「次の男の子のデータを聞かせてくれ」
ぶっきらぼうに男が言った。太った体格を隠すように、だぶついた白衣を着ている。
「はい、先生」
眼鏡をかけた男が手帳を取り出す。彼もまた白衣を着ているが、しわが目立ち、全体的に黄色っぽく汚れている。
「奥田徹、十四歳。中学二年。身長、百六十センチ。体重、五十三キロ。これが写真です」
数枚の写真を差し出した。
「さて、どんな子だ」
男は背筋を伸ばして写真を受け取ると、机に横一列に並べた。全部で五枚。顔のアップが三枚。全身を写したものが二枚だった。どれも通学途中に撮られたものらしく、学生服を着ている。
「ほう、この子か。なかなかハンサムじゃないか。体格もスマートだし、女の子にもてそうだな」
アップの写真を一枚持ち上げて、顔に近づけた。男の口元は怪しく緩んでいる。
「それで、今回はどんな計画で進めるんだ?」
「そのことなんですが、とりあえず彼の普段の生活を説明させてもらいます」
そう言って咳払いをすると続けた。
「彼は家にいるときは、トイレ、風呂以外の時間はすべて自分の部屋の中で過ごしています。実際は風呂も友達の家で済ませて帰ることが多いそうなので、トイレに行く数分以外は部屋の中です。
そういう状況ですので当然、両親との接触もほとんでありません。顔を合わせるのは一ヶ月に一回くらいだそうです。その一回も、トイレに行くところを偶然見たとかそういった程度です」
「そうか、典型的なパターンだな」
「はい。ですので通常のプランで大丈夫だと思います」
男は自信ありげに眼鏡を人差し指で上げた。
太った男は軽く頷き、
「計画を決行する日時は決めてあるのか?」
「もちろんです。計画は細部まで練ってありますのでご安心を」
「そうか。それならさっそく最終準備にとりかかろうか。これが一番やっかいだからな。それで、足りないデータは何かあるのか?」
男は手帳をぱらぱらと捲りながら、
「そうですね。写真は他にも何枚かあるんですが、ビデオ撮影がまだです。それと、声の録音も済んでいません。ですが、この件については、今日、調査員が行っていますので夕方にはそろうはずです」
「わかった。問題はなさそうだな」
一呼吸して、
「それで、最終準備だが。例の孤児院に行くのはいつの予定だ?」
「明後日です。朝十時出発になっています」
確認するように手帳の文字を指でなぞった。
「よし。それまでにビデオを見せてくれ。他の準備の方はくれぐれも慎重にな。誰にも気付かれるな」
「はい。おっしゃる通りに」
そう答えた男の眼鏡の奥の瞳には、写真の中で無邪気な笑顔を見せる徹少年が映っていた。
「徹さん。晩ご飯、ここに置いておきますよ」
私はいつものように徹の部屋の前に食事を並べた。一時間後に取りにくると、空になった食器だけが不法投棄されたゴミのように乱雑に散らばっている。部屋の中で食べてから、廊下に放り出しているらしい。
私はそれをかき集めて持って帰らなければならない。
――いつからだろう。自分の子供に敬語を使うようになったのは……。
徹を怒らせまいと機嫌をとるようなまねをしている自分が情けなかった。
――これで母親だといえるのだろうか。
自然に溜め息が出た。
廊下の突き当たりにはカメラが取りつけられている。もちろん徹が仕掛けたものだ。それが部屋の中のモニターにつながっていて、外の様子を観察しているらしい。
部屋の前に人がいないときにしかドアは開けない。自分がいないときは中から鍵をかけて誰も入れないようにしている。だから、もう一年以上も徹の部屋に入ったことはない。
私はカメラにちらりと目をやってから、ゆっくりと階段を降りた。
あのカメラが置かれるようになってから、徹の姿を見ることはほとんどなくなった。たまにトイレに行くところを見て声をかけてみても無視される。風呂は友人の家で入ることが多いようだが、時々夜中にシャワーの音が聞こえることがある。私たちを避けて生活しているのだ。家の中に別な家があって、そこで他人が生活している。そんな感じだった。とても家族とは呼べない。
徹は学校の行き帰りで二階から下りるのには、はしごを使っている。窓からはしごをつたって上り下りしているのだ。私は毎日、一階で隠れながらその様子を眺めていた。その動きや顔色を観察して息子が元気なことを知る。そんな数秒でも、姿を見れただけで安心できる。
私は足を止めてもう一度階段を上った。
徹の部屋をノックして、
「徹さん。たまには一緒に食事しませんか?」
しばらく待っても返事はない。聞こえるのはステレオから流れる音楽だけだった。おそらく今流行りの曲なのだろう。私にはわからない。
――中にいることは間違いない。
私は意を決して、こぶしを振り上げると数回ドアを叩いた。乾いた音が廊下に響く。
「お願い、少しだけでいいから話をしてちょうだい」
強い口調になった。こんなことを言ったのは始めてだった。握ったこぶしは、じっとりと汗をかき、小刻みに震えた。
部屋のドアにもたれかかりながら返事を待った。
――お願い。返事をしてちょうだい。
すると突然、音楽の音が大きくなった。私は跳ね上がるように背筋を伸ばした。徹が音量を上げたのは『うるさい。早くどっかに行け』という意味だと理解した。
私はあきらめて、うつむいたまま階段を下りた。途中で涙が落ちた。私は悔しさと自分の情けなさの入り混じった気持ちの悪い感情を抱いていた。
夜、十一時を過ぎて夫、孝平が帰宅した。
――また今日もこの時間か。
玄関に行くと、夫はいつものように顔を赤らめ、酒臭い息を吐き出している。
私は目も合わせず、コップ一杯の水を手渡した。
夫は無言で受け取ると、一気に飲み干し、
「ふー」と言って、空になったコップを私に差し出す。
もう、何百、何千と繰り返した行為だった。特別な感情もない。
酔って帰ってきた夫に、大丈夫? 飲み過ぎは体に毒ですよ、などと優しい言葉を掛けていた頃が懐かしい。
渡す水も昔はミネラルウォーターだったが、最近はただの水道水に変わった。夫は夫で、遅くなってごめん、と謝ってくれていた。それがいつしか、付き合いだからしょうがない、になり、さらに最近では言葉すらなくなった。
廊下を歩く夫の背中を見ながら考えた。
――今の私たち三人は、本当に家族といえるのだろうか。
徹のことを、徹ちゃん、と呼んでいた頃。私の子供は世界一幸せだと信じていた。そして、私たちは世界一幸福な家族だとも。
私は他人から、いい母親だ、などと言われることはないかもしれないが、いつだって最善を尽くしてきた。いいものはすべて子供に与えるように努力した。子供の意見も尊重した。だから、子供は、自分は幸福なんだ、と感じていてくれる。そう信じていた。
徹が中学に入って、
「俺のこと、徹ちゃん、って呼ばないでくれ。うっとうしいんだよ」
そう始めて言われたとき、私は胸をナイフでつかれるような思いがした。子供にとってみれば、早く一人前の男として認めてもらいたいという思いの表われなのだろうが、私にとっては昔から呼び慣れた名前というものは、自分とを繋ぐ鎖のようなものだ。それがなくなったら、子供がどんどんと自分から遠くに離れていってしまう。そんな気がした。
――徹ちゃん……。
息子が、あの愛らしい、ぬいぐるみの熊みたいな園児だった息子が、ランドセルを背負って元気に走りまわっていた息子が、自分より大きくなって、声も低くなって、そして、心を閉ざすように、見えない仮面を被ってしまった。
私はリビングで煙草を吸いながらテレビを見ている夫の視線を遮るように、彼の正面に座った。
「どうした?」
夫は煙を吐き出しながら言った。いいきなものだ。
「徹のことなんだけど……」
夫は大きく息を吸って、
「またどうにかしろっていうのか? こないだだってお前がどうしてもって言うから部屋の様子を見に行ったばかりだろ。あのときだって、うるさい、と怒鳴られただけだったじゃないか。今は反抗期なんだよ。放っておいたらいい。そのうちに自分の愚かさに気が付くさ」
このまま、ほったらかしておいたら、昔の徹に戻るだって?
たまに視線があったときに見せるあの少しの温かみもない目。幸福な日々を共に過ごしたという事実すら否定するような、どこかにさげすんだ心を映している目。家族に対してではなく、赤の他人に向ける目だ。敵意さえ感じられる。
それが、このまま何もしないでいて、もとのやさしい目で私たちを見てくれるようになるのだろうか?
私にはどうしてもそうは思えない。
「ほうっておいたらいいだって? そんな無責任なことを言って、あなたは徹のことをそんなにわかっているの? 顔もろくに見たことないでしょう」
「確かに俺は最近、あいつの顔をろくすっぽ見たこともないよ。だけど、それだどうしたというんだ? たまに顔を見ているお前はわかっているとでもいうのか。徹が何を考えて生きているのか、なぜ俺たちに心を閉ざすようになってしまったかを」
「そ、それは……」
その問いかけに答えることができなかった。徹はあの狭い部屋の中で、何を考えて生きているのだろうか? 私たちに対してどんな感情を抱いているのだろうか?
あの、優しくて、思いやりのある子だった徹の気持ちが今はわからない。徹が本当に百%自分だけのものだったあの頃、心が通っていた。それなのに今は……。どうしてこんなことになってしまったんだろう?
「わからないんだろ? だったらいいじゃないか、好きにやらせておけば。原因がわからない時は、そっとしておけばいいんだよ」
面倒なことには首を突っ込みたがらない。夫は会社でもこうなのだろうか? ふとそんな考えが浮かんだ。
「私たちが何かしなきゃ、ずっとこのままよ。放っておいたら、徹は中学を卒業して、この家を出ていく。そうなるに決まっているわ」
「何かしろって言うけど、いったい俺に何をしろっていうんだよ」
夫は私に視線を合わせることもなく、時折煙草を口に運びながら、新聞の折り込み広告を一枚一枚丁寧に見ていた。
本当に子供に関心のない父親だ。昔からそうだった。子供の世話は全部私に押し付け、子供が何かしでかすと、育て方が悪いと私に怒りをぶつけてきた。
私はイライラを噛み殺して、
「話し合いよ。あの子は本当はやさしい子なのよ。今は悪い子を演じているだけ。私たちから歩み寄っていけば、きっと、心を開いてくれるわ。ねえ、聞いてる?」
夫はある一枚の広告をじっと見つめていた。競馬新聞を読む時の目だ。こっちの声は聞こえてはいない。紙を持った手は微動だにしない。
私は何の広告を見ているのかと、首を伸ばした。
『美容整形に新革命』
顔のしわをとって、十歳若返る。脂肪を吸引して五キロ痩せる。などといった美容整形の内容が言葉巧みに書かれていた。
呆れて、溜め息が出た。
――何よ。そんなチラシ見て。今更若返ろうっていうの? こっちは真剣な話をしているのに何て人なの。
私は机を叩いて、
「ちょっと、そんな広告どうでもいいでしょ。私の話を聞いてよ」
夫は一瞬目を細めて、うっとおしいといった感じで顔を上げた。
「どうでもいいことないよ。この『内藤クリニック』では、俺が基礎の段階から研究して開発した最新の医療機器を使ってくれているんだ。どんな具合なのか知りたくもなるだろ」
夫は大手機械メーカーでエンジニアとして働いている。今は、医療機器の開発を担当し、それなりの成果も上げているらしかった。三人で暮らすには十分過ぎるほどの給料をもらっている。
――こんな時でも頭の中は仕事だけ。自分の仕事さえうまくいっていれば家族のことなんてどうでもいいのよ。技術者としては優秀かもしれないけど、父親としては失格ね。
と心の中で文句を言った。
「ほんとあなたって最悪だわ」
私は立ち上がって夫の手を掴んだ。指先に挟まっていた煙草が机の上に転がり、弱々しく煙を出した。
「何するんだ?」
「いいからちょっと来て」
私は魚を吊り上げるように、夫を引っ張り上げた。
「徹と話をするのよ。あなたも一緒に呼びかけて」
夫は露骨に嫌な顔をして、ぜんまい仕掛けの人形の足取りで私のあとについてきた。
ドアの前で大きく息を吸うと、
「徹さん。話があるんだけれど、今時間あります?」
床に目をやりながらドアに耳を向けた。足元にはケチャップや醤油の染みが残っている。
ドアの向こうからは腹に響く低い音の音楽が聞こえるだけだった。さっきとは違う曲のようだ。
「いるんでしょ? 開けてちょうだい」
曲の音に負けないように声を張り上げた。
しばらく待っても返事はない。
もう一度呼びかけようと口を開けた時、夫が私の肩に手をかけた。
「えっ?」
「俺が話そう」
私は後ろに下がった。
夫は、俺が何でこんなことをしなくてはいけないんだ、といった表情でドアの前に立つと、いきなりドアを殴った。ラジカセの音を吹き飛ばすくらいの大きな音が家中に響いた。
私は飛び上がった心臓をおさえるように胸に手を当てた。
「おい、徹。いつまで閉じこもっているつもりだ。出てきなさい」
鍵の掛かったドアノブを乱暴に回しながら言った。それでもドアはびくともしない。
「うるせえ。そんなに怒鳴るんじゃねえよ。今忙しいんだ。とっととどっかに行けよ」
久しぶりに聞いた徹の声は、私の背筋を凍らすほどの冷たさがあった。
「どうしてなんだ。どうして父さんたちを避ける? 何が気に入らないんだ?」
部屋の中から笑い声が聞こえた。低い、こらえるような笑いだった。音楽は聞こえない。ラジカセのスイッチは切ったようだ。
「何が気に入らないかだって? いまさらそんなこと言っても遅いんだよ」
私はドアの隙間から、
「ねえ、どうして? 私は好きなようにしていいって思っているのよ。好きな時に食事して、好きなテレビ見て、好きな時に寝たらいい。気に入らないことなんてないはずよ。だから出てきてちょうだい」
「その好きなようにっていうのは、お前の好きなようにだろ。お前が喜ぶように行動しろってことだろ? 徹は優しい子、徹は素直な子、徹は嘘をつかない子。勝手なことばかり言いやがって、もううんざりなんだよ。
俺はお前が思っているように優しくもなければ素直でもないんだよ。嘘もつくし、人を裏切ったりもする」
私のことを、お前、って呼ぶなんて徹の口から出た言葉だとは思えなかった。まったく知らない他人の言葉のように聞こえた。
――素直で優しかったわけではなく、逆らうと面倒なことになると思って、適当に私の言うことをきいて従っていればいいと思っていたのだろうか……。
夫は、
「とにかくお互い顔を見ながら話をしよう。話し合ったらわかりあえるさ」
「もう遅い、遅いんだよ。お前らに話す言葉なんてなくしちまった。もう何も期待なんてしちゃいない」
「それが両親に対して言う言葉か」
夫が怒鳴った。私はすでに頭の中が真っ白になっていた。今までずっとかわいい子猫だと思って育てていたものが、実は獰猛な虎だったのだ。檻に閉じこもった虎。今扉を開けたら私たちは食われてぼろぼろになってしまう。
気が付くと、私は階段を独りで下りていた。
「お前らなんて、俺の顔をした人形と暮らしたらいい。そうしたら反抗しないし、部屋に閉じこもったりもしないさ」
という徹の言葉が遠くで聞こえた。
窓の外では小鳥たちが、電池の切れかけた目覚まし時計のように優しくさえずっていた。徹はごろんと寝返りをうった。カーテンの隙間から射し込む光が顔に当たり、眉をひそめながら目を開けた。
冷えた空気が肺に入ってきて、徹はベッドの上で体を起こすと、うーっと声を出して伸びをした。
「また、いつもの朝か。まったく毎日つまらないぜ」
そう吐き捨てて、枕元の置き時計で時間を確認した。
七時三十分。
監視モニターの電源を入れると、廊下の映像が映し出された。部屋の前に朝食が置かれていた。イチゴジャムがたっぷりと塗られた食パンとスクランブルエッグ。そして、ポテトサラダだった。
大げさに舌打ちして、
「またこのメニューか。ちょっとは工夫しろよな」
徹は音を立てないよう、慎重にドアを開けた。誰もいないことを確認すると盆に乗せられた食事を部屋に持ち込んだ。
食パンを食べようとした瞬間、思い出したようにして立ち上がると、ラジカセの電源を入れた。軽快な音楽が鳴り響き、鳥のさえずりは消え去った。
徹は音楽に合わせ小刻みに体を揺らしながら、食事をした。
朝、夫を送り出すと台所の椅子に座って外を眺めた。眩しいくらいの強い光が差し込んでいる。家の前をがやがやとお喋りをしながら小学生たちが歩いて行く。
私は目を細め、昨日の夜のことを思い出していた。
――徹が優しい子だというのは、私が思い込んでいただけなのだろうか……。
昨日まではちゃんと話さえすればまた昔のように、一緒に泣いたり笑ったりできると信じていた。三人で食事をしながら、具にもつかないくだらない話をして、盛り上がれるようになると信じていた。
――徹のことがわからない。何もかもが……。
そう考えて、両手をぎゅっと握り締めた時、窓の上に足が見えた。徹が下りてきたのだ。学校にはきちんと毎日行っているようだった。
見なれた光景も、今日はなぜかどきりとした。徹がどんな顔をして下りてくるのかが気になった。
徹はいつもより急いでいるようだった。スルスルと慣れた動作で梯子をつたっていた。
徹の顔が視界に入りかけた瞬間、徹の姿は見えなくなった。
「あっ」
私は立ち上がりながら叫んでいた。
徹が足を踏み外し、地面に落下したのだ。体が地面にぶつかる鈍い音がした。
急いで外に飛び出し、徹に駆け寄った。徹は右足首を押さえながら座っていた。顔をしかめ、かなり痛そうだった。
「大丈夫? 怪我はない?」
近付いた私に、
「うるせえ。来るんじゃねえ」
と片手で犬を追い払うような動作をした。
「でも、足首痛いんじゃないの?」
「うるさいって言ってるだろ。こんなの痛くもなんともないんだよ」
徹はふらふらと立ち上がると、右足を引き摺るようにして、歩いていった。何もしてあげられない私はただその場に立ち尽くした。
スーパーで晩ご飯の材料を買って帰ると、ポストに手紙が入っていた。真っ白な正方形に近い封筒だった。切手は貼られていない。誰かが直接入れていったものらしい。
――手紙? 誰からかしら。
裏返してみても、差し出し人の名前はない。
家に入り、冷蔵庫に食材を入れると、手紙を目の前にして座った。糊付けされた部分を丁寧にはがすと中を除き込んだ。
写真が一枚入っている。
「何の写真かしら」
取り出して、机に置いた。
「ん?」
撮影された光景に釘付けになった。
写真には徹が写っていた。異常なのは学生服を着た徹が椅子に縛り付けられていることだった。体は椅子に固定するようにロープで縛られていた。両手、両足は揃えてガムテープで巻かれている。口にもガムテープは貼られていた。まったく身動きができないことはすぐにわかった。
――これはいったいどういうこと?
もう一度封筒の中を見てみても、他には何も入っていない。
――徹のいたずらなのだろうか?
そう考えても、理由が思いつかなかった。
自分で私たちと話なんかしないと言っておいてこんなばかげた冗談をするとは考えられない。
あれこれと考えていると、電話が鳴った。
「もしもし、奥田です」
私は高目の声で丁寧に話した。
「写真は見たか?」
金属的な声だった。声を加工して、ロボットが話をしているような音程にしている。男か女かもわからない。
私は徹が何かやばいことに巻き込まれていることを感じ取った。
「見たわ。あんたは誰よ。徹をどうしようっていうの?」
「質問はするな。こっちの言うことにだけ答えるんだ。お前の息子、徹はある場所に監禁した」
目の前の視界が消えた。暗い闇の中に落ちていく、そんな気持ちになった。
――徹が監禁された?
私は震える声で、
「監禁したって、徹を誘拐したのね。何が目的なの?」
「何度も言わせるな。質問は受け付けない。いいか、このことは警察には絶対に知らせるな。こちらを甘く見るなよ。そっちのことは常に監視している。もし、警察に知らせたら息子の命はない。あいつの心臓を切りとって送りつけてやる」
私はごくりと唾を飲み込んだ。受話器を持つ手の震えが止まらない。
「だが、安心しろ。警察に連絡さえしなければ、息子は無傷で返してやる」
「どうしたら息子を返してもらえるの?」
頭の中では貯金の額を思い出していた。
――身代金の要求だろう。一千万か一億か。いずれにせよ、うちにそんなお金はない。
夫の給料は安くはないが、この家のローンだって払っている。大金があるわけがなかった。それでも、徹を助けるためにはなんとかしなければならない。
私は目を閉じて言葉を待った。
「百万だ。日本円で百万円用意しろ。わかったか?」
「百万円?」
思わず訊き返した。
――たった百万円?
大金には違いないが、誘拐犯が要求する額ではない。
「そうだ。すぐに用意しろ。金と引き換えに息子は返してやる。引き換え方法については明日連絡する。それまでに金を用意しておくんだいいな?」
「は、はい」
「繰り返し言うが、警察には連絡するなよ。どんな方法で連絡しようが、すぐばれるぞ。じゃあ、また明日かける」
そこで電話は切れた。私は受話器を持ったまま、しばらくマネキンのようにじっと静止していた。
――あの写真は電話をかけてきた人物が入れたものだったんだわ。ということは相手はこっちの家を知っているってことだ。犯人は家の様子を観察しているに違いない。警察に連絡することは本当にまずい。
冷静さを取り戻してから台所に向かったが、料理を作る気にもなれず、落ちるように椅子に座ると、今日は誰も上らないはしごを見つめた。
「そんなことがあっただなんて、なんですぐ俺に知らせなかったんだ」
遅くに帰ってきた夫に、昼間にかかってきた電話の件を説明したら、わめき散らした。
「連絡なんてできるわけないじゃない。電話して、すぐ帰ってきて、って言ったところで、どうせ、忙しいから帰れない、って言われるだけでしょ?」
「……」
夫は無言で、煙草に火を点けた。
「これが写真よ」
夫の目の前に叩きつけるようにして置いた。
夫はしばらく眺めてから、
「金は用意したのか?」
「したわよ。そのくらいのお金なら預金を下ろせば足りるわ。それにしても、おかしいのよね。どうしてそんなに少ないお金なんだと思う? 誘拐だったら、普通何千万って要求するでしょ」
夫は気持ちよさそうに煙を吐いて、
「そのくらいのお金なら簡単に用意できると思ったからかもしれないな。犯人はお金さえ手に入ればいいと思っているんだよ。だから、百万を確実に取ろうということだろう。何千万も要求したら用意できない上、警察に連絡される可能性も高くなる」
「じゃあ、犯人はお金さえ払えば、徹を必ず返してくれるってこと?」
「俺はそう思うよ。犯人はこういうことを何度もやっているのだろう。一軒で取れるお金が少なくても何回もやれば結構な額になる。ニュースになっていないのは誰も警察には連絡していないからだろう」
仕事で訓練されているせいか、夫は物事を冷静に分析する能力は私より優れている。
「それが正しいとしても、自分の息子が帰ってきてから通報した親もいるんじゃないのかしら?」
「手紙をポストに入れて行くということは、家の場所を知っているということだ。そうなると、通報なんかしたらその後に息子を殺されるかもしれない。いつどこで犯人が見張っているのかわからないんだからな。そう考えたら通報なんてできなないさ」
「そうか、百万円で子供が助かればそれでいいかと思うものよね。犯人も二度同じ子供を誘拐したら、次は警察に連絡されるだろうと思って、繰り返しはしないだろうし……」
夫と話をしている間に、百万さえ払えば徹は帰ってくる、という安心感が芽生えてきた。
――そんなにお金持ちでもないうちが狙われたのは、得に理由なんてなかったんだ。犯人は百万が欲しいだけ。
元気の出てきた私は、大きめの声で、
「私は最初、徹が誰かの恨みをかうようなことをして、その誰かが報復のために誘拐したのかとも考えたんだけれど違うみたいね。でも、徹はもう中学生でしょ、犯人も誘拐するなら小学生とか幼稚園児のほうがしやすいはずなのにね」
少し考えるように目線を天井に向けた夫は、灰皿に灰を落として、
「小さい子は意外に一人で行動することが少ないからじゃないのか? 犯人は誰かに見られる危険は犯したくないはず。そうなると、中学生の方が狙い易い。それか、もしかすると犯人は若い女性なのかもしれない」
「色仕掛けってこと?」
「そう。正常な中学生なら異性に興味を持ち始めるものだ。ちょっとかわいい女性に誘われたら簡単についていくさ。もし誘いに失敗しても犯罪ではないしな。数撃ちゃ当たるだよ」
そう言って含み笑いをした。
――案外それが正解かもしれないわね。どっか遊びに行かない? と声をかけて、そのまま監禁してしまう。新手の誘拐犯ってことか……。
私は勢いよく立ち上がると、
「徹の部屋を見てみましょう」
「部屋だって? そんなの見てどうしようっていうんだよ? それに鍵がかかっていて入れないんだろ」
「犯人を知る手掛かりがあるかもしれないわ。ドアは壊して入ればいいじゃない」
「犯人って、お前そいつを捕まえようと思っているのか?」
「そうよ。警察に連絡できないなら、明日、お金を渡す時に私の手で捕まえるわ。徹を誘拐するなんて許せないじゃない」
相手が女性かもしれないと考えたら、急に怒りが込み上げてきた。同じ女性に舐められてなんかいられない。そんな思いがあったのかもしれない。
「そんな無茶な……」
「とにかく何とか徹の部屋のドアを壊してちょうだい」
夫はやれやれといった様子で煙草を揉み消すと、起き上がり、
「わかったよ。部屋の前で待っていてくれ」
と道具を取りに外の物置に向かった。
ドライバーやレンチの入った道具箱を持ってきた夫は、ドアノブのネジを器用な手つきで外し、ノブを取り除いた。その後、内側に付けられた鍵もあっさりと外した。
さすがエンジニア、作業が鮮やかだと感心した。今日の夫は少しは役に立ってくれる。
ドアを開けてから、私は様子を確かめるように部屋に首だけを突っ込んで覗いた。私とは対照的に、夫は中の様子などろくに確認もしないで、いきなり突入していった。一目散に徹の勉強机に向かうと机の中を調べ始めた。面倒なことはすぐに片付けたい性格なのだ。
机の上にはデスクトップ型のパソコンが置かれ。その大きなモニターが、机の面積の大部分を占領し、とても勉強などできる状態ではなかった。
教科書のたぐいはすべて床に積み上げられていた。何冊かは机の下に潜り込んでいる。部屋の上の方にはロープが張られ、シャツやら下着やらが吊されている。
どうやら洗濯後の衣類を干しているらしい。洗濯機の中に、洗え、とばかりに徹の服が入れられていたことはなかったから、自分で洗っていることは知っていた。私たちの寝ている間に洗濯機を使っているのだろう。
――こんな服始めて見るわ。私の買ってあげたものではない。
最近は服を買い与えていないので、自分で購入しているのだろうとは思っていたが、実際に知らない服を目の当たりにすると、徹も自分で服を選ぶようになったのかと寂しい気分になった。徹の服をあれこれ考えながら選ぶのも楽しみの一つだったのだ。その喜びを失ってしまった。
部屋の隅には小型テレビがあり、テレビゲームとつながれていた。見たことのない機械だった。本棚にはファッションや音楽関係の雑誌が詰め込まれている。整頓されていないため、何冊かは落ちそうになっていた。
この部屋の中には私のまったく知らない徹の世界があった。パソコン、ファッション、ゲーム、音楽。すべてが、私の思い描く徹の姿と一致しない。
――徹はいつのまにかこういうものに興味を持ち始めていたのか……。
学校から帰るとテレビで漫画を見て、お菓子をねだっていた徹はもういないのだ。
「おい。なに突っ立っているんだ。手がかりを探すんだろ? 手伝えよ」
夫の言葉で我に返った私は、
「あっ、は、はい」
慌てて本棚に手を伸ばした。
この時になって初めて、夫には調査したいなどと言いながら、本当は徹の部屋に入ってみたいだけだったことに気が付いた。犯人の手掛かりを探すといっても何をどうしたらいいのかわからないのだ。犯人ではなく徹の調査をしたい。そう思っていただけだった。
部屋にはそれから三十分ほどいただろうか。一通り引っ掻き回したが犯人を特定するようなものはみつからなかった。やはり、手掛かりになるようなものを残すような間抜けな相手ではない。綿密な計画で行動する狡猾な人間なのだ。
私はリビングのソファに腰掛けると、
「何もなかったわね。明日の金の受け渡し大丈夫かしら」
疲れきった様子の夫は、
「一人で行くのか?」
「当然でしょ。警察には連絡できないし、あなたは会社でしょ?」
「お前を一人で行かせるわけにはいかない。明日は会社を休むから二人で犯人に会いに行こう」
夫はあてにならない。私一人で行こう。そう思っていた私は夫の意外な言葉に驚いた。徹の父兄参観や運動会ですら、仕事があると言って一度も来たことがない夫でも今回ばかりは心配なのだろう。
「なによ。仕事を休むなんて珍しいじゃない。そんな言葉始めて聞いたわ」
「俺も父親だ。息子のことは心配だし、お前一人を危険な目に遭わせて平気なわけけはないさ」
「明日になって、やっぱり行かない。なんて言わないでよ」
そう突っかかったが内心は、ありがとう、と呟いていた。
昼間は暖かいが夜になると肌寒い。冷たいすきま風が床を這うように流れてくる。
私は布団の中で丸くなった。明日のことを考えると、不安で眠ることができなかった。
――徹が無事に帰ってきますように……。
頭の中には幼いころの徹の顔が浮かんでいた。その見ているだけで癒やされる無邪気な笑顔がいつまでも消えなかった。
朝食を食べながら、何度か電話に目をやった。
――いつ電話をかけてくるのだろうか。
夫も私と同じように目線を移動させている。電話が気になっているようだ。いつもより箸の使い方がぎこちない。
夫は口の乾きを潤すように味噌汁を一口飲んで、
「犯人は何時に電話するっていうことは言っていなかったのか?」
「なにも言わなかったわ。ただ、明日までに金を用意しておけって言ってただけよ」
夫はちらりと一回電話を見て、
「焦っても仕方がないな。ゆっくり待とう」
と言うと手早く食事を済ませた。そのあと、リビングのソファに移動して、いつものように煙草をくわえた。
それから一時間がたち、二時間がたった。
夫の目の前の灰皿は煙草の吸殻で一杯になった。夫は膝を小刻みに揺らしながら、腕時計で時間を確認した。私もつられて自分の時計を見た。
――十一時か……。
いつまで待てばいいのかと落ちつかず、何度も紅茶に口をつけた。
電話が鳴った時もティーカップを持ち上げていた。私は危うく落としそうになったカップをなんとか机の上に置くと立ち上がった。
ふいに目が合った夫はこくりと一回うなづいた。膝が急に振動しはじめた。それでもできるかぎり素早く歩み寄ると、受話器に手を伸ばした。
「もしもし、奥田です」
丁寧に語りかけ、相手の言葉を待った。
「金は用意したか?」
昨日聞いた機械仕掛けの声だった。
「ちゃんと百万円、用意したわ。徹は無事なんでしょうね」
「心配するな。金さえ渡せばすぐに返してやる」
「徹の声を聞かせて、お願い。一言だけでいいわ」
「声だと……」
少し間があってから、
「いいだろう。ちょっと待っていろ」
深呼吸した。夫を見ると心配そうな目で私をじっと見つめている。
しばらくして、電話の向こうで人の気配がしたと思ったら、
「か、母さん?」
小さい、弱い声だ。
「徹? 徹なの? 大丈夫? 怪我はしてない?」
「うん。元気だよ」
と元気のなさそうな声で答えた。
「ねえ、今どこにいるの?」
「そこまでだ。一言だけって約束だ」
また、あの甲高い、金属的な声が邪魔をした。
「お金はどうやって渡せばいいの? 今すぐに渡したいの。教えて」
「まあ、まあ。そんなに焦るなって。金は今から言う場所に持ってこい。町外れの廃ビルだ。行けばすぐにわかる」
私は相手の告げた住所をメモした。ここからはそれほど離れた場所ではない。車で行けば三十分もかからないだろう。
「そこに持っていけばいいのね。急いで行くわ」
「金はビニール袋に入れて、口をガムテープで縛っておけ、いいな」
「わかったわ」
私は素早くメモした。
「警察には連絡していないだろうな」
「ええ、していないわ」
「いい心がけだ。それなら二人でこい。今日は父親が珍しく会社を休んでいるんだろ?」
私は、うっ、と息が詰まった。
――夫が会社を休んでいることを知っているなんて……。やはり、犯人はどこかから監視している。
私は動揺を悟られないように、
「ええ、夫もいるわよ」
「待っているから早くこい。じゃあ、また後でな」
犯人はそう言って乱暴に電話を切った。会話が終わったことに気付いた夫は、
「どうだった? 徹は無事か?」
「大丈夫よ。声も聞いたわ」
それにしても、あのか細くて今にも途切れそうだった声。徹は何十時間も椅子に張りつけられ、身動きが取れないでいる。不安で仕方がないのだ。
私は胸に何かが集まってくるような感覚がして、手を当てた。
――今行くわ。徹。
大きく息を吸って、
「とにかく早く行きましょう。場所はここよ」
とメモ用紙を渡した。
私たちは犯人に言われた通り、ビニール袋にお金を入れ、ガムテープで口をとめると急いで車に乗り込み、犯人の指定した場所に向かった。
ハンドルを握る夫は車内が暑いわけでもないのに何度もハンカチで手の汗を拭った。
夏から秋へとの季節の変化を知らせるように、暖かな光が車内に射し込んでくる。
――私たち三人、この事件で何かが変わるのだろうか。
そんなことを考えながら目を細め、窓の外を眺めていた。
目的のビルは犯人が電話で言った通り、すぐに見つかった。三階建て。白色の外壁は薄気味悪い灰色へと変色していた。繁華街から外れた裏通り、辺りに人影はない。隠れて取り引きをするには絶好の場所だった。
「止めて。ここだわ」
ビルの真ん前に車を止めると、入り口に駆け寄った。扉は取り外されていた。
私たちは注意深く目線を動かしながら奥へと歩いて行った。湿った冷たい空気が鼻に入ってくる。
建物の中には廊下を挟んで幾つかの部屋があった。
「どこだろう?」
私は廊下の突き当たりを見ながら夫に訊いた。
「わからないな。とにかく、開いている部屋がないか調べよう」
そう言いながら、夫は近くのドアに手をかけた。しかし、すぐに首を横に振った。私も反対側のドアを順番に調べていった。しかし、どの部屋も鍵がかかっていて開けることができない。
しばらくすると、
「おーい」
夫の声が聞こえた。見ると、先に行っていた夫が手招きしている。
「こっちだ。この部屋のドアが開いている」
私は夫の開けたドアから部屋に飛び込んだ。瞬時に部屋全体を見渡した。薄暗くて、真四角。何もない部屋だった。
足元には割れた窓ガラスの破片が散らばっている。壁のコンクリートはいたるところで剥がれ落ちていた。
私はそれを踏みつけながら部屋の中央へと進んだ。
「いない。徹はいないわ。ここじゃない」
回りの壁をぐるりと見て言った。私があきらめて部屋を出ようとした時、夫が、
「何か紙が落ちているぞ」
しゃべりながら屈み込むと一枚の紙片を取り上げた。色が変化していない新しい紙。ずっと落ちていたわけではなさそうだった。
私は夫の手元を除いた。
その紙には、『この真上の部屋にこい』とだけ、ワープロの文字で書かれていた。
「二階だ。急ごう」
夫の言葉に頷くと、走って二階へと向かった。二階も一階と同じ造りになっていたため真上の部屋はすぐわかった。
「あそこね」
「ああ」
滅多に運動しない私は息を切らせながら部屋の前に立つと、勢いよくドアを開けた。
最初に目に入ったのは徹の姿だった。窓際で椅子に縛られている。写真で見たのと同じ光景だった。徹は私たちを見つけて悶えるように体を動かした。口にはガムテープが貼られ、声は出せない。
「徹。今助けるわ」
私が駆け寄ろうとしたその時、
「ちゃんと金は持ってきたか?」
またあの声だった。部屋の中でキンキンと響いた。人間の姿は見えない。何処かに仕掛けられたスピーカーから声が聞こえているようだった。
私は立ち止まり、
「持ってきたわ。どうすればいいの?」
声のする方に向かって言った。
「お前の息子が縛られている椅子があるだろう」
私は一瞬で徹に目を向けた。
「その椅子の隣の床に穴が開いている。そこから金を落とせ」
見ると徹の真横の床に直径二十センチほどの穴が開いていた。
「いいか。息子は金を落としてから助けるんだ。ちゃんと見張っている。金を落とす前に息子に触れたらそいつの命はないと思え」
部屋の壁に反響して聞き取りにくかったが、内容は理解した。
――なるほど。犯人は一階にいるってことだわ。私たちの落としたお金を拾ってそのまま逃げるつもりね。
私は夫にお金を託すと入り口のドアの方へ歩み寄った。
夫は穴の傍でしゃがむと百万の入ったビニール袋をねじ込みながら穴に入れていった。
それを確認した私は部屋を飛び出し、一階へと向かった。
――徹をこんな目に合わせた犯人を、このまま逃がすわけにはいかない。
私は隠し持っていたナイフを右手に握り、階段を一段飛ばしで駆け下りた。あと数段で一階だというところで、目の前に人影が見えた。
毛糸で編んだような黒いマスクを被り、上下黒のトレーナーを着ている。右手に夫の落としたビニール袋を持っているだけで、凶器は持っていない。
その人物もこちらの姿に気が付き、ひるんだように動きを止めた。
「動かないで」
力一杯叫ぶ。
「あんたが徹を誘拐した犯人ね」
私はナイフで威嚇しながら言った。目の前の人間は背格好からして男に間違いなかった。身長はそれほど高くはないが、体格がっしりしている。
「……」
「何とか言いなさいよ」
それでも何も言わないその男は身動き一つしないでこっちを見ている。
――この男、何を考えているの?
焦った私は、男に一歩足を進めた。その瞬間、後頭部に激痛が走った。その衝撃は電気のように全身に伝わり、私は倒れるようにして屈み込んだ。
「あ、あ……」
苦痛に顔を歪めながら後ろを振り返ると、正面の男と同じ格好をした人間が立っていた。
その後ろの男は、
「あいにくだったな。俺たちは一人じゃないんだ」
と言った。低い、腹に響く声だった。
――うかつだったわ。複数犯か……。
正面の男が私の落としたナイフを拾い上げた。
「こんなちゃちなナイフで俺たちを襲おうなんて大した度胸だな」
と私の首筋にナイフを当てた。全身が穴を開けた風船のように縮こまっていくのを感じた。
私は頬を痙攣させながら、
「わ、私をどうしようっていうの?」
「さあ、どうしようかなあ」
ナイフを僅かに動かした。首筋がちくりと痛んだ。
「こいつを誘拐して、もう百万もらうっていうのはどうだ?」
後ろの男が言った。
「そいつはいいな」
二人で大笑いした。ひとしきり笑ってから、
「こんなところに長くいるのは危険だ。早いとこ逃げようぜ」とナイフの男。
「この女も傷なんか負わせて病院にでも行かれたら厄介だ。犯罪がらみだってことがバレるからな」
目の前の男が早口で言った。
「おい、いいか。俺たちを探そうなんて思うなよ。そんな真似したら、今度こそ息子の命はないぞ、いいな」
男がナイフを握り直した。
「まあ、二、三発殴っておけば、そんなことも考えなくなるだろう」
と正面の男がこぶしを振り上げた。後ろの男もナイフを持ったまま立ち上がり、私たちを見下ろした。
――殴られる……。
私は目を瞑って身をすくめた。その瞬間、誰かが近付いてくる気配がした。その誰かは私を殴ろうとした男に飛びかかった。
「うわっ」男の叫び声がこだまする。
「お、お前は……」
「母さんに暴力を振るうな」
徹だった。疲労を感じさせる目に精一杯の力を込めて、男を睨みつけていた。徹の隣には夫もいた。
「もう何もしないで金だけ持って、とっととどこかへ行け」と夫が凄んだ。
二人組の男たちは、ちっ、と舌打ちして走っていった。
力の抜けた私は座ったまま、廊下の壁に背中をもたれた。
「母さん、大丈夫? あいつらに何かされなかった?」
「ええ、母さんはなんともないわ」
そう言って徹を抱きしめた。徹の温かくて心地いい感触が私の肌に伝わってきた。昔は毎日のように体験できたこの感覚も、今は懐かしい。
――徹はいつの間かにこんなにもたくましくなっていたんだ。
そう思うと涙が滲んできた。
「母さん、ごめん、僕……」
徹の目からは涙がこぼれている。
徹は昔からよく声もたてないでぽろぽろと涙を流していた。とてもさびしがりやで、涙もろかった。私は涙で目が霞みながら、ついつい微笑まずにはいられなかった。笑っているのに泣いていた。
――やっぱり、徹は思っていた通り、昔と変わらない優しい子だったんだ。こんなにも私のことを心配してくれ、反省もしていてくれる。
数日前に徹がさげすむように私たちに言った言葉は嘘だったんだ。本当は私たちのことを信頼し、愛していてくれている。私の思い描いた通りにこれからもずっと、素直で優しい子なのだ。
そう考えると益々涙が止まらなかった。
――あんなお金くれてやるわ。たった百万円で家族の絆を取り戻すことができたなんて安いものだわ。
私は、これからは三人で仲良く暮らしていこう、と心に誓った。
――私たちは変わることができた……。
ビルの廊下を流れる冷たい空気も今はどこか爽やかで、すがすがしい香りがした。
「徹ちゃん、はしごから落ちときの怪我は痛くないの?」
「えっ?」
と一瞬戸惑ったような表情を浮かべ、
「あ、ああ。あれね。怪我なんてしていなかったんだよ。だから平気さ」
「そう、よかったわ。それなら久しぶりに三人で食事でもいかない?」と私。
「そうだな。おいしいものを食べにいこうか」
すると徹が、
「僕、寿司がいいな」と手を上げながら言った。
「おいおい、いきなり寿司か。じゃあ、回っているやつでもいいか?」
夫の言葉で三人とも心の底から笑った。三人で笑えるなんて何年ぶりのことなのだろう。とても思い出すことなどできなかった。
――神様、幸せをありがとう。
私はそう心で感謝して、日の当たるビルの外へと向かった。
鳥たちのさえすりがいつもよりもよく聞こえる朝だった。青年はごろんと寝返りをうった。射し込む光が顔に当たり、眉をひそめながら目を開けた。
冷えた空気が肺に入ってきて、青年はベッドの上で体を起こすと、うーっと声を出して伸びをした。
「また、いつもの朝か。まったく毎日つまらないぜ」
といつものように愚痴を言った。しかし、様子が少し違うことに気がついた。
――何だよ。今日はやけに鳥の声がうるさいな。それに空気も冷たいし。
そう考えながら、枕元の置き時計で時間を確認しようとした。
「あれっ。時計がない」
眠い目を擦りながら、
「ここに置いたはずなのに。落ちたのか?」
そう思ってベッドから降りたとき異変に気が付いた。足の裏が刺すように冷たい。見ると、立っている床はコンクリート剥き出しだった。
「何だ? 絨毯がない」
驚いてきょろきょろと目線を移動させた。目覚まし時計どころか、監視カメラのモニターもラジカセもパソコンもない。何もかもがなくなっている。
――どういうことだ? ここは俺の部屋じゃない。
見上げると高い位置に鉄格子が付けられた窓があり、そこから冷たい外気と鳥のさえずり声が降り注いでいた。
一気に目が覚めた青年は、
「そ、そんな。コンクリートで囲まれた部屋なんて、まるで牢獄じゃないか」
そう呟いて、正面に見えた鉄でできたドアに歩み寄り、ドアをどんどんと力強く叩いた。
「おい、誰かいるんだろ。ここから出してくれよ」
そう叫んでから、しばらく待っても返事はない。
「まじかよ。どうなってんだ?」
遠くから、カツンカツン、というよく響く足音が近づいてきた。
青年はじっとドアの前に立ったまま、その人物が近づくのを待った。足音はドアの前で止まった。
青年が話し掛けようと口を開いた瞬間、ドアの向こうの人物が、
「伊藤直哉。朝御飯だ」
低い重い声で言った。
「おい、ここはどこなんだよ。それに俺は伊藤直哉じゃない。奥田徹だ」
青年は切羽詰まった声で言った。
ドアの向こうの男は何も答えず、扉の下の小窓を開けると、朝食の乗った盆を部屋の中に入れた。そして、すぐに小窓を閉めると、来たときと同じように足音を響かせながらどこかへ歩いていった。
「おい、待てよ。待ってくれ」
青年の叫び声は廊下に響いていたが、男は歩みを止めることはなかった。
「ちきちょう。行っちまいやがった」
溜息をついて男の残していった朝食を見た。固いフランスパンが一個皿に乗ってるだけだった。
「これが朝食?」
頭の中にぱっと昨日まで食べていた、イチゴジャムがたっぷりと塗られたパンを思い描いた。
青年はよろよろと部屋の中にある洗面台に向かった。
――夢なら早く覚めてくれ。
そう祈りながら顔を洗おうと蛇口に手を伸ばした。が、途中で手を止めた。指先が小刻みに痙攣しはじめている。その痙攣はすぐに全身に伝わった。もう立っているのがやっといった様子で足をがくがく震わせ、両手で顔を押さえた。目の前の鏡を凝視しながら、肌が引きちぎれるんじゃないかと思うほどの勢いで顔を撫で回し、
「お、お前は誰だ」
と鏡が割れるほどの声を出した。
徹が戻ってきてから数日後。
孝平は人通りの多い繁華街を歩いていた。人目を気にしながら、ある綺麗なビルに入るとエレベーターで三階まで上がった。
廊下を少し歩いて、ドアの前で足を止めた。ドアには『内藤クリニック』とある。
孝平はノックして中に入った。
「どうぞ」
白衣を着た太めの男が孝平に、ソファへ座るようにうながした。
孝平が座るやいなや、
「あれからどうですか?」と訊いた。
「ええ、順調です。妻は何も疑っていない様子です。それどころか、昔の徹に戻ってくれたと大喜びですよ」
「それはよかった。それならあなたも百万円払った甲斐があるというものでしょう」
たるんだ頬を揺らして言った。
「ところで徹はどうしていますか?」
男は眉を潜めて、
「えっ? ああ、元の徹君のことですか?」
「はい」
「彼なら私どもの経営する孤児院で、伊藤直哉、として生活していますよ。家に帰してくれって喚いているようですが、あそこは牢獄のようなところ、逃げ出したりできません。そのうちに諦めるでしょう」
「そうなんですか……」
孝平はうつむいて言った。
「心配しているんですか? まあ、誰でも最初はそうですよ。でも、あなたもあの子のことなんてすぐに、きれいさっぱり忘れてしまいますよ。人間とはそういう生き物です」
「はあ……」
「それにしても、あなたが開発された装置は完璧ですね。おかげで私たちの新ビジネスも軌道に乗り始めましたよ」
「このような依頼は多いんですか?」
「世の中には子供が自分の思い通り行動してくれないと悩む親が大勢います。そんな親は子供が自分の思い描く通りの素直な子になってほしいと思っているわりに、子供のことなんてろくに見ていないから、子供がどんな性格なのか、何を考えているのか、しゃべり方はどうなのか、なんてことははっきりとは知らないんですよ。
ですから、顔が同じで体格がそれなりに近ければ他人であったとしても、自分の子供だと信じますよ。あなたの奥さんもそうなんじゃないんですか?」
「まあ、そうですね」と呟いた。
「あの孤児院で育った子供は親の愛情に飢えています。気に入られようとして、親の言うことはなんでも従いますよ」
と言って、薄く笑うと、
「これであなたも仕事に集中できますね」
「……」
「何か問題が発生しましたら、御連絡ください」
孝平は軽く一礼すると、部屋を出ていった。
代わりに痩せた白衣の男が入ってきて、
「今の方の息子さんだった少年が、孤児院でかなり暴れていて手がつけられないそうですよ」
男は鋭い目をして、
「そうか。殴るなり、懲罰室に入れるなりしてなんとか言うことをきかせるようにしろと伝えておけ」
「はい」
「そのうち親の愛が恋しくなる。そうしたら自分から、顔を貼りかえてください、別な家族のところへ行かせてください、と言うようになるさ」
「そうですね」
男はコーヒーを一口飲み、
「それより、次の男の子のことなんだが、そろそろあの孤児院に行って体格の似た子を探さないといけないな。写真とビデオを忘れないで準備しておいてくれ。
似た子供さえ見つかれば、あとはターゲットを誘拐して、あの装置を使って二人の顔の皮膚をはがし、マスクにして貼りかえるだけだ。今度もいつも通りやればうまくいく。親は自分の息子の仮面を被った赤の他人と暮らしていくことになるが、何の疑いも持たないさ」
「準備はできております。今すぐ出発なさいますか?」
「ああ」
窓の外では、金色へと紅葉する前の、青々とした葉を蓄えたイチョウの木が風に揺らいでいた。
END
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