夜の浜辺は恋の香りがする。とでも表現しておこう。
あんたなんか嫌いよと横殴りに冷たい風を吹かせたと思ったら、次の瞬間には、もっとゆっくりしていきなさいよと生暖かい息を首筋に這わせる。
僕の足取りは自然とゆっくりになる。
場所は南国鹿児島、奄美本島と加計呂麻島に挟まれた大島海峡の東のはずれ。エメラルドグリーンの海で有名なヤドリ浜の近くの小道だ。
ヤドリ浜に立つと対岸には加計呂麻島が見え、その左手にはわずかに外洋の水平線がのぞくという絶景ポイントのため、昼間は浜辺を行き来する人たちでこの小道もにぎわっている。だけど、夜になると途端に人気が無くなる。
街の人たちは皆、明るいあなたは好きだけど暗いあなたはつまらなくて嫌いなのよと、浜辺の小道にある種の恋愛感情を抱いているに違いない。
夜十時を回った。今日もまた人影はない。砂と靴が擦れる音だけが、微かな波音とともに心地よいリズムを刻んでいる。この時間には何度も通っているけれど、人に会ったことは一度だけ。しかも、相手はパトロール中の警官だった。「こんばんは」とあいさつしたら、戸惑ったような目をされた。めったに人の通らない道を歩く僕を見て、怪しい人物だと思ったのだろう。それでも職務質問されなかったのは、真新しいシャツとジーンズという清潔感漂う爽やかな身なりをしていたからに他ならない。もっとも、その警官にこっそりとあとをつけられていたかもしれないが。
人が避けるような寂しい小道を一人で歩いている理由は二つ。一つは、家に向かう近道だからだ。週に一度の家庭教師のアルバイトの帰りは、近いという理由で必ずこの道を通る。親戚の家で、中学生の息子さんを教えているのだ。車も自転車も持っていない僕は、頼まれたとき、「歩いて行くからいいですよ」と気軽に引きうけた。少々時間が掛かっても大学生という気楽な身分だし、どうせ暇なのだから歩いてもいいだろうと思っていた。しかし、十二月になり、寒さがきつくなると、行き帰りの徒歩が苦痛になってきた。今は、週に一度なんだし、生徒が勉強しようと張り切っているのだからがんばろうと自分を励ましている。
二つ目は、家の近くにあるこの浜辺が思い出の場所だからだ。回り道をすれば通らなくてもすむのに、近道だからと不便でも使っているのは、思い出を大切にしたいという気持ちが手伝っているからだ。
その大切な思い出は家族に関係している。僕には順という弟としずくという妹がいる。弟は僕と同じ大学生。妹は専門学校を卒業して、東京に出ていった。今は速記事務所でテープおこしの仕事をしている。
専門学校時代にしずくのメモを見せてもらったことがあった。原始人が書いたかのような意味不明な記号が並んでいたのを覚えている。あのとき、しずくが僕の理解できないことを覚え始めているのだと知り、ひどく遠い存在になったように思えた。いつの間にか、甘えんぼうだった子供のころのしずくはいなくなって、夢を追うたくましい女性になっていた。
幼い頃の交通事故で右足が不自由になったしずくは、歩こうとすると、どうしても少し足を引きずるようになってしまう。そのことでよく学校でいじめられていた。そんなときは必ず僕が助けに飛んでいった。「大丈夫か」と土の混じった涙を拭いてあげたときに見せる安堵の笑顔は、今も僕の心に焼き付いている。
今、気がかりなのは、都会での暮らしに慣れていないしずくが、体調を崩さずに健康で暮らしているかどうかだ。慣れない生活で、病気になるというのはよく聞く話。たまに電話して、「元気にやっているか」と訊くと決まって、「うん」と答える。自分の弱みを見せたがらないしずくのことだから、つらい思いをしていても我慢しているに違いない。近くに住んでいたら優しい言葉のひとつでもかけに行ってやれるのに、離れていては何もしてやれない。しずくが東京に行くと言い出したときに止めなかった自分を今も後悔している。
両親が亡くなるときに家族は僕が守っていくと約束したのに、そばにいて見守ってあげられないのは、約束を果たしていないようで不安だし、辛い。こんな自分の気持ちを人に話したら、妹もいつまでも子供じゃないんだから大丈夫だと笑われるかもしれない。でも、両親のいない僕らにとって、三人の絆はなににも代え難く大切なものなのだ。だから、幼い頃、三人でよく遊んだヤドリ浜は僕にとっては一番の思い出の場所なのだ。
ヤドリ浜は潮が引くと沖の方に浅瀬ができる。水遊びを楽しむには丁度良い深さだ。僕らは珊瑚礁の上をバキバキと音を立てながら走り回っていた。海岸に近いところで珊瑚礁が荒れているのは、僕らのせいかもしれない。
浜沿いには大きなガジュマルが枝をはりめぐらせていて、木陰にかくれてゆっくりと過ごすこともできた。遊び疲れたらガジュマルの下で腹ごしらえをする。僕らはそうやって一日中ヤドリ浜で楽しんだ。
空を見上げると、三日月が浮かんでいた。電池の切れかけた懐中電灯のような弱い光が、申し訳なさそうに僕を照らしている。「そんなに気にすることはないよ。急いでないから、ゆっくりと潮の香りを楽しんで帰るよ」と小声で答える。
家に帰って、「お帰りなさい。寒かったのに大変ね」と優しい言葉をかけてくれる女性でもいるのなら、早く帰ろうかという気にもなるのけれど、待っているのは僕が帰ろうが帰って来なかろうが気にもしていない様子の弟だけだ。
考えてみると、三人でよく砂浜で遊んだのは、もう十年以上前の話だ。
あのころと比べると、浜辺や小道が汚くなったように感じられる。砂まみれになったビニール袋も風で転がるペットボトルもなかった。昔はよかったと、なつかしむほどに年を取ったつもりはないけれど、過去を美化するのは、今の生活に疲れたせいかもしれない。
生きていくことのわずらわしさをすべて忘れて、あのころのように三人で浜辺を走り回ってみたい。
たとえるなら、昼間の浜辺は動物園の疲れたライオンだ。ぱっと見ると迫力があって、見る側の気持ちを高ぶらせるのに、しばらく観察していると、寂しさやむなしさが押し寄せてくる。
「さあ、みんないらっしゃい。俺が楽しませてやるから心配するな」というような威勢のいい雰囲気はまったくなくて、「誰でもいいから助けてください」と訴えかけているようなわびしさを感じさせる。
だから、昼間に浜辺を歩くのは避けている。他の人たちの心を和ませる静かな波音さえ、僕には「哀れな俺の姿を見てお前は何を思う? 自分の姿を見ているようだろう?」と問いかけてくるようで辛いのだ。
いつからだろう。昼間に海を見るのが怖くなったのは。
僕は道をそれ、浜辺に足を進めた。微かな月の光をたよりに、海に目をやる。
汚れもさみしさも今は闇が隠してくれている。波音が僕の心を優しく撫でてくれて、体ごとすーっと闇に溶け込みそうな、やすらいだ気持ちなった。
ただいまという言葉を聞いて、順が顔を出す。無精ひげをいじりながら、あくびをした。
「毎週、毎週、ごくろうさん。あいつも兄貴のようなまじめな先生に教えてもらえてラッキーだね」
「からかうのはよせよ。食事は?」
「もう食べた。兄貴の分は……」
「僕はいいよ。食べてきたから」
「珍しい。兄貴が外食するなんて。家で食べればいいのに」
「そんなこと言って、どうせ、僕の分は作ってくれてないんだろ?」
「ばれたか」
照れくさそうに頭をかく。
しずくがいたころは、料理を準備して待っていてくれた。決しておいしいとはいえなかったけれど、食事を用意してくれるのがうれしかった。
弟も最近は料理が上手くなって、いろいろと料理道具を買い揃え、新たなメニューにチャレンジしている。でも、きまぐれだから、僕にはたまにしか作ってくれないのが残念だ。化学を専攻しているから、実験でもしているような感覚なのだろう。ちなみに僕の料理の腕はというと……、やっぱり、それは言わないでおこう。
一人、リビングでニュース番組を見ていると、顔を火照らせた順が横に座った。家具店の広告で、半額セールなどと書かれていそうなちゃぶ台にぬるいお茶を置く。
「なんだ。もう風呂に入ったのか。風呂冷めするぞ」
いつも順が寝る時間までにはまだ三時間もある。
「それとも、早寝早起きして珍しく大学に行こうっていうのか?」
「とにかく風呂に入って暖まりたかったんだよ。身も心もね」
そう言って、眉をひくりと動かし遠目をする。
「なんだよそれ」
あきれて、再びテレビに目をやった。
司会者が景気の動向について、僕でも言えそうなコメントをしていた。
「何かあったのかって訊かないの?」
「訊く必要なんてないよ。どうせくだらないことだろ。ティッシュをポケットに入れたまま洗濯しちゃったとか、お気に入りの女の子に告白しようとしたら、実は彼氏がいたとか」
「あー、分かってないねえ。兄貴は。今日の俺はいたって真面目さ」
「じゃあ、その真面目な話ってやつを聞いてやるよ」
話を聞くつもりなんてまったくなくて、テレビの方に集中しながら言った。順の内容のない話を一方的に聞くのはもうこりごりだった。ずっと黙っている順も気持ち悪いけれど、もう少し人の話も聞いたらどうだろうと思う。
「拓也のことなんだけど」
「ああ、拓ちゃんね」
順の幼なじみで、小学生の頃はよく一緒に遊んだ。泳ぎが得意で、夏休みともなると近所の海に毎日行って真っ黒に日焼けしていた。でも、ついこの間会ったときは、真っ白な顔をしていた。拓ちゃんて意外に色白だったんだと思いながらも、十年ぶりだし、いきなりだったしで、きちんとした挨拶はできなかった。
拓ちゃんには妹が一人いて、いつもついて走り回っていた。ショートカットと赤い服のよく似合う子だった。今頃どうしているのだろう。右のひざに傷が残っていたら僕のせいだ。ヤドリ浜で鬼ごっごをしていたとき、僕を捕まえようとして転んで怪我をしたのだ。
「拓ちゃんがどうかしたの」
「行方不明になったんだ。死んだのかもしれない」
ニュースに気持ちの半分を取られていたため、順の予想だにしない言葉に反応するのが遅れた。
「何で? どこで?」
すっとんきょうな声を出す。
「落ち着けよ。ちゃんと話すから」
「ああ、頼むよ」
「拓也がいなくなったのは、兄貴がよく通ってるヤドリ浜の近くの小道。あそこだよ」
さっき歩いたばかりの道だ。海の匂いや踏みしめた砂の感覚が蘇ってくる。
急に寒気がして唾を飲み込んだ。
「一週間前、飲み会の後に、小道を通って帰ると言って友達と別れたあといなくなったっていう話だ。その友達が、拓也が小道に入っていくのを見ているから間違いないはずだよ。みんな拓也は連れさらわれたんだってうわさしているよ」
「一週間も前から行方不明に?」
「らしいね。夜の遅い時間だったらしいから兄貴も気をつけてよ」
「気をつけるっていったって、人気のない道だし、暗いといっても隠れて待ち伏せる場所なんてないぞ。こっちだって誰かいたら、すぐに気がついて逃げるさ」
僕は大きくため息をついて続けた。
「一晩待っても誰も通らないような道で、待ち伏せして人を連れ去ろうなんて考える人間の気が知れないね」
「そりゃあ、人間じゃないもの」
危うく聞き流してしまいそうになるくらいさらりと言う。
僕は順に聞こえるようにわざとらしく息を吐き出し、力の抜けた目を向けた。
「まじめに聞いて損したって顔するなよ。真剣に話してるんだから」
「お前に話したいことは大体分かったよ。また幽霊やら妖怪やらの仕業だっていいたいんだろ」
吐き捨てるように言った。
「正解。さすが兄貴、俺のことをよく理解してる」
「真剣な話かと思ったのに何だよ。化学者を目指そうって人間がオカルト話なんて恥ずかしいと思わないのか。もしほんとうに拓ちゃんがいなくなったのなら、それは彼女と旅行にでも行ったからだよ。幽霊や宇宙人や異人さんに連れさらわれたわけじゃない。きっと今頃二人で、夜空の星でも眺めて、『綺麗ねえ。星に手が届きそう』『君の瞳の方がもっと美しいよ』なんていうつまらない会話をしているんだよ」
「あー、あー、彼女がいないからってひがんじゃって」
「うるさい。もうお前の話は聞かんぞ」
「落ち着いてよ。兄貴は最近広まってるヤドリ浜に出る幽霊の噂話を知らないの?」
「幽霊の噂?」
「兄貴は家の心配ばかりしてないで、もっとリラックスしてアンテナのばしなよ。重要な情報は常に外を流れてるんだから」
「前置きはいいから早く教えてくれよ。その噂話ってやつを」
「はい、はい。分かりました」
順はため息混じりにそう言うと、座り直して正座をする。どこかで犬が遠吠えをしはじめた。
順が話してくれた浜辺の小道に出る幽霊の噂話はこんな内容だ。
月の出ていない夜に、ヤドリ浜の近くの小道を一人で歩いていると、どこからか微かな声が聞こえてくる。自分を呼び止める蜘蛛の糸のように細い声だ。心臓の鼓動でかき消されてしまうほどに小さい。最初は風の仕業かと思っても、声は次第に大きくなって気にしないわけにはいかなくなる。音を遮ろうと耳を塞いでも、声はゆっくりと耳のそばに近づいてくる。
怖くなって走ると、引き留めるように後ろから「行かないで、助けて」と泣き声でうったえかけてくる。その声は大切な人の声で、恋人だったり、兄妹だったり、通る人によって異なるという。自分の息子の声だったという話もあるらしい。
助けを求める声は、古いレコードのように震え、何度も繰り返えされる。大抵の人は、助けを求める声が本人だと思って振り返る。大切な人が助けを呼んでいるんだから当然だ。だけど、助けようと思って振り返ったその先には、闇が広がっているだけで誰もいない。
なんだ空耳かと安心した瞬間、煙のような物体が現れる。物体は「振り返ったな」という低い、腹に響く声とともに、幼い女の子の幽霊になって、声を聞いた人間の足を引っ張り、あっという間に浜辺まで引きずられ、海の中に連れ込まれる。抵抗しようとしても振り返った瞬間から金縛りにあって、何も抵抗できないらしい。
声に反応しないで通り過ぎれば何も起きないらしいけれど、その声はあらゆる手段を使って振り向かせようとするから、よほどの精神力がないと知らん顔して歩き続けることは不可能だという。
順がそこまで話し終わったとき、床が軋む音がした。古い木造の家のゆがみ。いつもより大きく聞こえて、思わず目を這わせる。
「どうかした?」
「いや、何でもない」
渇いた喉を潤すようにお茶を飲む順。僕は話をもう一度頭の中で反復した。そして、順の顔をちらりと見る。真剣なのか、からかっているのか判断できない。
「単なる噂だと思う?」
「そりゃあ、そうだよ。妖怪に連れていかれるなんてこと、いきなり言われても信じられるわけがないだろ。例の国の人に拉致されたっていう話の方がまだ真実味があるよ」
「毎週通ってる兄貴を心配して教えてやってるのに、つれないなあ」
「くだらない話してないで、早く寝ろよ。僕は風呂入ってくるから」
「とにかく来週の家庭教師の帰りは、浜辺の小道を通っちゃだめだぜ。特に来週は、兄貴誕生日なんだろ。ちゃんと帰ってきてくれないと困るよ」
一週間後は、僕の誕生日。毎年、二人に祝ってもらえたのに今年は順だけ。よく気がつくしずくのことだから、プレゼントの一つでも送ってくれるかもしれない。だけど、プレゼントよりもやはり本人に会って、「おめでとう」を言ってもらいたい。「プレゼントさえもらえればいいよ」という気持ちにはなれないのだ。
僕は振り向かないで、「分かった」とだけ答えた。
夜に浜辺の小道を通るときに、誰かに引きとめられるような感覚は僕も体験したことがある。でも、それは細くて暗い道を歩くときに感じる恐怖心の一部だと思っている。
おそらく、臆病な誰かが夜に小道を通ったときに、後ろからあとをつけられているような気がしたとか、風の音が声のように聞こえたとかいう体験を友達に話したのだろう。噂のはじまりなんてそんなものだ。それから、人を伝わっていく過程で、内容が変わって、幽霊に海に引きずり込まれるなどという信じられない話になったのだろう。
順の話してくれた噂は真実じゃないだろうけれど、あの浜辺にもし幽霊がいるのなら会ってみたいとも思う。「やあ、こんばんは」とでもあいさつした後、世間話でもしてから、「あんたの悩みは何ですか?」と訊いてみよう。「何もない。気楽なものですよ」と答えたら、連れさらわれたっていい。「一生あなたについていきます」とストーカーのように追いかけよう。
服を脱ぐ手を止める。自分の考えのばからしさに笑い声がこぼれた。順に聞かれないように口を閉じた。
「幽霊を追いかけるか。どうしようもない男だな。僕は」
刺すように熱い湯に浸かる。木の柱を水滴がつたっていく。僕は大きく息を吐き出し、黄ばんだ壁の染みをぼんやりと見つめた。
妖怪でも埋まっていそうな壁は、長い月日の間に染みを増やしながら僕らを見つめてきた。小学生の頃に見つけた人の形をした茶色の染みは今も残っていて、ファーストフード店のお姉さんのように出迎えてくれる。
僕は湯船に浸かりながら、「今日もいい湯をありがとう」と呟く。
「そういえば、明日のドイツ語の講義の宿題。まだやってなかったな」
急に思い出した僕は、人型の染みに一礼し、風呂を出た。
家庭教師をやりはじめて実感したのは、子供っていうのは大人が思っているよりも純粋だということだ。
生徒は僕の説明や雑談を、子犬が母犬を見るような目をして聞いてくれる。最初は中学生なんてわがままなんだろうから、あまり会話はしたくないと思っていたけれど、最近は話をするのを楽しみにしている。
彼は中学のこと、僕は大学のことを話す。新鮮な面白みのある会話だけど、一つだけ辛いことがある。それは、彼が将来の夢を語るときだ。使い古した星座の本を取りだし、天文学者になって新しい星を発見したいと瞳を輝かせる彼を見て、夢を持たずに意味もなく大学に通っている自分が恥ずかしくなる。
病気がちだった母親を見て、医者になりたいと思ったのは、もう遠い昔のことだ。
「まったく何をやってるんだろうなあ。僕は」
ついさっきまで会話していた彼の笑顔を思い浮かべ、握り拳を握った。枯れ葉の転がる音が聞こえて、気がつくと真っ暗闇の中を一人歩いていた。渦を巻いてまとわりついてくる冷たい風すら愛おしく思えた。
何本かに別れた枝道まで来ると、迷わず浜辺の小道に進んだ。
一週間前に順から聞いた怪談話を忘れていたわけではない。だから、いつもよりも神経を尖らせた。草むらの僅かな音にもいちいち反応した。臆病な小動物となった心臓が、逃げ場を探すように騒ぎ立てるのだ。幽霊など信じていないはずなのに、意外に臆病だなと苦笑いした。
小学生や中学生の間でばかげた噂話が広まるのも分かる気がする。とにかく純粋なのだ。疑うことをしない。言われたことをそのまま受け取るから、嘘のような話でも信じてしまうのだ。順の話を思い出して緊張するなんて、もしかしたら、僕にもまだ昔のような純粋さが残っているのだろうか。微かに振るえる手に力を込めながらそう考えた。
しばらく歩くと、波の音が聞こえてきた。光のない空間の向こうで、砂の上を波が流れている。波が打ち寄せ、砂が水を吸い込む。一定の間隔で何度も繰り返されるその柔らかな音が、気持ちを落ち着けなさいよと催眠術でもかけるように耳に流れ込む。
空気の微かな揺れを感じて立ち止まる。風じゃない。人工的で作為的な空気の振動。
「誰かいるのか?」
と囁きながら、神経を耳に集める。しかし、聞こえるのは波の打ち寄せる音だけだった。恐らく野良猫かなにかが動いただけだろう。
「気にしすぎだな」
大きくため息をして足を踏み出すと、波打ち際の方角から、弱い声が聞こえた。動物とも人間ともとれるうめき声。
僕は気がついていながら、知らないそぶりで歩き続けた。風のいたずらだと思ったのだ。浜辺ではよくあること。気にすることはない。
「助けて……」
今度ははっきりと聞こえた。背後で発せられた、女性が首を絞められたときに出すような悲痛な叫び声。見上げると月は見えない。僕はメデューサに睨まれた旅人のように石になった。
誰が叫んでいるのか振り向いて確かめたかったけれど、順の話が頭をよぎる。
『月の見えない夜、後ろから助けを求める声が聞こえたら振り向いてはだめだ。振り向くと、足をつかまれ、海の中に引きずり込まれるから』
単なる噂だと聞き流していても、話と同じ状況になると無視していられない。噂が本当だったらと考えてしまう。幽霊にどこかに連れていってもらおうなどと考えていた自分の心は、シャボン玉のように、一瞬で跡形もなく消えていた。
僕はもたつきながらも真っ直ぐ前だけ見て足を動かした。その間にも、助けてというしわがれた今にも途切れそうな声は、僕の耳を引っ張った。空耳ではない、動物ではなく、生身の人間の声で助けを呼んでいる。とにかく振り向かずに道を抜けるしかない。そう考えた。しかし、通り慣れたはずの道の出口がやけに遠くに見えた。たどり着くまであと何時間もかかりそうな錯覚に陥る。
あり得ない状況で、パニック寸前の僕の頭を殴りつけるような衝撃が走ったのは、聞こえていた女性の言葉が変わったときだった。
「助けて、お兄ちゃん」
繊細な中にも幼さの残る声。忘れるはずはない、僕の妹、しずくだ。
お兄ちゃんと呼びかけるまで気がつかなかった自分が情けなかった。昔の自分だったらもっと早く気がついていたはずなのに。
『呼び止める声は、自分が大切に思っている人の声』
真剣に語っていた順の顔を思い浮かべた。
しずくが必死に助けを呼んでいる。しかし、しずくはここにはいない。いるわけがない。東京に行ったのだ。今頃は自分のアパートに帰って、仕事の残りをしているに違いない。
僕に連絡もなしで、わざわざ遠く離れた故郷に帰り、不自由な足を引きずりながら暗闇の浜辺を歩いているはずがないのだ。
今聞いているのは、自分の心の中にあるしずくの声の記憶。しずくを懐かしく思う気持ちが風の音をしずくの声のように聞かせているのだ。
そう考えたら、少し肩の力が抜けた。僕は声を振り切るように、出口へと走った。呼び止める声は、
「いかないで、見捨てないで……」
と涙混じりの声でうったえる。
「痛い、やめて……」
頭の中には、涙を流すしずくの姿が浮かんだ。
小学生の頃、しずくがいじめられている現場を見たのに無視して通り過ぎたことが、一度だけあった。後にも先にもいじめられているしずくを、見て見ぬふりをしたのはあのときだけだ。
僕が小学六年のときだった。学校帰りの通学路でしずくは数人に囲まれ、「まっすぐ歩いてみろ」と足を傘でつつかれていた。そして、嫌がるしずくをばかにするように、彼らはつばを吐きかけた。涙を流しながら、足についたつばを指で拭うしずく。
いつもの僕なら「何をやってるんだ。やめろ」と駆け寄るのだけれど、その日は立ち止まり、離れた位置で様子を見守った。自分が傷つけられているような心の痛みを感じながらも、一歩も動かなかった。
卒業をひかえていた僕は、自分がいなくなってからのことを考えていた。僕の存在が消え、「助けてくれる兄貴はいなくなったな」といじめがエスカレートすることは間違いない。そのとき、しずくは一人で立ち向かうことができるだろうかと心配だった。だから、しずくに「これからは、もう助けはないんだぞ」ということを分からせたくて、わざと手を出さなかった。
弟の順にもしずくを守ってあげてと言うつもりだったけれど、しずく自身にも強くなってほしかった。優しさだけじゃなく、いじめっ子に立ち向かう勇気と強さを身につけてほしかった。学校で生活していく上で、必ず必要になるからだ。
しかし、家に帰ってきたしずくは、僕と口をきいてくれなかった。
遠くで見ていた僕に気がついていたのだ。
「どうして助けてくれなかったの」という目を僕に向け、無言のまま洗面所で顔を洗った。
それまではよく聞かされていたいじめの悩みは、その日以来、一度もしてこなくなった。中学になってからも心配で、たまに「いじめられてないか?」と訊くと決まって、「大丈夫」と答えた。「本当に?」と聞き返したかったけれど、しずくの笑顔を見ると訊くことができなかった。
正直に言うと、あの日、しずくを助けてあげなかったことを後悔している。仲間のいない中で、しずくは唯一頼れる存在だった僕に見捨てられたのだ。勘違いだとしても、しずくはそう思っている。僕は恨まれたって仕方がない。それなのに、僕を責める言葉一つ言わないで、けなげに学校に通うしずくを見て、もっと別な方法があったのではないかと考え続けていた。
そして、今日またあの日のようにしずくが助けを呼んでいる。声の主は絶対にしずくではないと思いながらも、完全には無視できないのは、しずくを救ってやれなかったという過去の出来事が影響している。
助けを呼ぶしずくの声は、さらに大きく激しくなり、鎖になって僕の足にまとわりついた。つまずくようにして止まると涙が溢れてきた。
振り向くべきかとハムレットの心境で考える。唇を噛みしめると塩辛い味がした。
もう限界だ。僕は聞こえてくる声をかき消すように、叫び声を発しながら走った。これ以上声を聞いていたら、何も考えないで振り返ってしまう。「しずく待っていろ。俺が助けてやる」と声を上げた瞬間、幽霊に捕まってこの世とはお別れだ。順としずくを守っていくという両親との約束を果たせなくなる。
僕はとにかく走った。何も考えないよう、叫ぶことだけに集中した。自分の声で鼓膜が破れるのではないかと思うくらいに力を入れて声を出した。頭の中には、泣きながら苦しんでいるしずくの姿が浮かんだ。僕の目にも涙が溢れ出た。涙で滲んだ目で見る道は、まるで地獄に向かう道のように歪んでいて、一歩進むたびに足を取られた。
小道の出口まで走りきったときには、吐く息が白くなるほど寒いのに、背中はぐっしょり汗をかいていた。息を整えるために中腰に屈むと、額から下った汗の粒が顎に溜まった。それを吹き飛ばすように、冷たい風が吹く。
「やった。振り切った」
もうしずくの声は聞こえなかった。波の音も聞こえない。遠くを走る車の音が聞こえるだけだった。しかし、声は耳に残っている。
呼吸をするたび「お兄ちゃん、助けて」と頭の中で繰り返される。
恐る恐る振り返る。誰もいない。
口の中がかれ果てて、固まったように感じた。
僕は手帳を取り出し、三人で撮った写真のページを開いた。しずくが東京に旅立つ日に、ヤドリ浜で三人並んで写した写真だ。ヤドリ浜の案内看板の前、しかし、看板自体は失われ、木の枠だけになっている。看板の板があるはずの場所にヤドリ浜の景色が写っている少し不思議な写真。しずくは、風で乱れる髪を手で押さえながら、軽い笑顔を見せている。見ているうちに、少し気持ちが落ち着いた。
幽霊から逃げ切った。いや、僕は幽霊に勝ったんだ。彼のすべての罠をくぐり抜け、自分の意志を貫き通した。順に会ったら言ってやろう。「お兄ちゃんは、浜辺の小道で幽霊の声を聞いたけれど、振り切ってやったぞ」って。順の驚いた顔が目に浮かんだ。
「さようなら幽霊さん。今度は正面から現れてくれ」
強がった唇は、まだ震えていた。
家に帰る道中も気になって度々振りかえっては、誰もいないことを確認した。
玄関のドアを勢いよく開けると、受話器を握った。壁に貼ってあるしずくの電話番号を見ながらボタン押す。
なんて話そう。やはり最初は「元気にしてるか?」って訊くのがいいかもしれないな。いや、でもそれはだめだ。先週電話したばかりだった。ここは「今日誕生日なんだけど」とでも言ってみるか。でも、プレゼントを催促しているみたいだな。あ、そうだ。「お正月はこっちに帰ってくるんだろ?」がいい。先週電話したときに訊き忘れたから丁度いい。
などど考えながら、しずくが出るのを待っていたけれど、いっこうに受話器の上がる様子はなく、とうとう留守番電話の案内が流れはじめた。出かけているらしい。
受話器を置いて時計を見ると、十時を回ったところだった。
「しずくのやつ。こんな時間まで外で何をしているんだ」
さっきまでとは違った不安が生まれた。
「おーい、順。帰ったぞ」
反応がない。順の部屋をノックしたけれど、返事はなく、そっと開けると中は真っ暗だった。
「順もいないのか」
大学の友達と飲みでも行っているのだろう。しずくはともかく、順が僕の誕生日を忘れていてもおかしくはない。自分の誕生日すら忘れていて、毎年「誕生日、おめでとう」と言うと驚いた表情で、「誰の?」と答える。だから今日も、僕の誕生日のことなど頭にないだろう。今年は珍しく一週間前に、「来週は兄貴の誕生日だから、ちゃんと帰ってこいよ」などといっていたけれど、もう忘れているに違いない。一ヶ月後くらいに、「今年の兄貴の誕生日って、もう過ぎちゃったね」などと笑って言うだろう。順らしといえば順らしい。
晩ご飯の支度をしていると電話が掛かってきた。しずくかと思って慌てて出ると順だった。
「なんだ順か」
溜息をつき、順が何か言おうとしたのを遮って続けた。
「今日さあ、小道を通ったよ。順が幽霊が出るからやめておけって言っていたから回り道するつもりだったんだけれど、近くまで来たら通ってみなくなってね。そうしたらどうだったと思う? 聞こえたんだよ、幽霊の声が。本当のことを言うと、順の話を疑っていたんだけれど、実際に聞こえたから驚いたよ。あれはまさしく幽霊だった。いるはずのないしずくの声で言うんだよ。『お兄ちゃん、助けて』って。あまりにしずくの声に似ていたから、思わず答えそうになったよ。でも、お兄ちゃんは、振り向かずに通りすぎたんだ。どうだすごいだろ?」
僕は運動会のかけっこで一等になった小学生のように、自分の武勇伝を自慢げに話した。
「なんにもすごいことなんかないよ」
「は?」
僕は順の怒った顔を思い浮かべ、たじろいだ。
「どうして姉さんを助けてくれなかったんだよ」
受話器の向こうで順が叫んだ。
「なんだよ。どういうことだ」
「兄貴に話した幽霊の話は、全部嘘なんだ。ちょっと脅かしてやろうと思って考えた作り話なんだよ」
心臓がジャンプした。
「ヤドリ浜の小道を通ったって幽霊の声なんか聞こえないんだよ」
「ま、待てよ。確かにさっき、しずくの声を……」
「それは、本物のお姉ちゃんだよ。お姉ちゃんが誰かに襲われて、お兄ちゃんに助けを求めていたんだ」
「嘘だ。しずくは東京にいるはずだろ」
「実はお姉ちゃんは、兄貴の誕生日を祝おうと、こっちに帰ってきてたんだ。兄貴には内緒にしておいてくれって言われていたから黙っていたんだけど、こんなことになるなんて」
電話に出なかったのは、遊びに行っていたからではなくて、僕に会いに来ていたからだというのか。
「順、今どこにいる?」
「ヤドリ浜の小道。コンビニに行った帰りに通り掛かったら、お姉ちゃんが兄貴を呼ぶ声が聞こえて、慌てて来てみたら道路にお姉ちゃんが倒れていたんだ。怪我をしてるし、息もしてない。お兄ちゃんどうしよう」
「救急車は呼んだか?」
「うん」
「すぐ行くから待ってろ」
僕はコンロの火を消すのも忘れて、家を飛び出した。
頭がパニックになって、はじめて来た道を走っているように、何度も道を間違えた。
浜辺の小道はついさっき通ったときよりも冷たい風が吹き、波音も強くなっていた。
しずくが襲われた。あの小道にいたなんて、僕を驚かせようと待ち伏せしていたのだろう。
聞こえていた声が、本当のしずくだったと思うと、どうしようもなく自分に腹が立ってきた。僕の真後ろで犯行が行われていたのに、見ることさえしなかった。
「誰だ。いったい誰がしずくを連れ去ろうとした」
しずくは幽霊の話など知らないだろうから、どうして僕が助けてくれないのか、分からないまま叫び続けていたのだ。きっと助けてくれると信じ続けて。
小学校のときにしずくを助けなかったのはわざとだけれど、今回は違う。勝手に勘違いしただけ。
自分はなんて出来の悪い兄なのだろう。近くで妹が襲われているのに、無視して逃げたんだ。
順を見つけて駆け寄った。かがんだ順の目の前には、しずくが横たわっていた。
「しずく、大丈夫か。しずく」
返事はない。握った手は、冷えた鉄のようだった。僕は腰が抜けたようになって、座りこんだ。
糸の切れた操り人形のように寝そべるしずくの瞳は閉じたままだ。僕は少しでも温めてやろうと、着てきたコートを脱いで、掛けてやった。
「救急車はまだか?」
「もうじき来ると思う」
いつになく神妙な順の表情が胸に突き刺さる。「この役立たずの兄貴が」とでも言ってくれたら、少しは楽なのに、黙ったまま見つめられると余計に心が痛い。
「しずく、ごめん。本当にごめん」
あやまることしかできなかった。
そのとき、強く握ったしずくの手が微かに動いたように感じた。感電したときのようなぴくりとした動きだった。
「おい、しずく。お前……」
しずくの手は、僕の手を振りはらった。そして、僕の首へと伸びてきた。獲物を掴む野生動物のごとく、鋭い動き。僕は抵抗できないまま、体が固まった。全身が凍りつき、今起こっていることが理解できないでいた。
「どうして、助けてくれなかったんだよ」
腹に響く野太い声。そして、「お前もみち連れだ」と言わんばかりに力を強めた。
「殺してやる」
「ご、ごめん。悪気はなかったんだ」
笑い出す順。まるで、しずくに首を絞められている僕が滑稽だとでも言わんばかりだった。非常識にもほどがある。
「わ、笑いごとじゃないぞ」
「目を開けてみろよ兄貴」
順の言葉で反射的に目を開けた。そこには、満面の笑みを浮かべるしずくがいた。そして、明るい声で言う。
「誕生日おめでとう。お兄ちゃん」
「はっ? どういうこと?」
「姉ちゃんは襲われてなんかいないよ。お芝居だよ。お芝居。兄貴を驚かそうと、俺が考えたんだ」
「ごめんね。お兄ちゃん」
しずくがいつもの優しい声に戻って言った。
僕は混乱した頭を整理するために、深呼吸した。どこからか、踏み切りの音が聞こえる。
「順の怪談話も、しずくが襲われたって話も全部嘘っぱちか」
安心したら、引きつっていた顔も緩んだ。
「驚かすなんてひどいじゃないか。こっちは、本当にしずくが死んだのかと思って、生きた心地がしなかったんだぞ」
「最近の兄貴はさあ、どこかつまらなさそうだったから、刺激を与えてやろうと思ってね。どう、少しは元気出た?」
「そうだな。元気出たよ。でも、お前の考えた寸劇じゃなくて、しずくに会えたからだよ。電話では何度か話をしたけれど、実際会ってみて元気そうで安心した」
順が僕のためにここまでしてくれたことには感謝していた。しずくがなんともなかったと知った今、騙されたけれど嫌な気持ちはしなかった。むしろ、よく考えられた面白い企画だと思う。僕が楽しいと感じるつぼをよく心得ている。でも、恥ずかしくて素直にお礼を言えないのは、いつものことだった。
心の中で「ありがとう」と唱えた。
「さっきの『助けて、お兄ちゃん』っていう、リアルな声はしずくが言っていたのか?」
「そうだけど、ラジカセで録音したテープを流したんだ。少し低音を強調して、雰囲気を出すためにね。ねえ、お姉ちゃん」
「家で何度も練習して録音したのよ。隣の部屋の男の人が私の声を聞いて、『強盗ですか』って駆けつけてきたりして、大変だったんだから」
「その男の人に本当に襲われちゃってことはなかったの?」
「あるわけないでしょ。順は黙ってなさい」
「でも、小道でしずくの声を聞いて僕が振り向いたらどうするつもりだったんだ?」
「そのときは、『誕生日おめでとう』って言ってクラッカーを鳴らすつもりだったよ。それも、結構びっくりするだろ?」
確かに、心配な気持ちが頂点に達した瞬間にクラッカーなんか鳴らされたら、脳味噌が固まって声も出ないだろう。
「とりあえず、誕生日企画の第一部は終わりってことで、続いて第二部の食事にいってみよう」
順が飛び跳ねながら言う。
「今度は驚かさないでくれよ」
「ちぇ、今度は俺が襲われようと思っていたのに」
「順だったら、迷わず無視するよ。楽でいい」
「はいはい、冷たいねえ。俺は先に帰って料理の仕上げをしておくから、兄貴たちはゆっくり来てくれていいよ」
はりきった様子で順が言う。
「振り向かずに帰れよ」
僕の冗談に軽いウインクで答えて、走っていった。
しずくは久しぶりの海を懐かしむように、懐中電灯の光を向けていた。波が光を反射して、線香花火のように優しく輝いた。
笑顔になると浮かぶ、しずくのえくぼは、昔も今も変わっていない。
「どうしたのお兄ちゃん? 真剣な顔して」
「いや、ちょっと昔を思い出してな」
真剣な表情で見つめるしずくから目線を逸らせて言った。
「小学校の頃さあ。しずくがよく同級生にいじめられていたのを助けてやったよな。覚えてる?」
「うん、そんなこともあったわね」
僕は長い間訊けなかった質問をするため、口を開いた。
「多分、覚えているだろうけれど、一度だけしずくを助けてやらなかったことがあったよね。僕が小学校を卒業する直前くらいだったと思うけれど」
ちらりとしずくを見る。いきなりの言葉に驚いたのか、口を半開きにして固い表情だった。
「あのときは……。ごめん」
意を決して言った。しかし、しずくは、突然口を押さえながら笑い出した。僕に気を使っているのか押し殺したような笑いだった。
「どうして誤るのよ、お兄ちゃん」
「どうしてって?」
「だって、私のためを思ってわざと助けなかったんでしょ」
「お前……」
「当たり前だけど、私は生まれたときからお兄ちゃんの妹よ。お兄ちゃんが何を考えているかは分かってるつもり。だから、私を助けてくれない理由もすぐに理解できたわ」
分かっていなかったのは、自分の方か。恥ずかしい。
「あのとき、お兄ちゃんが立ち去ったあと、私がどうしたか知ってる?」
「いや、知らない 一番近くに立っていた男の子を殴ってやったの。お腹を思い切り。そうしたら、みんなびっくりして走って逃げてったわ。私の方が強かったの」
僕はしずくを顔を見合わせて笑った。胸のもやもやが吹き飛んで、宙を舞っているようなすがすがしい気持ちだった。
「お兄ちゃんが私にしてくれることは、どんなときでも優しさが含まれてるって分かってる。言葉足らずで、不器用だけど、いつも私たちのことを第一に考えてくれている」
僕は黙って頷いた。
「だから、あの日以来、お兄ちゃんに頼るのはやめたの。お兄ちゃんに負担が掛からないように。でも、もっともっと強くならなきゃね。まだ心配かけてるみたいだから」
「いや、しずくは、強くなったよ。東京で一人で暮らしたいだなんてことは、昔のしずくだったら、絶対に言わなかったと思うしね」
しずくが僕の手助けを必要としないようになろうと努力していることは、いつの頃からか、はっきりと言わなくても感じ取っていた。お兄ちゃんは黙って見ててくれればいいと行動で示していた。
さっきしずくの声を聞いたとき、振り向こうと何度も思ったけど、結局は後ろを見なかったのも、今のしずくなら一人でもなんとかできるだろう、僕が手を出さなくてもピンチを乗り越えられるに違いないと思ったからでもあった。
二人で歩く浜辺の小道はいつもより広くて明るく感じた。
僕の心の声はちゃんと家族に伝わっていた。将来への不安もあるけれど、家族三人で同じ方向を向いて歩いていけば、道は開けるだろう。一人じゃないんだから。
「しずく、東京でがんばれよ。弱音を吐いて戻って来たりするんじゃないぞ。いつまでも応援してるから」
「うん、ありがとう」
「明日も時間あるか?」
「あるけど、どうして?」
「久しぶりに三人で小道や海辺のゴミ拾いでもするか。最近少し汚くなっているのが気になっていたんだ」
「そうね。子供の頃からお世話になってる海だもの。綺麗にしなきゃばちが当たっちゃう」
これからは毎日浜辺を歩こう。日差しを浴びながら。
見上げると、星が輝いていた。
END
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