに入れておいた。それなら、家の中に入れば留守番電話にでもメッセージが残っているはずだ。実際には母がいたんだろうけど周りの声なんて耳に入らない状態だから、気が付かなかったんだ。
もう一つは、香織を殺した犯人が、同じトリックを使って私を殺そうと思って入れておいた。この考えは可能性としては低い。私は誰にも恨まれるようなことはしていないし、単なる女子高生の私を殺してメリットがあるような人物もいないはずだ。とにかく、まずは家に入って留守電を確かめよう。
家の玄関のドアを開けると、ビニールハウスに入るときのような湿気を含んだ重い空気が流れ出てきた。
玄関とつながっている台所では母が椅子に座りながらうつらうつら眠りかけていた。
私は買ってきた食材をゆっくりと音を立てないようにテーブルに乗せようとしたが、母は目を覚ました。
「おかえり」
しゃがれた声でそう言った。声を出すのも辛そうだ。
きめ細やかだった白い肌は今ではしわだけが目立ち、生気が感じられない。特に顔の変化は著しい。口紅を塗らなくても真っ赤だった唇は青白くなり、若さにあふれていた澄んだ瞳はノックアウトされたボクサーのようなぼやけた目になってしまっている。自慢だった黒髪も消えて、白髪に支配されている。
「ねえ、お母さん。今日誰か来なかった?」
私の質問に母は首を横に振って答えた。
いつもならなんとも思わない母の何気ない仕草が今日は気になった。胸の中で小さな風船が破裂するような感覚だ。それは以前から何度も味わった感情で、母への憎しみとも思えるものであることは分かっていた。
父が亡くなった前の日の晩、母と父はちょっとした喧嘩をしていたようなのだ。すでに寝ていた私はトイレに行こうと部屋を出たが、台所から聞こえてくる父のどなり声に驚いてその場で立ちすくんだ。
「前から訊こうと思っていたんだけれど。事故の前の日、お父さんと口喧嘩していなかった? ちょっと大きな声が聞こえたから気になっていたんだけど….」
どんなことで言い合っていたのかは分からなかった。両親の口喧嘩はどういうわけか聞いてはいけないと本能的に感じてしまう。あのときも何も聞かないうちに部屋に逃げ込んだ。
「……」
母は何も答えずに鋭い目をこっちに向けた。背筋に電流が走る。こんなにも怖い顔をする母を見たことがない。
水道の蛇口から水滴が一粒ぽたりと落ちた。その音が耳の中でこだまする。
(私に教えたくない内容なのだろうか?)
それならそれで仕方がないことだと思った。両親にも子供に知られたくない話もあるのだろう。
そう考える一方、
(母が父に対してもう少し優しかったら……)
という感情が自然に湧いてくる。母が父に優しく接していたら喧嘩なんかしなかったんじゃないのか。事故は起きなかったんじゃないのか。父が死ぬことはなかったんじゃないのか。そう考えてしまう。
これが母に対する憎しみの感情なのかどうかは、はっきりと認識できなかった。
「マリはもう帰ってきてるの?」
妹のことは今はどうでもよかったけど、母の視線に耐えられなくなって口を開いた。
母はふり返りながらマリの部屋の方を指差した。部屋にいるよという合図だ。
妹の部屋は一階で、私の部屋は二階にある。私も小学生のころは階段が急で危ないという理由で一階の部屋を使っていたが、誰も使っていない二階の部屋のほうが広いので、中学二年のときに移った。危険だと言われた階段も、確かに最初は怖かったけど、一度も転んだことはないし、けがをしたということもない。だからといって安心しているわけではない。あれだけ急な階段を転げ落ちたらただじゃ済まないことは十分理解している。
「食事の準備の前に着替えてくるから、ちょっと待ってて」
そう言い残すと、鞄のかげに封筒を隠しながら、階段を上った。
階段の軋む音が、いつにも増して響いた。
部屋に入ると、着替えるのは後回しにして封筒からビデオテープを取り出した。
台所の電話に留守伝は入っていなかった。私の部屋の電話にも、携帯にもメッセージはない。そうなると、誰がこのビデオテープを持ってきたのだろうか? やはり殺人狂の死へのテープなのだろうか? いや、そんなばかな考えをするのはよそう。きっとまだ電話していないだけなんだ。妹宛かもしれない。とにかく観てみたら分かるだろう。妹のだったら渡したらいいだけだ。
テレビを付けて、ビデオテープをデッキに刺し込んだ。
しばらくモーターの音がした後、再生された。
最初に映し出された映像を見て、全身が硬直した。どこかの高校の門を正面から撮影したものだったが、よく見ると自分の通っている高校だった。門の正面は民家だけど、その中から撮影したというのか。
(何これ? 誰かの悪戯かしら)
ちょうど下校時らしく門から次々に生徒が出てくる。盗撮映像らしい。
「あっ、私だ」
思わず声を出して、画面に顔を近づけた。
いつ撮影されたのかわからないが、カメラには気が付かないで、汗を拭きながら歩く自分の姿を確認した。
(この映像はいつなんだろう? 昨日? おとつい? 一週間前? 知らない間に撮影されていたんなて気持ち悪いわ)
しばらくすると場面が変わった。学校帰りによく立ち寄るスーパーの入り口を正面から撮影していた。入り口にその日のお買い得の野菜が所狭しと置かれている。私がスーパーに入っていくシーンも正確に映されていた。
(これは他の誰でもない。私を狙って撮影したものだわ。なんの目的があってこんなことを……)
そう思ったとき、香織のことを思い出した。彼女ももしかして同じような映像を見ていたのではないか? 次第に、部屋の空気が青ざめていくのを感じた。瞬きもしないで画面を見つめた。
私はスーパーから出て、周りを気にすることもなく、家に向かって黙々と歩いていた。編集してあるのか、ビデオが始まって数分で家まで到着した。
「そんな、あり得ないわ。どういうことなのよ、いったい」
画面に向かってうったえるようにして言った。私は心臓がガラスになって砕け散るような衝撃を受けた。
そこに映し出されていたのは、私がポストからこのビデオテープが入っている封筒を取り出す場面だった。目に映る動作すべてが今さっき行ったものだ。
(この映像は、昨日でも、一週間前のものでもない。今日の行動を映したものだ)
その事実が分かっても疑問が残る。このテープに、このテープを取り出すところを撮影することは不可能だ。どんな方法を使おうとも、すでに手に取られたビデオテープに撮影し続けるなんてことはできるわけがない。
体の奥から得体の知れない恐怖感が押し出してきて、ビデオを止めようと停止ボタンを押した。
「どうして止まらないの?」
慌てて何度も押すが、ビデオは再生しつづけた。頭の中がパニックになって、早送り、巻き戻し、電源と、あらゆるボタンを押したが何も反応せず、再生だけがされた。
その間にも、画面の中の私は、部屋に入り、ビデオを観始めている。再生時間は七分経過した。
(どうしよう。何がなんだかわからない)
突然電話が鳴った。背筋をぴんと伸ばした。一瞬心臓が停止したかと思った。
(何、何? テープの次は電話?)
暴走し始めた心臓をなだめるように胸に手を当てながら、ゆっくりと受話器に手をかけた。手が震える。
「も、もしもし?」
目を瞑りながら、小さな声でいった。
「あっ、理恵? 私、あかねだけど」
「なんだ、あかねか」
安心して呼吸が楽になって続けた。
「どうしたの? 電話してくるなんて珍しいじゃない」
「どうしたもこうしたもないわよ。私のところにビデオテープが送られてきたのよ」
「えっ?」
「封筒に入っていたんだけれど、今から観るところ、ちゃんとテープは付いてるわよ」
「待って、そのテープを……」
『観ちゃだめ』と言おうとした瞬間に通話が途切れた。
(どうしよう。あかねのところにも同じテープが送られてきている)
しかし、不思議なテープではあったが、これを観たからといって死ぬということはなさそうだと判断して、あかねに連絡するのは止めた。あかねのことだから以外に楽しんで観るかもしれない。
その間にもテープは進んでいた。
画面をしばらく観たら、思考がストップしてしまったかのように、動きを止めてみ入った。遠くで階段を上ってくる音が聞こえた。
二次元の私はついに、三次元の私と同じ時間軸を持った。私が右手を上げれば、彼女も右手を上げた。この時はすでにすべてを受け入れ始めていた。なんの疑問も感じないで、画面を薄笑いすら浮かべて眺めた。
視界の隅のほうで、ドアが開くのを見た。
「何をしているの?」
話し掛けられて、母が入ってきたことに気が付いた。
はっとして画面から目をそらして、母を見た。再生時間は九分経った。
母は視点の定まらない目で私のほうを見ていた。
「ビデオを観てるの」
何も考えないで棒読みで一言だけ言うと、すぐに画面に目を戻した。
母に話し掛けた一瞬の間に、画面は砂嵐へと変わっていた。ザーザーと音を立てて、さっきまで映っていた映像は消えていた。
テープはかってに早送りされだした。
(もう終わりなのかしら)
確かに不思議な映像だったけど、やはりこれで自殺したり、殺されたりすることはなさそうだ。どんなトリックを使ったのか分からないけど悪戯にしては手が込んでいる。それにしても、映し出される映像にはなぜだか引き込まれてしまう。画面の中から見えない手が何本も出てきて全身を捕まれているという感覚に近い。
十一分四十五秒まで早送りされたところでもう一度再生された。
ぼやけてよく見えないが、女の人が一人立ってこっちを見ている。白髪がゆらめいて気味が悪い。左手に何かをぶら下げているようだ。丸い形をした黒っぽいもの。右手にも何か長細い光るものを持っている。
次第にピントが合い始めると映っているものが何か理解できた。
(えっ、これは……、母だ)
画面の中の母は今日着ている服と同じ。画面奥のほうには何やら全体が黒い物体が横たわっている。太い丸太のようにも見えるが、丸太はあんなに黒くない。
母がぶら下げているものからは赤い液体が流れ落ちている。それを引きずりながらゆっくりと歩いた。口を半開きにしてうっすらと笑みを浮かべている。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
(母がぶら下げているのは、誰かの生首?)
長い髪の毛を手に巻きつけて、持っているのだ。私の背中を冷たいものが流れ落ちた。
この映像は何を意味しているのだろう。これまではすべて今日あったことを映していた。ということはこれから起こることを映しているとでもいうのだろうか? だとすると母が、これから誰かの首を切断するということになる。でもいったい誰の首だというのだ。私はこの画面の中の生首のように長い髪はしていない。耳に掛かる程度のショートカットだ。
急に息苦しくなった。
空気を吸い込もうと、口をいっぱいまで開けるが上手く呼吸することができない。
首に手を持っていくと何かに触れた。生温かい。
「お母さん?」
声にならない声でそう言った。
首に触れたものは母の手だった。私の首は母の手によって締め付けられている。
じわじわと確実に力が増していっているのがわかった。
振りほどこうと母の手を掴んだが、力が入らない。掴んだ手はそのまま床に滑り落ちた。
もう、指一本動かすだけの力も残っていなかった。
(お母さん、どうして?)
そう考えるのが精一杯だった。意識は遠のき、母の指先が私の喉にめり込んでいくときの骨と筋肉との軋み合う音だけが皮膚を伝わり、脳で感じられた。
母は左手で私の喉を掴みながら、右手でビデオデッキの取り出しボタンを押し、ビデオテープを取り出した。
私は失いかけた意識の中でその光景を見ていた。
息使いを荒くさせながら、ビデオテープ本体を床に置くと、右足で押さえ、テープだけを引き出し始めた。母の横にはすぐに黒いテープの山ができた。
テレビの明かりで照らされた母の横顔は、日本人形のように無表情で、蒼白だった。
(何をしているの?)
意外にも冷静にその様子を眺めた。
テープをひとしきり出し終えると、そのテープを私の首元に持ってきた。
(やめて)
そう叫んだつもりだったがもちろん声は出ない。
母は私の首にビデオテープを巻き始めた。テープの擦れ合う音が、一定のリズムを刻んで何重にも巻きつけられた。
このとき死を覚悟した。
母は手を休めず、首から肩、胴体と順番にテープを巻きつけていった。私はいつの間にかに黒いミイラのようになった。腕や首など肌の露出した部分は、テープの縁で傷つけられて出血した。痛みは感じなかったが、涙だけは出た。
最後に私の顔にテープを巻こうとして、母の手が頬に触れたときに、さっき見た映像を思い出した。
(画面の奥のほうで横たわっていた黒い固まりは、私だったんだ)
あのビデオテープの映像は未来を映し出していた。盗撮映像なんかじゃなかったんだ。死が近づいている者への警告、それとも、地獄への招待状? もうこの際なんでもいい。これで私は父のもとに行くんだわ。香織と同じ運命。彼女は自殺なんかじゃない。母に殺されたんだ。私と同じように。
香織の体に残っていた傷は、ナイフではなかった。テープの端で傷ついたんだ。
そして今頃、あかねも……。明日になれば母は平然として言うのだろう、「娘が自殺しました」と。
(香織もあかねも母に恨まれるようなことがあったのだろうか? 自分の子を殺してしまうほどの憎しみが)
私には心当たりがあった。母には言えない秘密を抱えている。それがバレたのかもしれない。もしかしたら、父と母の喧嘩はそのせいかもしれない。あのとき私は本能的にそれを感じて、話を聞けなかったのだろう。
だったら、この結末もしかたがない。心残りなのは……。その刹那にある考えが浮かんだ。
(さっきの映像の中で母が持っていた生首って、もしかして)
あの長い黒髪は私が毎日見ていた黒髪。柔らかく、若さ溢れるつやのある髪だ。
それが分かったところで、もうどうすることもできない。
顔にもテープを巻かれ、目の前からすべての光が閉ざされたとき、意識を失った。
誰かが右の肩を揺り動かしている。やさしく、ためらいがちに動かしている手は女性のようだ。動きはしばらく続いた。
「理恵、理恵」
名前を呼ばれている。声には聞き覚えがあった。この特徴的なハスキーな声は少し苛立っているようだ。
「理恵、起きてよ」
はっとして目を開けると、私を不安そうな目で見つめる女性がいた。あかねだ。
「いつの間に寝てたのよ」
一瞬、状況を理解できなくて数秒間、思考が止まった。部屋の中は薄暗く、テレビの明かりだけが、顔を浮かび上がらせていた。
(私はさっき母にテープでぐるぐる巻きにされたはず)
そう思って、自分の体を慌てて見たが傷一つないし、触ってみても血なんてどこにも付いてない。母の姿はなく、代わりにあかねと奈保子の姿があった。
「もうビデオ終わっちゃったよ」
今度は奈保子が話し掛けてきた。
「ビデオ見たの?」
ビデオという言葉に反応して、大声を出したのに驚いてあかねが、
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。確かに理恵が観たいって言うから選んだ作品だけど、途中から寝てたんだからしょうがないでしょ? 起こそうかとも思ったんだけど、色々あって疲れているんじゃないかと思ってやめたの」
あかねの言葉で思い出した。あかねと奈保子が学校が終わったあとにお見舞いに来てくれたんだ。私の観たかったホラー映画のビデオをみんなで観ようということになったんだけど、雰囲気を出すために、部屋のカーテンを閉め、電気を消していたためいつの間にかに眠ってしまったんだ。
(そうか、全部夢だったんだ。よくよく考えれば、そんな不思議なビデオがあるわけないし、母が私を殺そうとするなんて有り得ない。すべて夢だったんだ)
そう考えると、安心した。父と香織が亡くなったのは現実だけど私は無事だ。でも、私が夢の中で考えたように、香織は母に殺されたのだろうか?
冷静になってから、あかねと奈保子を見ると、ビデオを見終わったばかりで気分が盛り上がっているのか、少し怖がっている様子だ。内容は、怪人役の男が次々と若い女性を殺害していくというオーソドックスなホラーだった。途中までしか観ていないので詳しいことは分からない。
階段をゆっくりと上る音が聞こえた。この階段の軋ませ方は母だ。
私は夢を思い出してびくっとして、ドアの方に目をやった。
ドアを開けたのはやはり母だった。その両手に持っているものを見て、思わず声を出した。
「お母さん、それってもしかして......」
母の姿に動揺して、立ち上がって、二、三歩後ろに下がった。床に置き去りにされていたテレビのリモコンを踏みつけて体勢を崩した。
母は右手に包丁、左手には何か黒い塊をぶら下げている。間違いない、誰かの生首だ。長い髪を手首に巻きつけている。生首はまだ切ったばかりなのか、血が滴り落ちていた。ぽつりぽつりと絨毯に血の染みが出来ていく。
暗い部屋の中を恐怖だけが支配した。
「理恵、どうかしたの?」
何が『どうかしたの?』だ。夢と同じだ。父を亡くしたショックで精神的におかしくなっているんだ。
何も考えられなくなって母に飛びかかった。私のタックルは母を直撃した。
持っていた首は、宙を舞って床に当たった。割れた頭からは脳味噌が飛び出した。生臭い匂いが漂ってくる。
「どうして、マリを殺したの? 同じ家族じゃないの」
あの長い髪、妹のマリに間違いない。マリの首だ。
(母は狂っている)
心の奥に塞き止めていた感情が一気に溢れ出した。止めるものがなくなった感情は無尽蔵に拡大していった。
そのまま母を部屋の外に押し出し、正面の壁に叩きつけた。
気が付くと、私は母を階段の下に突き落としていた。首は九十度の角度に折れ曲がり、落ちる途中に舌を噛んだのか、赤い泡を吹いている。いつの間にかに包丁は母の腹に深々と刺さり、真っ赤な血が止めどなく流れ出ていた。
目に映る、ぴくりぴくりと動いている指先が、私の心を震えさせる。
(どうしよう。どうしよう。大変なことをしてしまった)
今のは正当防衛。殺人犯の母を事故で殺してしまっただけ。そう自分に言い聞かせても、動悸はおさまらない。こうするしかなかったのだろうか? なんとかして母を止める方法があったのではないのか? そんな考えが次から次へと自分を苦しめるように浮かんでくる。
部屋の入り口で電気を付けて部屋をふり返ると、あかねと奈保子が美術室の彫刻のような顔をして固まっていた。母が階段から転げ落ちるときの絶叫を聞いたからだろう。なんて声を掛けたらいいかわからない。今のはわざとじゃない、母は運が悪かったんだとでも説明したらいいんだろうか。
私が部屋に入って近付こうとすると二人も慌てて立ち上がり、部屋の隅へと後退りした。
あかねが部屋の床の一箇所を指差して、
「理恵、あれ……」
と言った。指先は震え、場所がしっかり定まっていない。
「何?」
私は誘導されるままにその方を見た。それはさっき、母の持っていたマリの顔が転がっていった場所だ。
「そ、そんな。まさか」
現実が私に襲いかかる。
(あの、丸くて中が赤いものは……)
狂っていたのは母ではなくて私。すべての事実がそう告げている。鏡の中のもう一つの世界に紛れ込んだ、そんな気がした。
めまいがしてひざまずいた。
今度は夢じゃない。母は階段の下、生きてはいまい。私が殺したんだ。階段から突き落したときに感じた母の体の温もりが今になって蘇ってきた。右手の掌がじんじんしている。
目の前の、机の上に置かれた鏡の中をふと見た。
「うぎゃー」
思わず声を出して、顔を両手で挟み込むようにして触った。撫で回してみても何も変わらない。
ぼやけた目で青白い唇をした、白髪の女性の顔があった。夢の中で見た母の顔だ。生気のかけらもない。
父の死のショックを一番受けたのは母ではなく私だった。母は私たちを心配させまいと気丈に振るまい、悲しみを乗り越えようと今まで通りの生活をした。洗濯、掃除も完璧にこなし、笑顔も絶やさなかった。とくに、苦手だった料理を懸命に作る姿には心をうたれた。それに引き換え私は変わってしまった。父を失うと同時に生きるわけを失ってしまったんだ。
鏡を手に取ると壁に叩きつけた。甲高い音がした後、鏡の破片がぱらぱらと零れ落ちた。
父の笑顔を見ることが楽しみだった。そのためなら何でもした。嫌いな勉強もした。好き嫌いしないで何でも食べた。そう、今ならはっきりわかる。私は父を愛していた。
あれから一日たりとも学校には行っていない。そんな私をあかねと奈保子は見舞いに来てくれた。母は献身的に私を看病してくれた。夢の中に出てきた母の顔は私、私は母だった。
(あの夢は母と私が倒錯した映像だったのか……)
大好きだった父。私の手作り弁当を二度と食べてはくれない父。その面影が脳裏に浮かんで、涙が自然に溢れて頬をつたった。父が事故死した前日、父と口喧嘩になったのは私だ。そのとき思わず言ってしまった言葉が頭の中で何度も繰り返された。
『父さんなんか、死んじゃえ』
あれは本心じゃない。父には生きていて欲しいに決まっている。
(あんなこと言わなければ父は死ななかったかもしれない)
そう思って何度後悔しただろう。
暗闇の中であかねのすすり泣く声が、耳に充満していた。
父に続いて母までも……。私は生きる意思を持った人間を殺してしまった。
(これが、人を殺したときの気持ちか……)
父と事故をした運転手の顔が頭をよぎった。
家の外からセミの鳴く声が聞こえた。力強く、精一杯生きているものの声だった。
(私はこれから生きていけるのだろうか?)
あかねが指差した場所をもう一度見た。あれは私の大好物。夏には必ず毎日食べる大好物。スイカだ。網に入れて、氷水で冷やされたスイカ。母が持ってきてくれた。私のために。
今はもう、砕け散って、脳味噌のような果肉を剥き出しにしてる。
END
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