契約カテゴリの記事一覧

契約

男が一人、歩道橋の上を歩いていた。寝癖のついた髪が、風に揺られている。伸びかけの髭が実際の年齢より老けさせて見せる。
 橋の中央あたりで立ち止まり、着ていた背広のジャケットを脱ぐと、折りたたんで左手にかけた。手摺から下を覗く。目線の先には線路があった。枕木の間に生えた草がやっと確認できるほどの距離だ。
「はあ……」
 大きく溜息をついた。眼下の線路は田舎の路線で本数は少なく、三十分に一本程度の間隔で電車が走っている。
 しばらく眺めて、男は軽く頷いた。辺りを見回して誰もいないことを確認すると、ネクタイを締め直した。
 目に力はなく、口元も足れ下がっている。
 男は靴を脱ぐと、自分の左側に揃えて置いた。もう一度下を覗き込むと、鼻の先から汗が一滴落ち、線路に当たって砕け散った。そのあと幾つもの水滴が線路に当たった。
「雨か」
 天を仰ぎながら男が言った。
 次第に雨足は激しくなり、男の足元には汗と雨水の混ざったものが流れ落ち始めた。体温を奪われ、肌が白味を帯びていく。
 遠くで警笛が聞こえた。
 男はその音に反応して、手摺に足をかけた。
「さようなら……」
 体を支える腕はかすかに震えている。歯を食い縛り、目をつむっていた。
 線路を軋ませる音は近付いてくる。すぐに、振動が足から伝わってきた。
 男は全身の力を抜き、重力に身を任せようとした。そのとき、
「あなた、黒部秀昭さんですよね」
 ゆっくりとした、しゃがれた声だった。
 黒部は慌てて手すりをつかむと、崩れるように歩道橋側に落ちた。真下を電車が走り抜けていく。風圧が黒部の顔まで届いた。
 声の主は黒部の目の前に立っていた。顔を隠すように深く黒い帽子をかぶり、黒い背広を着ている。背の高いスマートな男だった。
――いつの間に?
 黒部はそう考えて立ち上がると、この傘も差さないで突っ立っている黒い男を、目を細めたまま見つめた。
「あんた誰? どうして俺の名前を知っているんだ」
 黒い男は抑揚のない声で、
「そんなことより、あなたは今何をしようとしていました?」
「見れば分かるでしょ、自殺ですよ」
 容赦なく降り注ぐ雨が口の中に入ってくる。黒部はそれを吐き出した。
「どうして?」
「そんなことはおまえには関係ないことだ」
 黒部は自殺を邪魔されて苛立っていた。とっとと死なせてくれ、そう思っていた。
「いや、関係あるんですよ。どうやら私のことを覚えていないようですね。それはまずいことになりますよ」
 迫力のある声だった。黒部は一瞬、睨みつけるような表情をした。
「お前なんか知らないぞ。いったいどこで会ったというんだ?」
「小学生のとき、病院で会いました」
 黒部は考えるように、目線を地面に移した。
 益々激しくなった雨が肌を露出した部分に叩きつけられてきた。
 はっとして背筋を伸ばした。
「ま、まさか。嘘だろ。そんなことが……。あれは本当だったというのか?」
 そう呟いて、男に目をやる。
「お前はほんとうにあの時の?」
「そうですよ。やっと思い出していただけたようですね」
 帽子の奥の顔が笑ったように見えた。
「契約のことだろ?」
「そうですよ」
 男は黒部の方に近付くと、手の平に刻まれた十字の傷を見せた。その途端に黒部は体を大きく振るわせた。
 男は黒部の肩に手を置きながら、
「契約の途中で勝手に死なれちゃ、困りますよ」
 怒りを含んだような、重い声だった。
 黒部は声を出すのがやっという感じで、
「あのときの契約は後悔していない、いや、感謝しているよ。でも、もう俺は生きていくことなんてできないんですよ」
「どうしてです?」
「二年前に両親をなくし、昨日には働いていた会社もクビになった。妻も子供もいない。もう誰にも必要とされていないんですよ。こんな状況でどうやって生きていけというんです?」
「収入のことだったら、また新しい会社を見つければいいだけじゃないですか」
 黒部は男から目線を逸らせて、
「無駄ですよ」
「というと?」
「会社で給料をもらい、食事をして生きていく。それを続けていってどうなるっていうんです? 生きてて良かったと思えるんですか?」
「……」
「自分は生きてて意味があるのかなってよく考えるんです。俺は特別に社会に必要とされない人間なんじゃないかってね。あなたには理解できない感情だとは思いますが」
 黒部は顔を流れる雨を拭った。周りにはすでに水溜りが何箇所もできていた。
「生きる意味が理解できるまで、毎日ただ理由もなく生き続けるのは苦痛です。そんな気力はない。それに俺は自分の考えていることを話せる仲間がいない、というか作れていない、最悪な状況です。これといった趣味、目標もない」
 それを聞いて、男は黙って腕を組んだ。よく見ると、これだけ雨が降っているのにもかかわらず一滴も雨粒が体に付いていない。
「そうですか。とにかく、あなたが小学生のときに交わした私との契約はまだ有効です。勝手な真似は私が許しません」
「どう言おうと、俺は死にますよ。次、電車が来たらここから飛び降ります」
 黒部は急に吹いてきた風に体をよろめかせた。
 男はしばらく考えたあと、
「それなら私ともう一度契約しましょう。契約内容の更新です」
「更新ってどういう風に?」
 突然勢いを増した雨に二人の会話はかき消された。
 目を開けることさえもかなわなかった。足元を雨水が川のように流れていく。
 会話が終わると、黒い男は振り返ることなく立ち去っていった。
 独り取り残された黒部は、男の歩いていった方を見つめ続けていた。
 遠くで警笛の音が聞こえた。
 雨は次第に小降りになり、鳥のさえずりも聞こえてきた。灰色だった雲は明るさを帯びていた。
 電車が歩道橋の下を通過したとき、橋の上には人影はなかった。
 
 簡単な食事を済ませて、インスタントコーヒーを作った。
 居間へ移動すると、テーブルの上の灰皿にタバコを押しつけながら、私はソファに腰を落とした。
 目の前には原稿用紙が積まれている。右上には穴が開けられ、紐で綴じられている。
――最後の原稿か……。
 三年前の出来事がふと頭をよぎり、鼻から息を吐き出すようにして笑った。
――長い三年だった。
 両手を上げて大きく欠伸をした。
 崩れ落ちるようにしてベッドで横になった。力が抜けて、天井の一点だけを見つめた。服に染み込んだ雨水がシーツに移っていく。不思議な感覚だった。このまま自分の体もベッドに吸い込まれていく気がした。
 今からちょうど三年前にした未来から来た保険屋との会話を思い出していた。
 雨の降り続く歩道橋の上、目の前には真っ黒なスーツに身を包んだ男がいる。
「契約をしましょう。幸せを運ぶ保険屋との契約を」
 と囁く。その言葉よりあとのことは覚えている。しかし、以前のことは分からない。どういう理由であの場所に自分がいたのか、どういういきさつで彼と契約することになったのか、思い出すことができない。
 彼の問いかけに対して、私は、
「どういう契約内容です?」
 なぜか傘も差さずにずぶ濡れだった。まともに目も開けられないほどの雨が降っている。しかし、あいつは濡れていない。
「今から三年間、私にあなたの過去の記憶を貸してください。生まれてから今日までの記憶すべてです。だけど、日本語を話す能力のような、生活していくのに必要な知識は残したままにしてあげます」
「家族や友人のことは忘れてしまうのか?」
「もちろんです。 相手はあなたのことを覚えていても、あなたは思い出すことはできません」
「そうですか。それで、引き替えに何が貰えるんです?」
「人を感動させる文章を書く能力を差し上げます。さらには、必要な観察力や洞察力もすべてです」
 ありがたく受け取れと言わんばかりの口調だった。男は全く濡れていないスーツのネクタイの歪みを直した。
「俺に小説家にでもなれというのですか?」
「そうです」
「ちょっと待ってくれ、そんな能力いらない。小説なんかに興味はない」
 口から水を飛ばして文句を言ったが、男は無視して、
「鈴を鳴らしたら契約成立です」
 いつ間にかに取り出した銀色の鈴を鳴らした。遠くまで響く音だった。
 その瞬間、どういうわけか、もやもやした感覚はすべて消え去り、小説を書かなくてはいけないという衝動が生まれていた。そして記憶を失った。三年前のことだ。
――あれは夢ではない。現実だ。
 私は壁の方に体を向けた。
 寒気が襲って、体を小さく丸めた。
――今日でちょうど三年、記憶を取り戻せる。
 契約は今日の十二時までのはず、きっと保険屋はやってくる。しかし、不安感がつのる。
――あの保険屋が何をたくらんでいたのか……。
 なぜ彼が他の人より明らかに小さいリスクで私と契約したのか分からないでいた。
――俺の契約は命がけではない、記憶を三年間失うだけだ。三年経ったら返してくれるという。しかも、その間、小説を書くという特別な能力は使いたい放題だ。
 実際小説は売れに売れ、一財産を築くことができた。記憶を返してもらったあとはそのお金を使って生きていけばいい。人も羨む贅沢な暮らしができる。私にとってみたらこんないい話はないだろう。
――しかし、相手は異常な保険屋だ。何か裏があるはず……。
枕元の時計を見た。暗闇の中で数字がおぼろげに光っている。
 十一時三十分。
――あと三十分か。
 心臓の鼓動が早まった。そのとき、人の足音のようなものが聞こえた。絨毯を踏んだときの微かに空気の震える音だ。
「誰だ」
 瞬時に起きあがると人影が見えた。慌てて壁のスイッチを入れる。電気が点いた瞬間、
「あっ」
 思わず声が出た。そこには三年前に見た男が立っていた。あのときと同じ、全身黒いスーツに身を包んでいる。帽子の陰で顔は見えない。
「お久しぶりです」
 丁寧にお辞儀をした。久しぶりの男の声を聞いた瞬間、緊張が走る。
「ま、まだ、三十分あるだろ」
「分かっております。今、こうして予定の時間の前に来たのは早めに記憶をお返ししようと思ったからです」
 保険屋である男の意外な提案に、私は戸惑いながら声を出した。
「もう返してくれるのか?」
「はい、そうです。あなたはもう能力を使っていないようですし、私もあなたの記憶を十分に堪能させていただきました。もうそろそろ、返してもいいころかと思いまして」
「何を企んでいる?」
「何も企んでませんよ。あなたが早く記憶を返して欲しいと望んでいるだろうと思って来ただけです」
 帽子の奥の表情は読めなかった。
「まあいい。じゃあ、言葉通り返してもらおうか」
 ついに記憶が戻る。この時を待っていた。どんな過去であろうと自分の人生だ。受けとめるしかない。
「鈴を一回鳴らしたら記憶が戻って、能力は失われます。いいですね。それではいきます」
 風鈴のような響きわたる音色が聞こえたかと思うと、全身を何かが通り抜けるような感覚がした。
 男はうつむきながら、後ろに下がって、
「終わりました。過去を思い出してみて下さい。思い出せるはずですよ」
 椅子に腰掛けて、煙草に火をつけた。
 歩道橋の上で男と会ったときのことを思い出した。どうしてそこにいたかも。
――あのとき俺は自殺しようとしていたのか……。まてよ、それ以前にもこの男と会っているような気がする。どこだ?
 急に強まった風で窓が揺れた。流れ落ちる雨水で外の景色は確認できない。大きく吐き出した煙草の煙が、まっすぐに飛んでいった。
――そうだ。病院だ。子供の頃、病院でこの男と会っている。
 私の様子を観察していた男は、
「どうですか? 思い出すことができました?」
「ええ、まあ」
 男の僅かに見えた口元は吊り上がり、笑っているようだった。その微笑みが私の記憶を呼び起こした。ガクガクと顎が震えだした。震えはすぐに全身に伝わった。指に挟んだ煙草の灰が絨毯に落ちていった。
 病院で男とした会話が鮮明によみがえってくる。
 私の目の前には病院の白いベッドで横たわる両親の姿があった。顔には酸素を送る装置が付けられている。もう何時間も目を閉じたままだった。二十五年前、私が十歳のときのことだ。
「ベッドに寝ているのは、君のお父さんとお母さんかい」
 後ろを見上げると、あの男が立っていた。
「おじさん誰?」
「私? 私は幸運を運ぶ保険屋だよ」
 男はしゃがみ込んで言った。
「ふーん」
「ひどい交通事故だったんだろ? 助かりっこない。お父さんもお母さんも、二人とも、もうすぐ死ぬよ」
 死ぬという言葉で不安になった私は、
「死んだりなんかしないよ。今度の日曜、遊園地に行くって約束したんだ」
「かわいそうだけど、行けないねえ。代わりに葬式に出ることになるよ」
 私は堪えきれずに泣き出した。ピッ、ピッ、という機械の音が両親を死へと導いていくように感じられた。
「一つだけお父さんとお母さんを助ける方法があるよ」
「ほんと、どうすればいいの?」
 真っ赤になった目で男を見た。 
「私と契約しよう」
「契約?」私は首を傾げた、
「そう、君と私の約束ごとだよ。その約束を守ればお父さんとお母さんは助かるよ。今度の休みに遊園地にも行ける」
「俺約束するよ」声を弾ませた。 
「よく聞いてね。君は七十五歳で死ぬことになっている。そのうち四十年を分けてあげるんだ。そうすれば、お父さんとお母さんは、あと二十年生きられる」
 男は俺の目を覗き込んで続けた、
「どうだい?約束できる?」
「うん、約束するよ」
「でも、四十年の命を分けてあげるってことは、君は三十五歳になった瞬間に死ぬってことだよ。いいの?」
 そのときの私には、三十五歳というのが遠い未来のように思えていた。
 私が頷くと、男は手に持った鈴を静かに鳴らした。そのとき、鈴を持つ男の手の平に刻まれた十字の傷が目に焼きついた。
 そこまで思い出すと、私は灰皿で煙草を擦り付けて消した。手が震えて灰皿を床に落とした。口の中の水分がなくなっていく。
――やはりこいつは悪魔のような人間だ。
 やつは三年前、私が三年後に死ぬと分かっていて契約を持ちかけたんだ。記憶をなくさせ、死ぬということを忘れさせた。それで好きでもない小説家を三年もやらせたんだ。まるで、未知のすばらしい未来があるかのように思わせて。
「どうやら、思い出したようですね」
 帽子の下から覗く男の顔は、紙のように白かった。爬虫類の冷血さを感じた。
「ああ、おまえがとんでもない悪魔だってこともな」
「もうすぐ十二時ですね。今日あなたが死に追いやった人たちが、地獄で待っていますよ。ふふふ」
 私はなにも答えなかった。
 記憶を失ってから、人は死ぬ直前、何を考えるのだろうかと思ったことがあった。人生を振り返り、生きた意味を問うのか、お世話になった人に感謝をするのか、迷惑をかけた人に謝罪するのかと。しかし、実際、死を目前にして考えたのは単純なことだった。もっと生きたいと。
「流行作家なんて、さぞかし、いい思いをしたんでしょうね。ふふふ」
――三年前に命を断つべきだった。自らの意志で……。生きたいと強く願う人間が、失意のうちに死んでいくのを見て、思い通りになったと微笑む、悪魔となった未来人のおもちゃになどならずに……。
「お前本当に未来の保険屋なのか?」
「ふふふ。こんな契約をする保険屋があるわけないでしょう。未来では、能力を付けたり消したりだとか、人生の長さを調節するなんていうことは誰でもできますしね」
「なら、何者だ?」
「ただのサラリーマンですよ。でも、未来から来たっていうのは本当ですよ」
「……」
「今、二千二百年で流行っているんですよ。過去人の明日を奪う遊びが」
 壁に掛けられた時計を見ると、十一時五十九分五十九秒を指した。

END
| 契約