目を覚まし、デジタル時計を掴んだ。カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めながら時刻を確認する。
七時三十分。
腕を天井に伸ばしながら大きなあくびをした。
今日は目覚ましが鳴るよりも早く起きることができた。
自然に目が開くなんて珍しかった。いつもなら熟睡している時間なのに、今から行う挑戦のことを思い、気持ちが高ぶっているせいだろうか。
ベッドから降りて、カーテンを開け、太陽の光を思いきり浴びた。すーっと目が覚めていく。窓から、家の前の道を犬を散歩させている老人が見えた。時折立ち止まっては、犬に優しく頬笑んでいた。
――最後の実験の日。うまくいけば明日からは別な世界の住人になれる――
それはオーバーかもしれなかったが、とにかく今とは違った生活が待っている。
髪の毛も整えないまま、洗面所にふらふらと歩いていった。
「あら、丸須。おはよう。今日は早いのね」
母だ。ちょうど洗濯物を運んでいるところに出くわした。手に持った籠には衣類が山のように入っていたが、足早に歩いていた。眠たさを感じさせない機敏な動きはいつも感心する。
「僕もたまには早く起きるよ」
「じゃあ、今日は雨ね。洗濯物は家の中に干さなきゃ」
母は、笑顔を一瞬見せてから立ち去った。
たまにはと答えたけれど、今日が最後になるかもしれない。僕が居なくなったら母は心配するだろうか?
母の後姿を眺めながらそう考えた。
最近、洗面所の鏡を見て、父に似てきたと感じるようになった。
父は、今から二十年前、僕が中学三年の夏に亡くなった。
突然のことだった。仕事を終えて帰宅途中に、飲酒運転の車に跳ねられ即死。
「一分先の未来も分からない。だから人生は楽しい」
父の口癖が、いまでも心に残っている。そのとおり、一分先の未来が分からなくて父は死んでしまったのだ。だから、僕は一分、いや、何年も先の未来を知りたい。先を知っているから楽しいし、危険を回避できる。それが人生だ。
僕は口に含んだ水を、力いっぱい吐き捨てた。
「ねえ、母さん」
味噌汁を一口飲んだあとに言った。
「どうしたの?」
「僕がこの家から居なくなったら困る?」
母は箸を止めて、
「別に困らないわよ。あんたも、もう三十五なんだし、ひとり暮ししたいならしたらいいと思ってるわよ。あっ、もしかして、恋人でもできたの?」
「そういうわけじゃないんだけど、ただ訊いてみただけだよ」
ああ言っているけど、強がっているだけだということはすぐに分かった。父が亡くなってずっとふたりで生活してきた。考えていることなんか言葉に出さなくても伝わってくる。
「今日の昼頃に到着ね」
母が新聞を見ながら言った。
「ちゃんと、着陸できるのかなあ? 月に行くのとはわけが違うからね」
「火星といえば、昔は火星人が住んでいるとか言われていたところよ。そこについに人類が到達できるなんて夢のようね」
今日、二〇〇五年五月二十日は、人類にとって価値ある一日になりそうだった。
連日マスコミが騒ぎ立てるように、アメリカの打ち上げた火星着陸船「ガリレオ」が順調に航路を進み、ついに今日、火星に到達するというのだ。
月面着陸以来の快挙に全世界が注目していた。
「太陽系で、地球以外で唯一大気がある星だからね。うまくいったら何年後かには人間が住んでいるかもね」
「今のうちに火星の開発に関係した会社の株でも買っておこうかしら」
「どうぞ御自由に」
僕は笑いながら言った。ご飯を吐き出しそうになって、慌てて口を押さえた。
こんな無邪気な母が大好きだ。父が亡くなってからも、辛いはずなのに涙ひとつ見せたことはない。仕事も大変だったはずだ。専業主婦だった女性を正社員として雇ってくれるような会社もなく、派遣社員として安い給料で働いてきた。
大学まで行かせてくれた母にはいくら感謝しても、し足りないだろう。だからこそ、今日は成功させなくてはいけないのだ。成功させて、今まで手に入れることのできなかった自由な時間をプレゼントしてやりたい。
「丸須にもいいことあるかもね。だって、あなたの名前は、天体観測が趣味だったお父さんが、火星の英語名『マース』の由来となっている、ローマ神話の戦いの神『マルス』からとって名付けてくれたんだからね」
「でも、火星って、日本じゃ、『災星(わざわいぼし)』とか呼ばれていて縁起が悪いんだよね」
「もう、すぐそうやって言い返すんだから」
そう言ってから、時計を見た。
「あっ、もうこんな時間。会社遅刻しちゃうわよ」
「ほんとだ。急がないとね」
慌てて席を立つ。
「そういえば、昨日、午前中に行ったのよ。いなかったみたいだけどどうしたの?」
「昨日はね。えーと。あっ、そうだ。外回りだよ。新規でお金を預けてくれる人を探してこいって上司に言われてさ。銀行っていうのは預けてくれる人があってのものだからね」
「大変そうね。でも、がんばってよ。あんたの活躍に期待してるんだから」
「はいはい」
軽く返事をしながら、ネクタイを締めた。遠くで子供の笑い声が聞こえた。何人もの声が合わさって騒がしいくらいだ。そろそろ小学生も登校する時間のようだ。
彼らは今日も家に帰るのか、と当たり前のことを考えた。
上着を羽織って、玄関に向かう。
「じゃあ、行ってくるね。母さんも仕事遅れないように行ってよ」
「私は遅れたことなんてないわよ」
「そうだね」
僕はしばらくその場に立ったままでいた。
「どうしたのよ。じっと見つめて、何か顔についてる?」
母は、そう言って顔を撫で回した。
「何でもないよ」
ゆっくりとドアを閉めると、真剣な表情になって道路まで歩いた。
次に母に会う時は、どんな顔をしてくれるだろう。笑顔を見せてくれるのだろうか。
家の前の道は、朝の光に照らされて、どこまでも真っ直ぐ続いているかのようだった。
僕は迷うことなく歩き出した。
すれ違う背広姿の人々は、一様に疲れきった表情を浮かべて、駅へと急いでいた。
僕はそれを横目に、自分の影を追い掛けるようにして歩いた。太陽に照りつけられる背中が熱くなってきた。
――もう後戻りはしない。前へと、ただ進むだけだ――
しばらくして、あるアパートの前で立ち止まった。
「ここでの生活も今日で最後か」
思わず声が漏れた。一年前に始まった日影の暮らしもあっという間だった。
感慨深く思って、目を閉じた。
いつものように部屋の前まで来ると、ポストの中から鍵を取り出して、それを鍵穴に差し込んだ。油臭い部屋の空気が僕を出迎えてくれた。
部屋はワンルーム。トイレも風呂も付いていない。それでも不便だと感じたことはない。トイレは共同のものがあるし、風呂は使わないからだ。
僕は早速、作業服である白衣に着替えると、パソコンやラジカセなどの電化製品の部品、それに適した工具などが繁雑に置かれた机の前の椅子に腰掛けた。
「さあ、始めるか」
すぐに作業を開始した。
午前中には完成させたい。そう思って全神経を指先に集中させた。
母には内緒にしていたが、働いていた銀行はクビになった。僕が工学部の機械科を卒業した当時は、バブル絶頂期で、就職は容易にできる状況にあった。僕は、母の近くで働きたい、という思いから地元の銀行を受け、就職することができた。しかし、その後のバブル崩壊で不良債権を抱えた銀行は、他の銀行と合併することとなり、人員削減のリストラを行った。僕はその貧乏くじを引いたというわけだ。今思えば、機械関係の企業に就職していればよかったかもしれないが、それはそれで別な苦労があっただろう。
僕の将来に多大な期待を寄せている母に、その事実を打ち明けることができないまま一年が経とうとしている。
「よし、できた」
最後の小さなネジを締めると、両手を伸ばしながら言った。
「今度こそ、うまくいくはずだ。僕の計算が正しければ、小さくてもこれで十分な性能を出すことができる」
飴玉のような形をした機械を手の平で転がした。
「何で試そうかな? なくなっても困らないものがいいな」
首だけ回転させて、辺りを見回した。
「あっ、あれにしよう」
立ち上がって壁掛け時計を手に取った。
それを机の上に寝かせ、その上に握り締めていた小さな丸い機械を置いた。
――頼む、うまくいってくれ――
両手を合わせて祈ってから、機械を握り、時計の真上に掲げた。
「それっ」
片手で卵を割るように機械を開けた。
中から光りが、決壊したダムのように溢れ出して、時計を包み込んだ。
「うわっ」
僕は光りを直視できないで、目を瞑って片手で両目を押さえた。
閃光は最高調に達したあと、次第に弱まった。
薄目を開けて、状況を確認する。
機械から溢れ出る光は、机全体を包み込むほどまで拡大していた。
――このままだと時計どころか机までも持っていかれてしまう。下手をしたら自分の体もやばい――
輝きの減少とともに机や時計、そして卓上の細かな機械や道具類がぼやけたきた。光が霧状になって、包み込んでいるかのように見えた。
次の瞬間、猛スピードの車が目の前を通り過ぎるような音がしたあと、すべてがその場から消え去った。
ボール型の機械だけが、床の上にぽとりと落ちた。
僕は全身の力が抜けて、その場に座り込んだ。手の平にはしっかりと汗をかいていた。
「うわあ、ほんとに消えてしまったよ」
手で床を探ってもどこにもない。
――成功だ。ついに成功したんだ――
床を握りこぶしで何度も叩いて喜んだ。どれほどこの瞬間を待ち望んでいたことだろうか。
会社を辞めたことを母に言い出せなかった僕は、毎日、朝に家を出てからは街をぶらついて時間を潰していた。インターネットカフェやマンガ喫茶に行くことも多かったが、無駄に過ごす一日は長く、苦痛な日々だった。
そんなある日。昼過ぎにファミリーレストランでコーヒーを飲んでいると、
「あれっ、丸須じゃないか。こんなところで何をやってるんだ? 今日は銀行休みか?」
大学時代の友人の島崎秀昭だった。彼とは研究室の同期でもあり、僕の一番の親友だった。将来について徹夜で語り合ったこともあったが、あの頃は何をやっても楽しく感じられたし、未来に対して期待や夢というのを抱いていた。今は何をやっても楽しくないし、未来への期待などない。そう感じていた。
僕は会社をクビになったことを正直に話した。
「それで毎日無駄に時間を費やしているってわけか、だけど、いずれ母親にもばれてしまうよ。給料だって入ってこないんだから、不思議に思うようになる」
「それは分かっている。だけどね、やる気がなくってな。何か情熱を燃やせるような仕事が見つかれば、すぐにでも転職して母にも説明できるのに」
「贅沢だなあ。どんな仕事にせよ。やっているうちに情熱は沸いてくると思うよ」
熱心に語ってくれたけど、その時の僕の耳には何も残らなかった。
「そういうお前はどうなのさ。新しい発電システムを研究している『テクノパワー』っていうベンチャー企業に就職したんだろ? うまくいっているの?」
「それがな、俺は入社して数年たった頃から、社長にも内容を伝えていない極秘のプロジェクトに携わってきたんだ」
「何だよ。そのプロジェクトって」
島崎はすました顔で、ネクタイのずれを直して、
「聞いて驚くなよ。瞬間移動装置の開発プロジェクトだ」
「瞬間移動装置? それって、物を別なところへ一瞬のうちに転送させるっていう装置のことか?」
「そうだよ。すごいだろ?」
「物体を移動させる装置といえば、昔の映画で、研究者が自分の体を使って実験したとき、装置の中にいたハエと一緒に転送されてしまって、ハエと体が融合してしまうっていうのがあったけど、あんな感じの装置なのか?」
「違うよ。あれだと人間が入れるくらい大きなシステムだったけれど、うちの会社で開発しているのは超小型の発電機をベースに改造したもので、手の平に乗るくらいのサイズだ」
「なんか嘘みたいな話だけど、どのくらい遠くまで転送させられるの? 一センチとか言わないでよ」
「犬を使った実験だけど、今のところは百メートルくらいが限界だ。ゆくゆくは、他の国に行けるくらいにまで距離を伸ばしたいと考えているよ」
「いつ売り出すの? まだ売っていないんだろ」
「物や動物ではかなりのデータを取ったんだけど、人間で試験できるまでには安全性を確認するために、もう少し時間が必要だ。それでも、数年後には売り出すと思うよ」
「そうなんだ」
僕には、そのときあるアイディアが閃いた。
「その装置、僕にひとつ貸してくれないか?」
装置を受け取ると、家の近くにアパートを借り、装置を改造するための道具を揃えた。
時間があり余る生活をしていた僕は、朝家を出ると、真っ直ぐにこの部屋にやって来て作業に没頭し、時間が足りないと思うような生活へと変わっていった。あっというまに一年が経った。
僕は完成した装置を手に取って、
「ほんとは人間で実験したいところだけれど、こればっかりは無理だからな。一発勝負で使うしかないか」
鞄から携帯電話を出してある番号にかけた、
「もしもし、丸須だけど、島崎か?」
「おお、久しぶりだな。どうした?」
電話の向こうから、いつものしゃがれた声が聞こえた。
「以前お前に話した装置の件なんだけど、やっと完成させることができたよ」
一瞬の沈黙のあと、
「うそだろ? 装置ってタイムマシンのことだろ。そんなものがほんとにできたのか?」
「信じられないのも無理はないけれど、実験もしたし、ほんとに完成したんだ」
「そうは言っても、もともとはうちの会社の転送装置だ。ただ単に、ものが地球上のどこかに転送されただけかもしれないんだろ?」
「装置の特性上、実際に未来に行ったかどうかは確認できないけど、この機械の原型の転送装置でものを転送するときとは明らかに異なる消え方をしていたから大丈夫だと思う」
「お前、この前話していた計画を実行するつもりか? 俺はあのときはタイムマシンを完成させられないと思って何も言わなかったけれど、やめたほうがいい。そんなことしたって母親は喜ばないぞ」
強い口調だったが、優しさを感じた。
「計画は今日の午後に実行する。狙っている銀行の様子が変わってしまわないうちにやらないといけないからな。誰にも言わないでくれよ」
僕が彼から借りた転送装置を改造してタイムマシンを作成しようと思ったのにはわけがあった。
「銀行から金塊を奪って、未来に持っていくなんていうのは無茶過ぎるよ。普通の転送ですら人体にどんな影響がでるのか検討中だというのに、いきなり未来に人間を飛ばすなんて危険過ぎるし、強盗は犯罪だぞ」
僕の働いていた銀行の貸し金庫には、安全性の高さからなのか、金塊を入れている人が何人かいた。それを奪ってしまおうというのが計画だ。紙幣は番号が記録されていたり、未来にいったときに図柄が変わっていると困るからやめた。金塊なら値段の変動も少ないから、未来に持っていっても確実に価値があり、お金に替えることもできる。
「それはすべてわかっているよ。でもな、夢も希望もない状態でこのまま生きていてもどうしようもないだろ? だったら、お金を手に入れて未来で楽しく暮らした方がいいんだよ。それが確実な未来ってもんだ。僕の未来は金を手に入れて裕福に暮らすって決まっているんだよ。不確定な未来なんてごめんだ」
時間旅行の目標日時は二〇一〇年。今から五年後だ。
「母親はどうするんだよ。お前がいきなり居なくなったりしたら心配するだろうし、ひとりでどうやって生活していくんだよ」
「母には手紙を書くよ。会社を辞めたことも告白するし、旅に出掛けるから居なくなるとでも書いておくよ。五年後に戻るって書いておけばそんなには心配しないだろうと思う。それと、僕の通帳も送っておく、少ないけれど使ってくれるだろう」
二〇一〇年に母に会ったら誤ろう。説明したらきっと許してくれるはずだ。それから、有り余るお金で裕福に暮らしていこう。母も働かなくてすむ、のんびり過ごせるんだ。
「お金が欲しいのだったらうちの会社と共同研究しよう。タイムマシンなんて新しい物好きの連中が訊いたらすぐに許可が下りるはずだ。そうすれば、十分なお金が手に入るよ」
「他の人たちにこれを使わせることはできないよ。もし何年か後に売り出されでもしてみろ、僕と同じようなことを考える連中が必ず出てくる。そうなったらこの世界はおしまいだ。未来がどうだの言っている場合じゃなくなってしまうぞ。過去の人間たちによって未来が荒らされてしまうんだから」
「他の人間は駄目だけど、自分はいいってことか? なんて自分勝手なやつだ。もう知らん。未来へでもどこへでも行ってしまえ。失敗して俺のところに泣きついてきても相手にしないからな。そのつもりでいろ」
島崎はそう言うと、こっちの言葉も聞かずに電話を切った。
「ごめんな。島崎」
そう呟いて、握り締めたタイムマシンを見つめた。
それから一時間以上に渡って、計画を何度も復習して頭に叩き込んだ。予想外の事態が起きた場合の対処も十分検討した。あとは本番を待つだけだ。
時計を見ると十二時を差していた。
――そろそろ、火星着陸の時間か――
僕はテレビをつけた。何もない部屋だが、テレビだけは息抜きのために用意てあった。
テレビの中では、アナウンサーが原稿に目を落としていた。
「臨時ニュースをお伝えします。
本日、日本時間の午前十一時四十分頃、アメリカの火星着陸船『ガリレオ』が火星表面への着陸に成功しました」
声は緊張で少し震えているように感じられた。
「着陸は成功か。すごいな」
その後もニュースは続き、
「船長のデビッド・カーネイは火星へ降り立ち、『グランドキャニオンがスモールキャニオンに思える』と、その壮大な風景を表現しました。火星の大気は...」
僕は火星から送られてくる映像を見ながら、コーヒーを飲んだ。
「火星の時代の到来か。タイムマシンで五年後に行ったらすでに人が住んでいたりしてな。そうしたら、僕も火星旅行へと洒落込むか」
火星着陸なんていう困難な計画も成功するんだと考えたら、自分の計画なんてちっぽけなもので、簡単に成功できるように思えていた。
午後三時、僕は銀行の目の前に立っていた。
通い慣れた建物も、今は別な建物のように感じられた。始めて行く散髪屋とか歯科医院のようにも思えた。今ならまだやめることもできる。このまま降り返って、家に戻ればいい。そんな弱気な考えが、撃ち出された弾丸のように胸の奥に突き刺さってくる。
――戻ってどうするんだ? このままだらだらと生活していくわけにはいかない。一歩先の未来へと踏み出さなければ……――
建物の内部は大きく二つに分かれている。一箇所は自動取り扱い機の部屋で、お金を降ろしている人がいたが、店員はいないし店内からは見えないから気にする必要はない。残りが受付のある部屋だが、うまい具合に店員以外誰もいない。
大きく深呼吸して、プロレスラーの被るような目と口の部分だけに穴の開いたマスクを装着する。そして、誰にも見られないうちに中に入った。
「全員動くな。手を上げろ」
エアガンを改造した自家製の拳銃を構えながら大声を出した。
狭い店内に人間は四人、男二人、女二人だ。全員知らない。始めて見る顔だ。男の一人は店長だろう。すらっと背の高い中年男だ。
彼らは恐怖の表情を浮かべながら、言う通りにその場で手を上げた。受付で座っていた女性も立ち上がって手を上げた。マニュアルでは、最初は犯人の言う通りにし、隙を見て非常ベルを押すことになっている。
「動くなよ」
カウンターを乗り越えて中に入り、非常ベルの電源コードをペンチで切った。これで連絡されることはなくなった。僕は改めて、
「このバッグに金塊を詰めろ」
そう言って、近くの若い男に向かって投げた。
「三分以内だ。一分オーバーするごとに、一人ずつ撃ち殺していく。いいな」
「ちょっと待ってくれ。ここには金塊なんてない」
男は、戸惑ったようすで言った。
「それは嘘だね。貸し金庫があるだろ? その中から金塊だけを取り出すんだよ」
「しかし、あれは……」
「黙れ」
叫んだあとに、天井の蛍光灯に向かって一発ぶっ放した。
割れたガラス破片がぱらぱらと床や机に落ちた。
男は黙って金庫の方へ走っていった。
他の三人も、より一層緊張した面持ちで僕の方を見ていた。
――知らないやつらでよかった。僕だってことは気が付かれないだろう。それにしても、一緒に働いていた人たちはどうしたというのだ? 彼らも辞めさせられたのか?――
三人に目線を順番に飛ばしながら、金庫に向かった男も観察した。
男は何十と並んだ金庫を一つずつ開けていった。時間の掛かる作業だが、こっちにはゆっくりしている時間はない。壁に掛かった大きな丸い時計が、一秒一秒時を刻んでいった。
「早くしろ、もう三分になるぞ」
近付いてバッグの中を覗き込んだ。沢山といかないまでも、持ち上げると重さは十分ある。
「もういい。ありがとよ」
僕はバッグを抱え込むと、四人を順番に威嚇しながら出口に向かった。予想以上に重い。おそらく二、三十キロってところだろう。体積にしてみたら、水二リットルもないくらいなのにすごい比重だ。出口のところで天井に銃を一発打ち込むと、外に全力で走り出した。
店内では、銃声のあと四人とも屈み込んでいた。
「おい、何してる。追いかけるぞ」
年配の店長らしき男が、若い男に言った。
「は、はい」
「お前たちは警察に電話しろ」
女性の店員を指差してそう言うと走って出て行った。
「どっちへ逃げた?」
「もしかしてあの男じゃないですか?」
数十メートル先にバッグを抱えて走る男の姿があった。白いTシャツに青いジーパンを履いている。
「でも、あんな服装だったか? ジーパンは青だったかもしれないけど、Tシャツは黒じゃなかったか?」
「きっと着替えたんですよ。そのまま逃げたらすぐ捕まってしまうと思って用意しておいたんですよ。とにかく追いかけましょう」
二人は男を見失わないように注意しながら追い掛けた。荷物を抱えているせいか男の速度はそれほど早くない。彼らは次第に追いついていった。
「そこの男、待て。もう逃げられんぞ」
若い銀行員は、声が聞こえる距離まで来ると呼びかけた。しかし、白いTシャツの男はそのまま走り続ける。
「くそっ、待て」
ついに逃げる男のバッグに手が届いた。バランスを崩して倒れる男に、覆い被さるように乗っかった。
「やっと追いついたぞ。金塊を返せ」
「何のことだ? 俺が何をしたっていうんだよ。痛いから降りてくれ」
「とぼけるな。バッグを渡せ」
男は抵抗もせずにバッグから手を離した。銀行員はファスナーを開けて中を確認する。
「あれっ? 何だこれは」
中には電化製品の部品のような機械とドライバーなどの工具が入っていた。
「それは電気工具だよ。何か文句あるのか?」
慌てて男の体を解放すると、
「人間違いです。すいません。今、銀行強盗がありまして、てっきりその犯人かと……」
「俺は今から会社に戻らなくてはいけなくて急いでいるんだよ。一応名刺を渡しておくから、何かあったら連絡してくれ。言っておくが俺は犯人ではないぞ」
銀行員は名刺を見ながら、
「『テクノパワー』の島崎さんですか。どうもすいませんでした。最後に一つ質問させてください。それと同じようなバッグを持って逃げていく男を見ませんでしたか?」
「急いでいて、まわりを見ている余裕なんてなかったから、わからないな」
そう言うと、島崎は駅のほうへ走っていった。
やっと追いついた店長は、
「犯人はどうした?」
「すいません。人間違いでした」
「何だと、人間違いだって? だったら犯人はあの短い時間でいったいどこへ逃げたというんだ?」
二人で首を傾げた。
僕は川原を歩いて、安全にタイムマシンを使えそうな場所を探していた。
タイムマシンを使用した場合、五年後の同じ場所に出る。人気のない場所や、家などが立っていない場所を選ばないと、自分が存在できなくなる。つまり、時間を移動した際にその場所に人間やものが有ると、それが邪魔でその時間には存在できなくなってしまい、自分の体がどうなるのかわからない。別な時間に飛ばされるならまだいいが、そのまま時空をさまようことになったら最悪だ。だから、五年後でも絶対に何もないっていう場所を探さなくてはいけない。
「島崎大丈夫かな?」
あのとき、銀行から飛び出すと目の前に島崎がいた。
驚いた僕は、
「どうしたんだよ。捕まえに来たのか?」
「違う。これを使って逃げろ」
とボール型の瞬間移動装置を差し出した。
「数キロ先まで移動できるはずだ。早く使え。すぐに追いかけて来るぞ」
「でもどうして?」
島崎は何も言わないで作動スイッチを押して、僕から離れた。
目の前から消えていく僕を見ながら、
「がんばれ、丸須」
そう一言だけ言った。その目は大学時代と何も変わっていなかった。
「ここにするか」
河川敷の草原に立ちながら呟いた。
――いよいよ未来へと旅立つときがきた。島崎、母さん、しばらくのお別れだ――
そう考えていたときに、
「ちょっとすいません」
背後から話し掛けられた。僕はびくりとして、振り返った。それは今一番会いたくない相手だった。
「先ほど銀行強盗がありまして、その捜査をしております。失礼ですが、バッグの中身を確認させてもらえませんか?」
何も答えず男の目を見た。
――警察か。もう見つかったか――
僕はポケットからタイムマシンを取り出すと、実験と同じように作動させた。
一瞬にして光が僕の体を包み込む。
「何だ? お前、何をした」
警官は目を押さえながら後へ下がった。
――早くタイムスリップしてくれ――
そう願っていたが、こういう時の時間は長く感じられ、実際は数秒で完了するはずだが何分も待たされているかのようだった。
警官は戸惑いながらも、こっちに向かって体当たりしてきた。
僕は後ろへよろけて、タイムマシンは地面に転がった。
――しまった――
手を伸ばすが、眩しくてどこに装置があるのか確認できない。
とにかく手を動かしたが、湿った土が触れるだけで機械に当たらない。
そうこうしているうちにまわりの景色がだんだんとぼやけてきた。
――堤防が歪んでいく――
そう思った瞬間に気を失った。
目を開けると空が見えた。雑草の青臭い匂いが鼻に充満している。雲ひとつない青空、このままふーっと宙に浮いていきそうな錯覚に陥る。しばらく、このまま横になっていたい。と考えていた。次の瞬間、我に返って、
「ここはどこだ? 僕は何をしている?」
長い夢から覚めたときのように現実を理解できなかった。体を起こして見回した。目の前には堤防、後ろの方には微かに川らしきものが見える。
「そうか、思い出したぞ。タイムマシンだ。あの装置を使ったんだ。警察に捕まりそうになって慌てて使用したけれどうまくいったのか?」
もう一度辺りを確認する。
――警察はいない。ということは成功か?――
もし、時間を飛んだのならここは二〇一〇年のはず、しかし、見た限りでは二〇〇五年と何ら変わりのない景色が広がっている。
心臓の鼓動が早まる。
二〇〇五年のままなのか、それとも二〇一〇年に来たのか分からなかった。しかし、ここであれこれ考えていても、どうしようもないことは明らかだった。
「そうだ。バッグはどこにいった。あれがないことには何にもならないぞ」
見ると右前方に転がっている。
中身が無事か気になった。バッグが一緒にタイムマシンで飛ばされたことは確認していない。もしかすると、中身は空ってこともありえる。
駆け寄って、ファスナーを開けて中身を確認した。
思わず笑みがこぼれた。
「よし、金塊は無事だ」
銀行で奪ったそのままの金の輝きがあった。
――あとは、とにかく日付を知らなくてはいけない――
そのとき、犬の鳴き声が遠くで聞こえた。
声の主を探して堤防の上を見ると、犬を連れている老人がいた。こっちには気が付いていない。
「すいませーん」
僕は堤防を駆け上がりながら話しかけた。草で滑って走り難い。それでも全力で走った。
「ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが…」
彼はきょとんとした顔をして立ち止まった。犬も舌を出しながら止まってこっちを見た。
男の年齢は七十才過ぎってところだろう。背筋をぴんと張った姿勢のよい老人だ。
「今年は西暦何年ですか?」
言葉を発した瞬間に心拍数が急上昇したのを感じた。
老人は唐突な質問に戸惑いながら、
「今年ですか? えーとね」
考えるように、目だけを上にあげた。
――二〇〇五年なのか、二〇一〇年なのか、どっちだ? 早く答えてくれ――
永遠にも感じられる沈黙のあと、
「あっ、思い出した」
「えっ、何年ですか?」
「二〇一〇年じゃよ」
「ほんとに二〇一〇年ですか、記憶違いってことはないですか?」
相手は老人、記憶が曖昧ってこともある。
「さっきテレビで、人類が火星に降り立ってから、ちょうど今日で五年だと言って特集をやっていたから間違いない。火星に人がはじめて行ったのが二〇〇五年ってことはしっかり覚えているからな」
二〇〇五年のことなら僕もニュースで見た。
「ありがとうございました」と軽く一礼した。
――やった。やはり成功だったんだ。人類ではじめてタイムトラベルをやってのけたんだ。これは火星に降り立つことよりすごいことだぞ――
僕は堤防の斜面を滑るように下った。
これであとは、金塊を売りに行けばいいだけだった。
金の値段は一gで千円程度。これはもう何十年もほとんど変動していない。なぜなら、有史以来、人類が手にした金は約十二万トン、体積にしてオリンピックプールの二杯分にすぎない。これ以上急激に増えたり、減ったりしないから価格は常に一定に保たれる。つまり、普遍の価値基準として、時代を越え国境を越えて取引される唯一のものなのだ。
今、手元に三十キロ近くあるはずだから三千万円くらいにはなるだろう。しばらくのんびり過ごすのには十分過ぎるくらいの金だ。母にも贅沢させてあげられる。その間に、何かやりたいことでも見つけてそれに打ち込めばいい。
僕はインターネットで見つけておいた金の取引店に向かった。
五年経っても世の中なんて何一つ変わったところが見当たらない。歩きながらそう感じていた。実際、コンクリートの建物、ガソリンで走る自動車、すべて五年前のままだ。自動車は空でも飛んでいるのかと思っていたから拍子抜けした。
違いといえば、流行のファッションくらいだ。若者のほとんどが明るい蛍光色の服を着ている。黒やグレーのシャツやズボンは見かけない。
あれが今の流行りかと目線を飛ばした。もちろん自分で着る気は少しもない。
若者たちが光る服を着ているからといって世界が明るくなったというわけでもなさそうだ。大人たちの顔は五年前、いや、十年前と何ら変わらず、どこか影があって疲れきっている。
「将来に対する不安を抱きながら生きる毎日。一分先の未来もわからない、か」
すれ違ったサラリーマン風の男を見て呟いた。
――彼らはそうかもしれないが、僕は違う――
これからお金を手に入れて、幸せな未来が待っている。これが決まった未来なのだ。一分先の未来を心配する必要などない。
金取引の店はすぐに見つかった。
なくなっていた場合に備えて、何軒かピックアップしておいたけれど、その必要はなかった。一件目で探し当てるなんて幸運だ。期待が持てる。
店内はあまり広くはないが、白一色に塗られた壁が蛍光灯の光を反射して眩しいくらいだ。ケーキ屋のディスプレイのように様々な形に加工された金がガラスケースの中で輝いていた。
「いらっしゃい。ご用はなんでしょうか?」
小太りの男が眼鏡の真ん中を押さえながら話掛けてきた。
金の装飾品に目を奪われていた僕は、我に返って、
「あっ、そうそう。金を売りたいんですけど、買い取ってもらえますか?」
「もちろん、いいですよ。品物を見せてください」
僕はカウンターにバッグを置いた。店員は中身を見ると、驚いた様子もなく、
「これですか、じゃあ重さを計って現金と交換します」
と店の奥から体重計のような計りを持ってきて、その上に金を並べていった。
――さすがに慣れているとこれだけの金を目の前にしても驚かないんだな――
と感心した。
「この装置は見た目は普通なんですけどね。本物の金かどうかも見分ける機能も付いているんですよ」
「そうなんですか」
軽く返事をしたが、頭の中では幾ら貰えるのかということだけを考えていた。
「えーと、三十二キロですね。結構な量を持っていましたね」
「値段はどれだけになります?」
高ぶる気持ちを押さえながら訊いた。
男はなにやらメモを取りながら、
「三千二百円です」
とすました顔で言った。
――三千円だって?――
そんなわけはないだろう。聞き間違いだ。
「すいません。もう一度言ってもらえます?」
「全部で三千二百円になります」
今度は笑顔で、はっきりとした口調で言った。
「ちょっと、待ってくださいよ。金が三十キロ以上あるんですよ。それでなんで三千円にしかならないんですか? もしかして、これは偽物だとかいうんじゃないでしょうね」
銀行から奪った本物だ。偽物なんて言われてたまるか。
「いえ、全部本物ですよ。だからこそ、この値段なんですよ」
「この値段って、一キロで〇.一円ってこと? そんなばかな話があるか。一gで千円はするのが普通だろ? だったら全部で三千万円にはなるはずだ」
「お客さん。本気で言っているんですか?」
店員はさっきまでの笑顔が消えて、眉をしかめ、困った顔になっていた。
「当たり前だ。世界の金の量は一定だ。だから、突然安くなったりするはずがないじゃないか、実際、今まで何十年も値段は変わってないだろ?」
僕から金を騙し取ろうとしているに違いないんだ。こいつの言うことなんかには騙されない。
「お客さんはほんとに知らないみたいだから説明しますけれど、世界の金の量はここ数年の間に十年前に比べて、千倍以上に増えています。だから、需要と供給のバランスで値段も自然に安くなるんですよ。今は全世界、どこに行っても金は一キロで〇.一円程度で取り引きされています」
どういうことだ? どうして数年で地球上の金の量が千倍にも増える? 金の埋蔵量は僅かだ。そんなことはありえない。
「うそでしょ? いったいどこからそんなに黄金が出てきたんです?」
ひょっとして錬金術でも成功したのか?
「あなたの家にはテレビがないんですか? 火星ですよ」
「火星って、あの、宇宙にあるやつ?」
店員は怪訝な顔をして、
「三年前から火星に人が住み始めたんですよ。そうしてすぐに、金脈が見つかり火星が黄金の星だってことが分かったんです。少し掘ればすぐに金が出てくる。そんな感じでした。それから人々は先を争って火星に行くようになってわけですよ」
そういうことか。火星で黄金が見つかるなんて考えてもみなかった。だけど疑問は残る。
「どうやって、金塊を地球まで運んでいるんですか? 宇宙船に乗せるっていったってそんなには運搬できないはずだし、往復に何ヶ月も必要なんじゃないんですか? そんなことをしていて金塊を何千万トンも運べたとは思えない」
「宇宙船になんて乗せていませんよ。『瞬間移動装置』で飛ばしているんです」
瞬間移動装置って、まさか。
僕の予想は的中した。
「『テクノパワー』って会社が三年前に発売したのですが、その会社が、それを火星に持っていって、地球にどんどん送っているわけです。あそこは、今世界で一番儲かっている会社ですよ。まったくうらやましい。数年前までは名前すら知られていなかったのにね。社長も、その『瞬間移動装置』を発明した島崎とかいう人物に代わったみたいですよ」
「そうですか」
僕は、体中の力を失って、店をあとにした。
一年間努力して得られたのは、たった三千円。それに引き換え、島崎は今や億万長者になっている。
溜め息しかでなかった。
ふと、一分先の未来も分からない。だから人生は楽しい。という父の言葉を思い出した。
――こんなことになるなんて……。未来は予想できない。それがやっと理解できたよ。父さん――
だけど面白いとは思わない。わかっていた方がこれから起こることに対策を立てられるから面白いに決まっている。対策さえ立てれば自分の目指す未来を手に入れられる。実際、今の僕はどうしようもない状態だ。過去に戻りたくても、過去に戻る装置はない。このまま予想もできない未来へと時間が進んでいくだけだ。何の対処もできない。
突然足もとの重力が何倍にもなったかのように体が重い。
「これからどうしよう」
頭の中は真っ白で何も考えられなかった。こつこつとはめてきた巨大なジグソーパズルをあと一ピースというところで、ばらばらに崩された。そんな気持ちだった。
僕はあてもなく、ただぶらぶらと街を歩いた。改めて見ると街は随所で変わっていた。行き付けだったマンガ喫茶もインターネットカフェもなくなっている。
そうこうしていたら、一年前のことを思い出した。
「またあの頃に逆戻りだ」
無駄に過ごしていた日々の記憶が、体の深いところから滲み出てきた。
――あの頃と違うのは、帰る場所がないってことだけか――
一年前は、家があったから、どこか心に余裕が持てていた。だけど、今は違う。まだあの家があるかどうかわからないし、あったとしてもどんな顔をして帰ればいいというのだ。
五年間も家出をしていて、「ただいまー」とは帰れない。
確かに母に宛てて手紙は書いたけれど、旅に出るなんていう一方的な内容の手紙を快く思うわけがない。あの時はお金を持って帰る自信があったから、あんな書き方でもいいと思っていたけれど、こうなったらどう言い訳していいのか考えられない。
いつの間にかに横断歩道を歩いていた。前を見ると信号は赤だ。
「しまった」
そう思ったときにはもう遅かった。突っ込んでくる車の気配を感じた。瞬間に目を閉じた。地面とタイヤとの摩擦音が耳に響く。体は彫刻のように固まって、全身の血流も止まった。
――死ぬ... ――
そう考えたら、自然と力が抜けた。死を覚悟した。いっそのこと死んでしまったら楽になれる。そんな気持ちがどこかにあったのかもしれない。
しかし、どういうわけか、しばらくしても体に衝撃は感じなかった。ゆっくりと目を開ける。
「うわっ」
目の前で車が止まっていた。ぎりぎりのところで助かったのだ。あと半歩移動していたら当たっていたに違いない。
僕がそのまま動かないでいると、銀色の見たことのない車の運転席のドアが開き、中から女性が出てきた。
「あっ」
その姿に心臓をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。この長い髪、この二重まぶたの優しい目。五年前のままだ。僕は心の準備ができないままに、
「母さん」
と一言語りかけた。こんな偶然があるのだろうか。目の前に母親が立っている。
母は、一瞬戸惑った顔をして、
「今までどこにいたの? 心配していたのよ」
優しさ驚きが入り混じった口調だった。
「手紙にも書いたと思うけれど、日本中を転々としながら旅を続けていたんだよ」
嘘をつくことに抵抗感はあったけれど、今はこうするしか方法がない。正直に話したところで信じてもらえないだろう。
「その旅行は楽しかったの?」
「うん、まあまあかな」
僕は小さな声で答えた。実際は時間旅行しただけだ。
「戻ってきてくれて、よかったわ。もう一生会えないかと思ったこともあったけれど、今日こうして会うことができて安心した」
「ごめん、ほんとにごめん。突然いなくなって怒っていたよね?」
「怒ってなんかいないわよ。母さんこそいつもあんたの足手まといになっていたみたいでごめんね」
僕は何も言わずに首を横に振った。すべてはこれからだ。親孝行して空白の五年間を取り戻そう。仕事もしてお金を稼ごう。
そうだ、お金といえば、ひとつ疑問がある。
「この車はどうしたの? 高かったんじゃないの? それに、母さんはもう今年で六十才だろ。運転なんかして大丈夫なの」
「もちろん買ったわよ。最新式の車で運転サポート機能が付いていて、私でも楽に運転できるの。行き場所させ指定すれば、あとはほとんど自動運転よ。すごいでしょ」
「それはすごいけれど、そんなお金どこにあったんだよ。生活するのも大変だったんじゃないの?」
「あんたには内緒にしていたけれど、『テクノパワー』って会社の株を五年以上前から買っていたんだけれど、火星から金塊を送っているとかで最近になって何百倍にも値上がりしたの。だから思いきって売ったのよ。そのお金で買ったの」
「そうだったんだ」
何だか楽しい気持ちになった。
それからしばらく話をしたあと、母さんの運転で家に向かった。揺れの少ない乗り心地のよい車だ。しかし、家まであともう少しというところでガス欠になった。幾ら優秀な車でも、燃料がなければ動かない。
「あら、ガソリンが少なくなっていたの忘れていたわ」
僕と母さんは大笑いした。こんなに心から笑うことができたのは久しぶりだった。
一分先の未来も分からない。だから人生は楽しい。
END
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