「辻君さあ、ちょっときてくれない」
声の主を見ると佐藤係長だった。厳しい目つきで手招きしている。
――またか。今度は何だよ――
「何でしょうか?」
背もたれに体重をあずける佐藤係長の金縁眼鏡が、蛍光灯の光りを反射した。
「報告書なんどけどさあ」
語尾に、さあ、を付けるのが係長の口癖だ。
「完了期限が書かかれてないじゃないか。いつまでに終わらせるのか書いておいてくれよ。期限の分からない仕事はしたくないんだよ」
「はい、すいません」
俺は目を合わさず、うつむいた。
――まったく、細かいやつだ。いつまでにできるか分からないから、期限を書いてないに決まってるだろ――
俺は表情を変えず、だまって下を見ていた。
「もう十年以上この会社で働いているんだろ? ちゃんと仕事してもらわないと、こっちが困るんだからさあ」
「はい、すいません」棒読みした。
――また始まった。用件を言った後の嫌味が長いんだよ。その間に仕事を進められるだろ。 だらだら仕事をするななんて言っておいて、自分が無駄にしゃべっているじゃないか――
その後も何かくどくどと言っていたが、俺の耳には入ってこなかった。最後の、まったく平社員は楽でいいよなあ、という発言だけが体全体に染みわたった。
――万年平社員……――
考える度に、いつからこうなってしまったんだろうと自己嫌悪に陥り、
――小学生の頃は、『この子は賢い、秀才だ』と言われていたのに……――
と現実逃避した考えを巡らせた。
自分の席に落ちるように座ると、沢井が話し掛けてきた。他の同期入社の連中が出世していく中で、俺と沢井だけは、いつまでたっても平社員のままだ。それでも、最近の沢井は何かを吹っ切ったような元気さがあり、まわりからの評判も上がっているように思えた。
「また、ねちっこく文句を言われたのか?」
細い眉を一直線に伸ばし、ささやいた。俺は小さく首を縦に振った。
「今夜も飲みに行こうぜ。何もかも忘れてさ」
いつもの軽いのり。こけた頬がへこむ。
「ああ。そうだな」
俺も沢井も独身貴族だ。他の連中より自由に使えるお金は多い。
お互いに愚痴をこぼしながら、お金を気にせず酒をあおるというのが最高に贅沢なひとときだと感じていた。
「小学生の頃にはクラスで一番の人気者で、秀才だったこの俺が、結婚できないなんておかしな世の中だ」
などと、酒の勢いで口をとがらせることもしょっちゅうだった。しかし、何を言ってみても、後にむなしさが残るだけだった。
「仕事の後のビールは格別にうまいよなあ」
流暢に言ったつもりだったが、舌がもつれてはっきりと発音できなかった。目の前には、枝豆、おでん、串カツ、お茶漬けが並べられ、すでに半分は腹の中だった。
「どうしたんだよ、辻。もう三杯目か。今日はやけにハイペースだなあ」
とビールジョッキを口に近づけた。俺には他のお客の話し声が遠くに聞こえていた。薄暗い居酒屋だった。
「俺たちってこれからどうなるんだろうなあ」と俺が言うと、
「どうなるって?」
沢井はお茶付けをかき込みながら、無関心そうに答えた。
「ちゃんと出世できるのかってことだよ」
「そりゃあ無理なんじゃないの? だって僕たちは、バブル時代にお情けで入社できた、だめ社員だからなあ」
さばさばとした口調だった。
「やけにあっさりと言うなあ。お前は出世したいとか思わないのか?」
「あんまり考えたことないなあ。平社員の方が重大な責任もなくて、気楽に仕事ができていいと思ってるよ」
俺は大きく息を吐き出した。
「そんな風に、余裕でいられるお前がうらやましいよ」
「辻もすぐに気楽に考えられるようになる」
「そうかなあ」
「そうだよ。人間は誰でも一生のうちで一度は輝いている時期があるものだよ。その時期を過ぎたのならもう輝くことはできないんだ。木を考えてみろ、火を点けてやったら一瞬ぱっと燃えるけれど、すぐ真っ黒な炭になっちまうだろ? 人間だってそうなんだよ。辻がもし、まだ輝いた時期がないのなら、焦らなくても、自然に光るよ。それで、輝いた後は諦めることだ。もう輝くことはないってね」
俺は冗談のつもりで、
「お前はもう燃え尽きた炭なのか?」
と言ったら、沢井は大声で笑い出した。
「あははは、そうだな。燃えかすだ」
どこか人生の勝者のような、余裕のある言い方だった。
――沢井の光った時期っていったいいつなんだ?――
だんだん冷静に物事を考えられるようになってきた。顔の火照りは取れた。
「じゃあ、お前はいつ輝いていたんだよ」
「僕は小学校のときだよ。あのころはスポーツ万能、頭脳明晰。ユーモアのセンスもあって、クラスの人気者だったんだ。まったく文句の付けようがないほどに輝いていたな」
俺は胸に剣を突き立てられたように感じた。
「俺と同じだ」ぽつりと呟く。
「辻も小学生の頃は優秀だったのか?」
「そう、お前の表現を使うと光を放っていたってことだよ」
俺は沢井の一度輝いたら、もう二度と輝くことはできないという言葉をなぜか真に受け、酔いも一気に醒めた。
――俺の輝ける時代は小学生のときだったのか? もう後に残っているのは光の当たらない暗い人生だけ……――
体が縮こまったかのように感じた。
「まあまあ、そんなに落ち込むなよ」
沢井は両腕に顔を埋めて伏せた俺の肩を抱きながら言った。続けて、耳元でささやいた。「いいことを教えてやるよ」
「なんだよ。いいことって。競馬の情報か?」
枝豆を口に飛ばしながら言った。
「相変わらず賭事が好きだなあ。違うよ」
やれやれと弱く首を振った。俺はじれったくなって、強めの口調で、
「じゃあ、何だよ」
沢井は辺りを警戒するように見渡したあと、
「面白いビデオがあるんだよ」
人目を気にして言う姿に俺はぴんときた。
「お前、まさか。アダルトビデオか?」
「違うよ。人の話は最後まで聞けって」
イライラしてきたらしく、早口になった。
「ビデオと言っても普通のビデオじゃあない。自分の頭の中に残っている思い出をビデオテープに録画することができるんだよ」
「はっ?」
口まで持ってきたビールジョッキがぴたりと止まった。俺は沢井が酔った勢いでありもしない戯言を言っているのだと思った。
「聞こえなかったのか? ある装置を使うと、過去に体験した思い出をビデオテープに、テレビ番組を録画するように画像として残すことができるんだよ」
「思い出をビデオテープに録画?」
口元を緩ませた。
「そう、かつての栄光のときをビデオテープに画像として残しておけるんだよ。すばらしいと思わないか?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。そんなことができるわけないだろ。俺が酔っているからって、からかうのはよしてくれよ」
「からかってなんかないよ。本当のことを言っているだけだ」
自信たっぷりといった感じだった。
「僕はそのビデオを持っているんだよ。一ヶ月くらい前に作ってもらったんだ。白黒とカラーのバージョンがあって、僕はカラーにしてもらったんだ。小学生のときの思い出をね。昔から覚えていた通りの記憶が、映像で楽しめるんだよ。大満足さ」
沢井が本当のことを言っているのか、小学校の頃は優秀だったと言った俺をからかってうそを言っているのか、判断できなかった。
「もしそれが本当だとして、それはどこで作ってもらえるんだ?」
「待ってろ」と言って、財布を持ち、中から一枚の名刺を引っ張り出し、
「ここだよ」と机の上に置いた。
名刺には『メモリービデオ研究所 所長 永倉幹夫』と書いてあった。住所もある。
「メモリービデオって、日本語で言ったら『思い出ビデオ』ってことだな」
「過去の思い出を録画したものだから、思い出ビデオさ」
「ふーん、なかなか面白そうだな」
沢井が、わざわざ名刺まで作って俺をからかうわけがないと思い、ビデオの存在を信じはじめていた。
――最近こいつが元気に見えたのは、この思い出ビデオってやつを見て、昔はほんとに優秀だったという自信を取り戻したからなんじゃないか――と考えていた。
「日曜日でもやっている。行ってみたら?」
週に一度の休みも、何の予定もなかった。
「そうだな。どうせやることといったら、競馬とパチンコだけだ。遊びに行くつもりで行ってみるよ」
後は会社の上司の悪口に話題が変わっていったが、俺の頭の片隅には、『思い出ビデオ』という言葉が、接着剤で貼り付けられたように残っていた。
太陽が高い建物に隠れて見えなくなってから、しばらく歩いて立ち止まった。目の前には古いビルがある。外壁はグレーで、細長い建物だ。見上げると、最上階である三階の窓に『メモリービデオ研究所』とある。
ビルの前に植えられた広葉樹は、部分的に赤茶色に変色していた。辺りに人影はない。
俺は狭い階段を上った。各階の踊り場には段ボールが積んであった。ゆっくりと進むと、上りきった正面にアルミ張りのドアが見えた。お客を招き入れるように開けられていた。
日頃の運動不足のせいか、息を切らせた。
「ここだな」
言葉を吐き出すと、呼吸を整えてから中を覗き込んだ。
部屋は電灯をつけていないため、ガラス張りの窓から日が射し込んでいても、人の顔がやっと確認できるほどの明るさしかなかった。窓際に机が一つ置かれ、若い男が座っていた。二十代前半であろう。細いレンズの向こうの大きな目はパソコンの画面に向けられている。
「すいません」
ためらいがちに呼びかけた。聞こえていないのか返事がない。キーボードを打つ乾いた音が聞こえるだけだった。
今度は少し大きめの声で、
「すいません」
若い男は驚いたように背筋をぴんと伸ばすと、首をこっちに向けた。やっと気が付いてくれたようだ。
「あっ、いらっしゃいませ」
軟らかそうな髪が揺れた。色白でまじめそうな青年だ。
「すぐに先生を呼んで参りますのでどうぞ、お掛けになってお待ちください」
「は、はい」
多少ためらいながらも、言われた通り、黒革のソファに腰掛けた。それを見届ける前に、青年は隣の部屋に早足で入っていった。
俺は部屋をぐるりと見回した。壁には絵画が何点か飾られていた。海や空など、風景画ばかりだ。見たことのある絵はない。なかでもひときわ目立ったのは、座っているソファの正面に飾られた、夕日の油絵だった。壮大な草原に真っ赤な太陽が沈んでいっている。太陽は立体感を持って、力強く描かれていた。
ぱっと見たときには大した魅力を感じなかったが、しばらく見ているうち、そのどこか懐かしい雰囲気を持ったその作品に、強くひかれていた。
――この絵は誰が描いたんだろう――
腰を上げ、絵に近づいた。手を触れようとした瞬間、
「お待たせしました」
という声が聞こえた。俺は慌てて手を引っ込めると、振り返った。白衣を着た、白髪混じりの男が立っていた。背は低く、太っているとまではいかないが、平均体重よりは重そうな体型だ。窪んだ目には真っ黒な瞳が埋まっていた。
男はその目を見開いて、
「どうも、永倉です」
「あっ、私は辻といいます」
どぎまぎしながら名前を言った。緊張を隠せなかった。
「その絵に興味がおありですか?」
彼が名刺に書いてあった永倉らしい。
「ええ、すばらしい絵だと思います。人を引きつける魅力がありますよ。有名な方の作品なんでしょうか?」
永倉は一瞬困ったような表情になった。
「それは、私が描いたんですよ」
「えっ、そうなんですか」
俺は口を開けたまま、もう一度絵を見た。
――彼がこの魅力的な絵を?――
高校時代に美術部に入っていた経験から言って、素人に描ける絵ではない。かなり描き込んだ人にしかできない筆使いだ。
「もしかして、プロの画家だったとか」
「いえいえ、違いますよ。趣味で描いているだけです。ほめていただいた作品は、今まで描いた作品の中でも出来がいいものですよ」
「私も高校時代に油絵をやっていた頃があったんですが、こんな上等な絵は、逆立ちしたって描けませんよ」
「お褒めいただきありがとうございます。でも、まあ、絵についてはこの辺にして……」
俺にソファに座るように促した。
「あっ、そうでした。絵を見に来たんじゃあないんですよ」
俺は素早く移動した。
「あの、早速なんですが、今日伺ったのは……」
本当にビデオがあるのか不安に思っていた俺は、思い出ビデオを作ってもらえませんか、と訊くのがためらわれた。
俺の心の内を理解したのか永倉は、
「ビデオの件ですね?」
「あっ、はい、そうです」
少し安心できた。
「誰かにお聞きになっていらっしゃったんですか?」
「友人に沢井というのがいまして、思い出ビデオのことを教えてくれたんです」
「沢井さんですね。覚えていますよ。小学生のときの思い出をビデオにして差し上げました。友人に紹介されるということは、満足していただいているんでしょうね」
「それはもう、ビデオを見ると元気が出るとか言って、人が変わったみたいに自信を持って生活していますよ」
「それはよかった。私としても、録画して差し上げた甲斐があるというものです」
永倉は本当に安心したように顔を緩ませた。
――録画か。やはり普通のビデオと同じように思い出をテープに記憶できるんだ――
俺は身を乗り出した。
「私にも彼と同じように、小学生時代の思い出を録画してもらえませんか?」
「あなたも小学生時代ですか。それが一番人気があるんですよ。小学生時代に輝いていたという人が多いんでしょうね」
「で、やってもらえるんでしょうか?」
「ええ、もちろん。専用の装置を使えばすぐできますよ」
「どのような装置なんです?」
不安に思って訊いてみた。
――頭に何か針のようなものでも刺されるんだろうか?―― と考えていた。
「痛いのかとか、後遺症が残らないのかといった質問をする人もいますが、心配はいりません。ヘルメットのようなものを被って寝てもらうだけです。ヘルメットの機械が脳波を読み取り、画像へと変換してくれます。健康診断のときにやる心電図のようなものだと思ってもらったらいいですよ」
「起きたら、できあがっているんですか?」
「はい」
簡単そうでほっとした。
「画像の録画はそれで終了ですが、編集作業に一日掛かります。小学生のときの記憶といっても膨大な量がありますからね。その中から、あなたの望むような、輝いているシーンを抜き出して、六十分程度にまとめます」
「費用はどれくらい必要なんでしょう?」
永倉はしばらく間を置いた後、
「装置使用料、ビデオ代等、すべての費用を含めて百万円です。これ以外にはいっさいお金は必要ありません。白黒画像でしたら、半額です」と言った。
さっきの若い男がお茶を持ってきてくれた。
軽く会釈したが、頭の中では別なことを考えていた。
――百万か。貯金はある。しかし……――
俺はぱっと顔を上げて、
「お願いがあるんですが」
「何ですか?」と言って、湯呑を口に運んだ。
「私はまだほんとにビデオができるのか、少し不安に思っています。ですから、ビデオテープの編集が終わって、内容を確認してからお金を払うわけにはいかないでしょうか?」
「なるほど、満足できない内容だったらお金は払わないというんですね」
「まあ、そういうことです」
「こちらとしては、かまいません。過去にはあなたと同じ方もたくさんみえました。でも、すべての方が満足して、払われましたよ」
自信たっぷりな様子で言った。
「ビデオを録画して欲しいという依頼は多いんですか?」
「私の研究によると、人は誰でも一生のうちで一時期だけ、ひときわ輝く期間があるようです。その思い出をビデオテープに残しておいて、いつでも見たいときに鑑賞して楽しみたいという要望は多いんですよ。ですから、これといった宣伝はしていませんが、お客さんは来てくれますよ。あなたのようにね」
と言って口の端を吊り上げて笑った。
――沢井が言っていた、輝くとき、というのは永倉の言葉だったのか――
気が付いて、にやりと笑った。
「他に何か御質問は?」
「録画に時間はそれほど掛からないと言いましたが、予約しておいて後日伺ったらよろしいんでしょうか」
「予約でもいいんですが、ご希望なら今すぐでもかまいませんよ。準備は整ってますから」
しばらく間をおいて、
「できるんであれば、今からお願いします」
過去のすばらしき日々の映像を早く見てみたい。そんな気持ちだった。
「分かりました」
口の中が乾いていることに気が付いた。知らず知らずに緊張しはじめているらしい。俺は苦いお茶を口に含み、ごくりと飲み込んだ。
「それではビデオルームに移動しましょう」
永倉はそう言うと立ち上がった。俺はゆっくりと続いた。
永倉がビデオルームと呼んだ部屋は、今いた部屋の半分くらいの広さで、病院の診察室でよくみかける形のベッドが一つと、航空機のコックピットのような装置が置かれているだけだった。無数にあるボタンの一部は、赤、青、黄といった、三原色の光を放っていた。
俺はすぐにベッドに寝かされ、手首と足首に丸いシールを貼られた。中心にはコードが付いていて、装置に繋がっていた。
「緊張されてます?」
永倉が笑顔で話し掛けてきた。
「ええ、ちょっと」
「誰でも最初はそうですよ。天井の絵でも見てリラックスしていてください」
うつぶせのまま天井に目をやると、海岸の絵が吊されていた。ベッドに寝るとちょうど見えるようにしてあるようだ。静かな海だ。波一つない。波打ち際に、砂に埋まった壊れたボートが一隻描かれている。もう海に出ることはできないボート。
「それでは、録画を開始しますので、これを頭に被ってください」
アメフトの選手が使用するような形のヘルメットを手渡された。
俺は物々しい被りものに少々戸惑いながら中を覗くと、頭の輪郭に合わせていくつもの突起した部分が見えた。突起物がゴムなのか金属なのかは分からないが、そこから記憶を読みとるらしいということは予想できた。
俺は深く被り、また横たわった。すると、頭を指圧されているかのようなくすぐったさがあり、僅かに身を震わせた。
「録画をスタートします」
手をぎゅっと握りしめ、身をかたくした。
「徐々に眠たくなると思いますが、我慢せずにそのまま眠ってください」
顎にも力が入っているのか、俺はぎこちない声を出した。
俺は目を閉じて、リラックス、リラックス、と心の中で何度も唱えた。遠くの方で、話し声が聞こえた。内容は聞き取れない。声はだんだん小さくなっていく。走り去っていく車の音のようだった。そして、ついには何も聞こえなくなった。
音が消えると、目の前に海が現れた。どこまでも続く、深いブルーの海だ。波に反射した太陽の光が容赦なく俺に降り注ぐ。目を伏せると、足下は砂浜だった。いつのまにか温まった砂の感触が裸足の足に伝わっていた。すぐ横には砂に埋まりかけたボートもある。
――ここは、天井に飾ってあった絵の中だ。俺はいったい……――
首を一回転させても、人間の姿は見えない。
――そうだ。ビデオだ。ビデオを録画してもらおうとしていたんだ――
俺はボートの縁に腰掛けた。
――ベッドで横になったのは覚えている……。そうか、ここは夢の中か。眠る直前に見た絵の中にいる夢を見ているんだ――
そう思ったとき、目の前から海岸は消え、代わりに学校の校舎が目に飛び込んできた。足の裏の感触も砂から土へと変化した。
――何だ? 場所が校庭へと変わった――
前方を見ると遠くから人が走ってくる。何人かが競争するように走っている。全員、懐かしい体操服を着ている。背が低いから子供に間違いない。小学生だろう。俺が目を凝らすと、先頭で走っている男の子が蛍が光を放つように輝いて見えた。
「何だ?」
どんどんこっちに近づいてくる。接近するにつれて、明るさに耐えられなくなり目を細めた。十メートルくらいなったとき、先頭の子の顔が見えた。どこかで見たことのある、さえない顔だ。
――あっ、この子は……。俺?――
もう男の子は目の前に迫っていた。避けようと体を反転させたが、間に合わず、子供が胸に飛び込んできた。俺の存在に気が付いていないのか避けようともしない。
俺は痛みに耐えるべく、身構えたが、衝撃はなかった。衝突したと思った男の子は、俺の胸の中にずぶずぶとめり込んでいった。
俺は目を見開き、口を半開きにしながら眺めることしかできなかった。子供はゆっくりと確実に入ってきた。
男の子の運動靴のつま先まで俺の体に埋まりきったとき、俺は急に力が抜け、その場に崩れ落ちた。指一本動かない。校庭の映像は消え、闇が生まれた。目が自然に閉じられ、全ての思考がストップした。
遠くで声が聞こえる。小さくて聞き取れない。目の前は闇。しだいに声が大きくなってきた。
「辻さん、辻さん」
呼ばれている。目を開けた。目の前に半透明のフィルターがあるようにぼやけている。
「は、はい」反射的に返事をした。
「目が覚めましたか?」
聞き慣れない声だった。見ると、白衣の男が立っている。
――夢か……――
全ての状況が把握できて、体を起こした。
「問題なく、全ての録画が終了しました」
俺はまだはっきりとしない思考の中で、部屋の壁の一点を見つめていた。
「ありがとうございました」
「いい映像が撮れましたよ。期待して待っていてください」
「取りにくるのは明日の夜でいいですか?」
目を擦りながら言った。
「はい。会社が終わった後にきてください」
「助かります。お金も持ってきますので編集をよろしくお願いします。ところで、変な夢を見たんですが、装置に関係あるんですか?」
「どんな夢です?」
「子供が私の体に飛び込んできたんです。光り輝いてました。その子が子供の頃の自分だったような気もするんですが……」
「気にすることはありませんよ。ただの夢です。装置とは関係ありませんよ」
永倉はあっけらかんとした様子で言った。
「そうですか」
俺はそれ以上は何も訊かず、おぼつかない足取りで部屋を後にした。
――夢の中で見たあの少年、あれが昔の自分だったのだろうか――
ふと夢の中で子供が飛び込んできた胸の辺りを手で触った。何も変わった様子はない。
ビルの外に出ると、もう夕方になっていた。
「もうこんな時間か」
歩き出すと、肌寒い風に身震いをした。前方に見える、あの部屋の絵画のような、赤一色の夕日が眩しかった。
会社で沢井に会うと、ビデオを作るときに見た夢のことが気になって訊いた。
「夢ねえ」
沢井は考えるように目線を天井に向けた。
「特に見なかったと思うよ。辻は何か夢を見たの?」
俺は顎に手を当てた。
「う、うん。全身から光を放った少年が走ってきて、俺の体の中に入っていく夢を見た。その子供が自分だったような気もするんだけれど……」
「子供が体の中に? 変な夢だね。でも、気にすることじゃないんじゃないの? 夢なんて誰でも見るものでしょ。たまにはおかしな夢だってあるさ」
「夢から覚めた瞬間、頭の中におぼろげに残っていた小学生の頃の記憶が鮮明になったような気がするんだ。水に濡れて滲んだ水彩画が、元通りになったような感じだ」
「きっと記憶っていうのは無数のタンスにしまわれているようなものなんだよ。だから、古くなってくると、簡単に開かない引き出しがでてきて、容易に開けることができるタンスからしか記憶を呼び出せない。つまり、思い出すことができない記憶がでてくる」
沢井は俺の反応を確かめるように、言葉を止めた。
「うん」
「でも昨日、装置は記憶を読みとるために、小学生のときの記憶が入った全部の引き出しを開けたんだ。一度開けてしまえば、開きやすくなる。だから、小学生のときの思い出が引き出しやすくなって、鮮明に思い浮かべることができるようになったんだよ」
沢井らしからぬ、正しそうな説明だった。
「なるほどね。でも、沢井。今の説明は永倉先生に教えてもらったことだろ?」
「バレたか。実は僕も同じように記憶がはっきりしたから、理由を聞いたんだよ。そうしたら、説明してくれた」
「そんなことだろうと思ったよ」
おそらく沢井の言っていることは正しいのだろう。記憶のメカニズムに詳しくはないが、間違った解釈ではなさそうだ。
俺の頭がおかしくなったわけではなかったのだ。小学生のときの記憶が思い出しやすくなって、悪いことはない。むしろ、いい思い出を確実に思い出せるのだから歓迎すべきことだ。
仕事は大したミスもなく、いつもより順調に進んだ。すらすらと思い浮かぶ小学生の頃のすばらしい思い出が、自分に力を与えてくれるようだった。
会社が終わると、俺は銀行で百万円を下ろし、メモリービデオ研究所に向かった。心の中ではあやふやだった思い出を、はっきりとしたものにしてくれただけでも百万を払う価値はあるなと考えていた。それほどに、小学生時代の思い出というのは重要なものだ。消えてなくなるということがあれば、もう生きてはいけないだろう。
俺はためらわずにビルを駆け上がると、昨日と同じように開いたドアから中を覗き込んだ。ちょうど永倉がソファに座り、お茶を飲んでいるところだった。小松崎は相変わらずパソコンに向かっていた。永倉はすぐに俺に気が付いた。
「お持ちしておりました」
「ビデオはできあがりましたでしょうか」
「画像の質、内容、共に今まで作成した中でも最高の出来ですよ」
「よかった。さっそく見せてもらえますか」
期待感で騒ぎ出した心臓の鼓動を押さえるように、ゆったりとした口調で言った。
「小松崎君、例のビデオの準備をして差し上げて」
小松崎は低い書類戸棚の上に乗ったテレビの電源を入れ、下のビデオデッキにテープを差し込んだ。
「白黒とカラーがあるんですが、カラーで録画したものをお見せします。値段は昨日言った通り、カラーが百万、白黒が五十万ですが、カラーをお勧めしますよ。やはりリアル感がぜんぜん違いますからね」
永倉が話している間に、ビデオの映像が映りはじめた。最初の映像は教室の中だった。狭い教室内に小さな机がぎっしりとつまり、全部に子供が座っている。いくら驚いても足りないほど鮮明な画像が映し出されていた。
――まるでテレビドラマを見ているようだ――
どうやら音は出ないようだ。先生が口を動かしているので何か話しているはずだが聞こえない。ビデオのモーターの回る音だけが耳に伝わっている。先生は話し終わると児童全員の顔を見回した。様子から察するに、黒板に書いた算数の問題を誰かに答えてもらおうとしているらしい。すると、一人の男の子が手を挙げた。
――俺だ……――
見た瞬間に認識できた。俺のことをみんなが羨望の眼差しで見ている。問題が難しくて他の子には分からないのだ。
子供の頃の俺は黒板に小走りに向かうと、背伸びをしながらチョークを動かした。あっという間に答えができあがった。先生は赤いチョークを使って、大きな丸をつけた。子供たちが拍手を送る。
――そうだ。誰も解けないような難しい問題を、優秀だった俺がすらすらと答えていったんだ。何度もあったことだ――
俺はテレビに映った光景を微笑んで見た。
続いて映ったのは、白いテントだった。赤白二色の旗が揺れている。
――運動会か――
場面はトラック半周の徒競走だ。レースは六人一組。俺は内側から二人目の位置でスタートの合図を待っている。俺は赤いはちまきを堅く締め、それと同じくらいの堅さで握りこぶしを作っていた。
緊張が高まる中、ピストルから煙が上がった。六人は一斉に走り出した。俺は少し出遅れ、四番目くらいだ。頭ではちまきが風になびき、足下では黄土色の土が舞っている。俺はトラックのカーブに差し掛かったときにうまく内側に入り込み、二人を抜いた。
――よしっ――
思わず力が入った。カーブの出口でもう一人抜き、最後の直線で先頭を走る子供と並んだ。
――抜け、抜け――
心で叫んだ。ゴールの白いテープが見える。俺はそこに吸い込まれるように一着で飛び込んだ。その後、悔しそうに他の子供たちがゴールしてくる。そう、徒競走は毎回一位だった。なつかしい。
次は、給食の時間。俺の学校は給食に、瓶に入った牛乳が出ていたが、牛乳の早飲み対決をよくやった。勝ったやつが、ビリのやつのデザートをもらえる。俺は連戦連勝、敵なしだった。口の周りを真っ白にしてガッツポーズをしている姿が映し出された。
――懐かしくて心地いい思い出だ――
次々に俺の栄光の日々の、晴れ晴れしい姿が再生された。遠足のときにアスレチックを誰よりも早く進んでいったこと。小学生のソフトボール大会で、四番、ピッチャーで出場し、優勝したこと。友達とめんこで勝負して、無敗だったこと。それら一つ一つの場面が、頭の中に残った映像と寸分違わぬ状態で映し出されていった。
――すごいビデオだ。俺の記憶を完璧に録画してある――
全ての映像を見終わると永倉が言った。
「どうでした。ご満足いただけましたか」
「満足したも何も完璧ですよ。それにしても、過去の記憶をビデオテープに録画することができるとは驚きです」
「簡単にできるわけではありません、長期間に渡る研究の成果ですよ」
満足げな笑みを浮かべた。
「どうでしょう。このビデオを買ってもらえますか」
「もちろんですよ。こちらからお願いしたいくらいです。私にとって小学生の頃の記憶というのは、命と同じくらいに大切なものですから」
「白黒とカラーどちらにいたしましょう」
「カラーの方でお願いします」
スーツの内ポケットから百万円の札束を取り出して、永倉の目の前に置いた。永倉はそれを取り上げ、慣れた手つきで枚数を数えた。
――これでビデオテープは俺のものだ。最高の思い出を、いつでも、好きなときに見ることができるんだ――
体の奥底から湧いて出てくる喜びや希望といったものが、外に溢れ出るほどに増大していた。
「確かに料金は受け取りました」
永倉は領収書を渡しながらそう言った。俺は赤子を扱うようにビデオを丁寧に持つと、ありがとう、と一言言って部屋を出た。
――やった。一生の宝物を手に入れることができた。百万円なんて安いものだ 過去のすばらしかった自分を励みにしてがんばれる――
ネオンの光を背にし、靴の裏にバネが付いているような軽い足取りで夜の街を歩いていった。背筋を伸ばして歩くと、冷たい夜風もなぜか心地よく感じられた。
「先生、辻さんも喜んでくれたみたいですね」
辻が去った後、小松崎が言った。
「世の中には、過去の自分が大好きな人間が多いからな。昔の思い出は美化されるものだ。彼の場合も同じだったんだろう。本当だったのかは知らないが、優秀だと信じていたことは確かだ」
「実際は普通の小学生だったんでしょうね。記憶の定着度も高いようでしたし」
パソコンに目を向けながら言った。
「そうだな。記憶の定着度の高い人間は過去の自分のことを極度に美化しているケースが多い。自分で作り上げた都合のいい記憶を現実だと思っているわけだ。だから本当の記憶を消しやすい。まあ、自分の過去を美化する人間が多いほど、我々の仕事はやりやすいんだがね」
小松崎はカタカタとキーボードを打ちながら言った。
「はい。今のところ、過去の記憶をビデオに録画するなんてことはできませんからね」
「実際できたとしても、現実の過去の映像なんて見たら、誰もテープを買っていかないだろう。自分の過去はこんなにも惨めだったのか、今と変わらないじゃないかと幻滅するだけだ。だからあえて私は、記憶を読みとるのではなくて、記憶を消して新たに別の記憶を描き込むことを研究したわけだ」
「テープに自分の記憶が録画されたのではなくて、自分の頭にテープの画像が記憶されたとは気が付かないですからね。すばらしい方法だと思います」
「人間の記憶なんて曖昧なものだ。細かいことなどすぐに忘れて、大まかなことしか覚えていない。曖昧な記憶を消し去り、真っ白なキャンバスに絵を描くように新たな、誰もがすばらしいと感じられる記憶を描き込む。何ともすばらしいことじゃないか。描き込んだ記憶が定着するまで一日くらい必要だという欠点もあるが、そんなことは問題にならない」
「記憶の定着といえば昨日、記憶の録画をした後に、辻さんが自分の見た夢の話をしたときはひやりとしましたね。記憶を描き込んだことに感づかれたのかと思いましたよ」
キーボードを打つ手の速度が増した。
「彼が見た、光り輝く男の子というのは、新しい記憶が形を変えたものだったんだろうな。彼の夢は自分の頭に別な記憶が進入してきたという警告だったんだろうが、気が付いていなかったみたいでよかったよ」
永倉は正面に飾られた自分の絵を見ながら、
「私も普通に絵を描くことにも飽きてきた。だから今は、他人の記憶を真っ白にし自分の思い描いた映像を描き込んでいくことが楽しくてしょうがない。他人の過去を自分が描く。何て想像力を刺激する作業なんだろうか」
永倉はうっとりと目を閉じた。
「先生、記憶を描き込むための新しいビデオでも撮影しますか?」
「男の子のテープは何本かストックがあるから、今度は女の子にしよう。ピアノが得意な優等生の女の子ってことで作成しておいてくれ。次に女性からの依頼があったら、使うよ」
「はい、準備しておきます」
小松崎はパソコンに打ち込んだデータを上書き保存すると、腰を上げた。
END
思い出ビデオカテゴリの記事一覧