「言霊を残してみませんか?」
カーテンの隙間からのぞく駐車場では、急に降り出した雨を避けようと、走って病院の玄関に向かう人が見えた。
外の様子に気を取られていた老人は、男の言葉を聞き漏らした。
「もう一度言ってくださらんか?」
ベッドに横たわり、踏みつぶした猫のようなしゃがれた声で言う。
救急車で運ばれて一週間。医者からは、あと数日の命だと告げられた。
「死ぬ前に、あなたの言霊を残しておきませんかと言ったんです」
「待ってくださらんか。いきなり、言霊だとか言われても、何のことだかさっぱりじゃ。ちゃんと説明してくだされ。それに、あんた誰じゃ? わしの知り合いには、あんたのような背の高い人はおらんがのう」
黒い背広姿の男は、事務的な口調で、
「一度、あいさつしたんですが、聞き漏らされているようなので、もう一度自己紹介させていただきます」
と言い、含み笑いをしてから、
「名前は右城といいます。霊媒師をしております」
「霊媒師?」
「そんなお方がなぜ、わしのところになんか来たんじゃ。霊に取りつかれていたって、もう死んじまうんじゃから関係ないがのう」
右城は軽く溜息をついて、黒縁の眼鏡の真ん中を軽く押し上げた。
「もう一度言いましょう。私はお払いをする気はありませんし、悪い霊を除霊しに来たわけでもありません。あなたの言霊をいただきに来たんです」
「こ、と、だ、ま?」
右城は、老人の枕元にゆっくりと近づき、椅子に腰掛けた。後ろの窓では、勢いを増した雨が、音を立てながら流れている。白い壁の下の方には、黒い染みが無数にあった。ここ数日でカビが繁殖し始めていた。
「言葉には魂がこもっているということは、聞いたことがあるでしょう。お札に書かれた文字が、悪霊を遠ざけてくれたり、お経を詠んで、死んだ人を成仏させる。これはみな、言葉にはそれを書いたり、話した人物の魂がこめられているからに違いありません。古来より日本は、言霊さきわう国、と呼ばれ。言語の呪力によって幸福がもたらされてきたのです」
「はあ」
「人が歌や演説を聞いて感動するのは、発せられた極微量の魂を感じ、共感するからなのです。我々は、多くの魂が込められた文字のことを特に『言霊』と呼んでいます。普通、人間が言葉にこめられる魂の量というのは極微量です。ですから、書いた文字で他人の魂を共鳴させ、感動させることはできても、人を動かすまではなかなかいきません。もし、通常の状態では考えられないくらい多くの魂がこめられた文字、つまり『言霊』を描けば、人は触れただけで、書かれた言葉の能力を得ることができますよ」
「書かれた言葉の能力を得るとは、どういうことなんじゃ?」
「簡単に説明しますと、仮に『忍耐』と紙に書かれた文字があるとします。それが言霊であったとすれば、文字に触れた人物は『忍耐』という能力を得て忍耐強くなり、どんな苦しい状況でも耐えることができるでしょう」
「まさか」
「信じられないのも無理はありません。あまりに非科学的で、現実離れしている話ですから。でも、もし本当ならば、夢のある話だとは思いませんか? 自分が言葉として残した能力が、死んだ後も赤の他人によって利用してもらうことができるんですよ」
老人はしばらく天井の一点を見つめた。
「なるほど、そうじゃな。わしの能力が有効に使ってもらえるなら、いい話かもしれないのう。でも、どうやって、言霊とやらを作るんじゃ? 普通に文字を書いただけじゃ、言霊にはならないんじゃろ」
「方法はあります。霊木から特別な方法で作られた霊紙を使うんです。その紙に、死期の迫った人物が手を置くと、自然に文字が浮かびます。浮かんでくる文字は、その人物が持つ、もっとも強い能力が選ばれます。足の速い人物なら、俊足。長生きした人物なら、生命力、といった感じです」
「へえ。わしも同じ方法で言霊を残してもらえるんじゃな。どんな言葉になるのか楽しみじゃ」
「あなたは若い頃、ウエイトリフティングの選手として活躍されていたそうじゃないですか。だったら、言霊となる文字は『力』だと思いますよ。重要の多い能力ですので、貴重なものになりますよ」
「さっそく、準備してもらえんかね」と声を弾ませた。
右城は、目を細めて言った。
「言霊作成には、若干の費用がかかりますがよろしいですか?」
「金をとるって言うのか……。いくらじゃ?」
右城は老人の耳元で囁く。
「一千万円です」
「一千万円じゃと? そんな大金払えるわけがなかろう」
「支払いができるほどの蓄えがないとおっしゃるのですね」
老人は、口をつぐんで首を縦に振った。
「妻も私と同じで、九十過ぎじゃ。十分な金を残しておいてやらんと、生きていけんからのう。それに、考えようによっては、言霊を残したとしても、他人に自分の能力を利用されるだけじゃ。わしの『力』を好き勝手使われるのは、気分のいいものではないし、死んだあとでは、どう使われたかも分からないしのう。自分には何の特にもならないことに金は出せんな」
「ちゃんとメリットはありますよ。それを聞いてから決めてみてはどうでしょう」
右城は不気味な笑みを浮かべた。
老人は片方の眉だけを吊り上げて、右城の顔を見た。
一度やみかけた雨は、再び勢いを増し、激しい濁流となり砂やゴミを流していった。
「掃除、しっかりやれよ」
僕はほうきを持つ手を止め、背筋を伸ばし、「はい」と答えた。
近くで着替えていた後輩たちが、声を殺して笑う。
三年生の僕が、後輩にけしかけられながら部室の掃除をしている姿は、他の部の人には不思議な光景だろう。恥ずかしくて、同じクラスの連中には絶対見せられない。
部室から後輩たちがいなくなると、深いため息をつき、手際よく掃除をすませた。一年生に笑われるのは、さすがに辛い。
水泳部の受け継がれている規則で、泳ぎの一番下手な奴が雑用をやり、何でも命令をきくことになっている。だから、たとえ中学を卒業したばかりの一年坊主であったとしても、先輩より早いタイムで泳ぐことができれば、我が物顔で上級生に命令することができる。
逆に遅ければ、三年生になっても練習器具の準備、部室やプールの掃除、練習メニューの調整、大会への出場申し込み、などといった雑用をしなくてはいけない。
「おーい、神谷。タオルを持ってこい」
「はい。すぐいきます」
プールから聞こえた声に、即座に答えた。
僕も入部した当初は、先輩のタイムを抜こうとがんばっていた。しかし、高校で水泳部に入るような連中は、小学生の時にはスイミングスクールに通い、中学時代には市の大会で優勝したり、県大会に出場した人たちばかりで、僕のように高校から水泳を始めた素人に勝てる相手ではなかった。
中学時代を天文部で過ごした僕にとっては、つらい環境なのだ。
タオルを届け、部室に戻ると背後から声がした。
「早く着替えて練習しようぜ」
友人の永井だった。三年間同じクラスで一番の親友だ。いつも泳ぎの遅い僕につきあって、一緒に練習をしてくれる。部で一、二を争う実力者なのにもかかわらず、威張ることなく、後輩たちにも優しく接するナイスガイだ。彼がいなかったら、とっくに僕は水泳部を辞めていたに違いない。
「俺たちは今年が最後の年なんだから、神谷も後輩に負けないようにがんばれよ」
僕の肩を叩きながらそう言う。
「でも、もう無理だよ」
「すぐに諦めるなって、まだ、間に合うさ。神谷の泳ぎはフォームはいいから、あとはパワーさえつけば、速く泳げるようになる」
すぐに諦めてしまう僕も悪いのかもしれないが、筋肉がつかない体質らしく、いくら筋力トレーニングをしても、思うように力がつかなかった。泳ぐフォームは良くすることができても、力不足でスピードが出ないのだ。
「パワーか。パワーがあれば……」
何度も永井に言われて分かっていることなのだが、どうにもならない。
「はいはい。うだうだ言ってないで、とにかく練習しないとな」
僕は永井に背中を押されながら、部室を出ていった。
練習が終わり、徒歩で通学している僕は、プロテインを溶かした水を飲みながら家に向かっていた。一年以上毎日飲み続けているが、ボディビルダー愛用の飲み物も、僕には効果がなかった。
コンビニの前に、水泳部の後輩たちがたむろしているのが目に入った。心臓が縮むような嫌な感覚を覚えた。僕は気づかれないように、道の端を足早に歩いた。すると、彼らの話し声が聞こえてきた。
「おっ、神谷だ」
「あいつ、三年のくせに、雑用するために部活来てるんだろ」
「雑用が趣味なんだってな」
声を揃えて笑う。
「三年生にもなって、一年に命令されるなんて、恥ずかしくねえのかな」
「神谷に恥ずかしいなんて思わないんじゃないの。俺たちの命令は何でもきくロボットなんだから。ロボットに感情なんてないさ」
「そりゃ、言えてる。じゃあ、今度、電池を食べさせてやろうぜ」
そう言って、大声で笑った。
周りの奴らも手を叩いて笑っている。
感情がないわけないだろ。我慢しているだけだ。毎日、お前らに命令されて、もううんざりなんだよ。
そう心の中で叫ぶと、握ったこぶしが熱くなった。
もっと力さえあれば、速く泳げて、あいつらにもでかい顔されないですむのに。力さえあれば……。
後輩たちが見えなくなってから、プロテインをがぶ飲みした。遠くで雷鳴が聞こえた。真っ黒な雲が渦を巻いている。本格的な夏の到来を予感させた。
僕は寄り道をして、いつものビルに上った。繁華街にある人気のないビル。なぜか、鍵がかかっていたことはない。
むしゃくしゃしたり、嫌なことがあったとき、このビルの屋上から下を歩く人たちを見下ろした。不思議とそれで気分が安らぐのだ。上から下を見下ろすという行為が、強い力を得たような錯覚を与えてくれるからかもしれない。
屋上のドアを開けると、生暖かい風が体にまとわりついてきた。遠くに見えていた雨雲はしだいに、近づきつつあった。
手すりに両肘を乗せ、頬杖をついて下界に目を落とす。人の姿はまばらで、どれも頼りなさげに動いている。僕の中に残ったわずかなプライドは、軽く息を吹きかけるだけで消えてしみそうな弱い炎だった。
しばらく我慢すれば卒業だ。無駄な努力はやめて、後輩たちの言いなりになっていた方が楽かもしれない。
そう思いながら、ふと移した視線の先に信じられない光景を見た。僕がつかんでいた手すりの外側、ビルの屋上の縁を人が歩いているのだ。
器用にバランスを取りながら、僕の方に向かってくる。二メートルあろうかという巨体は、風に吹かれて転落しそうだった。
あの人、何をやってるんだ?
男は僕の近くまで来ると、
「どうも、こんちには。ビルの端を歩くのはなかなか難しいですね」
頬をこわばらせながら言った。額から流れた汗が、顎から地面に落ちた。
「そんな危ないこと、やめたほうがいいですよ」
危なっかしい男の姿を見て、こっちまで汗をかいた。今まで何度も来たが、人がいたのは初めてだった。
男は手すりにつかまると、ほっとした表情を見せて言った。
「あなた。神谷一義さんですね」
「ど、どうして僕の名前を?」
葬式にでも着ていきそうな真っ黒な服を着た長身の男。見覚えがなかった。
「あなたは私のことを知らないかもしれませんが、私はあなたのことはよく知っていますよ。調査対象になっていましたから」
「調査だなんてどういうつもりです。宗教とか、教材の勧誘ならお断りですよ。まったく興味がありませんから」
僕は怪しい男に背を向けて、屋上の出口に向かった。
「では、あなたの興味のある話をいたしましょう」
興味のあるということろを強調した口調に、思わず足を止めた。
「どんな話です?」
「あなたがとても欲しがっているものを差し上げましょう」
「僕の欲しいもの……」
お金? 彼女? パソコン? 瞬間に頭に浮かんだどれもが、特別に欲しいと思うものではない。
眉をひそめる僕を、面白がっている様子で男は言った。
「あるじゃないですか。これがあったらと、さっきも願っていたじゃないですか」
心を読んでいるかのような鋭い視線を向けられ、僕は思わず言った。
「もしかして、力ですか?」
「はい」
満面の笑みで答える。
「力は、ものじゃないんですから、欲しいからってもらうことなんてできないでしょう」
「少しお待ちを」
と言って、男はポケットから小さな四つ折りの紙を取り出し、丁寧に開いた。紙の中央には『力』と書かれていた。文字は、硬貨に書かれている数字くらいの大きさだった。
「何ですかそれは?」
「言霊です」
「言霊?」
聞いたことのない言葉だった。
「手短に言いますと、魂のこもった文字です。これがあなたに力を与えてくれます」
「魂だなんて、やっぱり宗教じゃないか」
紙切れ一枚で力が手に入るなんて、嘘に決まっている。
「まあまあ、とにかく文字に触れてみてください」
男は強引に僕の腕を引っ張ると、無理矢理に人差し指を文字に触れさせた。すると、文字は蒸発するように消え、白い紙だけが残った。
「えっ?」
人差し指を裏返したが、文字はついていない。
「文字が消えた……」
「これで、あなたは力を手に入れることができました」
「文字が消えただけじゃないか。ただの手品だ。どうせ何かトリックがあるに決まっている」
僕は髪を透かして見た。
「見かけによらず、疑い深い方ですね」
そう言って男が手すりから手を離した。その瞬間、男はバランスを崩した。僕は反射的に手を伸ばして、男の腕をつかんだ。足を踏み外し、ビルから転落した男は、僕の手につながって宙吊りになった。
彼の全体重が僕の腕にかかってくる。背が高いから体重も重い。
「は、早くどこかにつかまってください」
長くは耐えられないと判断した僕は、男に大声で言った。しかし、男はまったく動こうとしない。
「早くつかまってくださいって……」
男の足は宙を蹴っている。
「大丈夫。あなたの今の力なら、一時間くらいは耐えることができるでしょう」
「……」
男の言うとおりだった。男の体重は少なく見積もっても七十キロはある。それを僕は片手で支えているのだ。しかも冷静になると、たいして力を入れていない自分に気がついた。さっきまでの僕なら、数秒間も耐えられなかっただろう。
「引き上げてみてください」
言われたとおり腕に力を入れると、意外なほど簡単に男を引き上げることができた。
「どうですか。力が増しているのがお分かりになったでしょう」
「ええ、まあ」
僕は自分の体に何が起こったのか、まだ理解できないでいた。
「最初は力のコントロールがうまくできないでしょうが、慣れればより多くの力を引き出すことができますよ」
まだ半信半疑だった僕は、まじまじと自分の手の平を見つめた。
大男を片手で持ち上げるなんて、すごい力だ。
「今のはほんのお試し版です。効力の期間は短いので、力は数時間で消えてしまいます」
「消えない力もあるんですか?」
「もちろんです。あなたのために用意しました。今日はそれをお渡しに来たんです」
「いったい、あなたは何者なんです?」
「おっと、自己紹介が遅れて申し訳ありません。私の名前は右城左一。霊媒師です」
僕は右城の差し出した名刺を受け取りながら訊いた。
「消えない力はどうやったら手に入るんです? もしかして、死んだ人間の霊を呼び出して、力を分けてもらうなんて言うんじゃないでしょうね」
「うーん。近いですが、違います。さっき言ったように、言霊と呼ばれる人間の魂のこもった文字を触れることによって、力を得ることができるんです」
そう言うと、右城は今度は背中から、色紙のような紙を取り出した。大きな文字で『力』と書かれている。
「この紙に書かれた文字の上に手の平を押し当てれば、『力』はあなたのものです」
「どんな人の言霊なんですか?」
「ウエイトリフティングの選手だったそうです。乱暴で粗暴な男だったようですが、彼の力は信頼できますよ。きっとあなたの役に立ってくれます」
僕は文字に向かって、そっと手を差しのべた。
「待ってください」右城は紙を上に掲げた。
「えっ、まだ何かあるんですか?」
「『力』が欲しいって願う人はたくさんいましてねえ。ただで差し上げるわけにはいかないんです」
「お金を払えと?」
「そういうことです。貴重なものですからね」
「言霊とやらは、大量生産できないんですか?」
「車やテレビとは違いますし、言霊は『力』だけではなく何百種類もありますから、そう簡単に欲しい言霊は手に入りませんよ」
「じゃあ、いくらなんです?」
数万なら何とか払えるが、それ以上になると厳しい。
「百万です」
「百万だって? そんな大金を高校生の僕が持っているわけないでしょう。お金が欲しいんだったら、金持ちの大人に売ってください」
腹が立った僕は、吐き捨てるように言った。
「大人はだめです。彼らに渡したら言霊の能力を悪用するに決まってます。手にした能力は、自分の努力の手助けのために使わないといけません。ですから、ほとんどの言霊は、自分に自信を持てない、悩める高校生に買ってもらっているんですよ」
「いらないわけではないんです。ただ、お金が……」
「毎月のお小遣いはいくらです?」
「一万円です」
「結構もらってますね。じゃあ、毎月五千円の分割払いってことでどうでしょう?」
十七年近く、払い続けるってことか。
「分かりました。そうしてください」
力を得るためだったら、どんなことでもしてやろう。高校卒業後から働き始めれば、早く返せるはずだ。
「ここに手をおいてください」
僕は汗ばんだ手を学生服のズボンで拭いて、手の平を広げ、ゆっくりと文字の上に乗せた。文字は目玉焼きが焼けるときのような音を出しながら、手の中へ消えていった。
「これで、あなたは生まれ変わりました」
空を見上げると、立ちこめていた雨雲は勢いを弱め、隙間からは夕日がのぞいていた。
自分に力がついたことは次の日の練習で、すぐに感じられた。
いつものようにかいだ手は、水の抵抗に負けなかった。後ろへ水をはじき飛ばしながら、流れるように体が進むのだ。顔や胸に水が当たってくるという感触は初めての体験だった。気持ちよくて、いつもの倍の量の練習をこなした。
しかし、急に力がついたせいで、ついつい力任せの泳ぎになってしまい、フォームのバランスを崩した。
「おお、神谷。今日の泳ぎはフォームは悪いけれど、力強いね」
永井だった。
「その方が速く泳げるよ。もしかして、いままでフォームばかりに気を取られていたからタイムが伸びなかったんじゃないのか?」
髪から流れ落ちる水を拭い、うれしそうな表情で言う。
「うん。まあね」
どうやら、僕が力を手に入れたことに気がついていないようだった。見かけの筋肉が増えたわけではないからだろう。
感覚としては、もとあった筋肉の密度が増加したように感じだった。
「まだまだ練習するから、永井も付き合ってくれよ」
「いいよ。今日は日が沈むまで練習しよう」
一週間もすると、力のコントロールも自在にできるようになり、フォームを乱さず、力強い泳ぎができるようになった。
練習を始める前、永井が声をかけてくれた。
「そろそろ、一年の連中と勝負してみたらどうだ? いつまでも、あいつらの言いなりになっているのもいやだろう。今の神谷の泳ぎだったら、きっと勝てるさ」
一年に勝つことができれば、雑用から開放される。
そう思ってみても、自信はなかった。一年といえども、彼ら全員、中学時代に県大会出場の実績がある。簡単には勝たせてくれないだろう。
「一年を呼んでくるから、準備運動しといてくれ」
僕の返事を聞かないまま、永井は更衣室に走っていった。
こうなったらやるしかない。自分の力を信じればきっと勝てる。
そう何度も念じて気合いを入れた。
一年を引き連れて、永井が戻ってきた。
「先輩、本当に勝負するんですか?」
「とっとと、終わらせましょう」
「一回だけですよ」
強引に連れて来られた彼らは、口々に愚痴をこぼした。
雑用ロボットなんかに負けるわけがないとでも思っているのだろう。
永井はそんな彼らの様子を、薄ら笑いを浮かべながら見ている。僕が勝つことを、本気で信じているようだった。
百メートル、クロール。一本勝負。
五十メートルプールのスタート台に立つと、向こう側の壁が遙か遠くに感じられる。胸のポンプが高速運動をし始めた。
一年は五人。誰か一人に勝てばいい。でも、できれば全員に勝ちたい。
合図と共に、震える足を一気に伸ばした。スタートに出遅れ、水中から顔を上げたときには、すでに一メートル近い差が開いていた。
水しぶきを飛ばし、力一杯手足を動かしたが、隣の泳者との距離は離れていく。
やっぱり、だめか。
と思ったその刹那。永井の声が耳に届いた。
「焦るな神谷。練習通りでいいぞ」
そうだ。冷静になれ。いつも練習でやっているように力を無駄なく水に伝える泳ぎをするんだ。
僕はがむしゃらに動かしていた手足を、ゆっくりとした動きに変え、水を確実にとらえることに集中した。すると、練習のときに感じていた、水に乗るという感触が全身に伝わった。何千回と練習した五十メートルのターン。次第に距離が縮まってくる。身長一つ分の差は、腕一本分の差になり、頭一個分となった。
よし、いける。
力を込め、一気に抜きさった。さらにもう一人抜く。もう前には誰もいない。自分に向かってくる波はない。
青い壁が見えた。ゴールだ。僕は吸い込まれるように壁に手をついた。立ち上がり、コースロープにもたれ掛かった。
「一着なんて、すごいじゃないか」
息を切らしながら見上げると、永井がいた。
「僕は、勝ったのか……」
負けた一年たちは、無言で練習を始めた。
「今年の一年は生意気だったけど、これで少しは凝りたんじゃないのかな」
溜め息混じりに永井が言った。
僕は一年たちに勝ったということに戸惑いながらも、ビルの屋上から下を見下ろしているときのような心地よさを感じていた。
「これからはライバルだな。大会も近い。お互いがんばろう」
永井は僕の成長を、心から喜んでくれた。
帰り道、僕は一年たちが泳ぎで負けたときに見せた、悔しそうな顔を思い出していた。急に落とし穴にでも落とされたかのような、信じられないという表情。思い浮かべれば浮かべるほど、してやったりという爽快感がわいてくる。
僕は彼らからされた仕打ちも忘れて、
「彼らも、悪い奴らじゃない。明日からは仲良く練習しよう」
と寛大な気持ちにさえなっていた。
僕は買ったばかりのコーラの栓を開けると、喉に流し込んだ。途端に長いげっぷが出て、笑いがこみ上げた。何をやっても気持ちよかった。
「先輩。お帰りですか」
とげのある声が聞こえ、振り返ると、さっき勝負した四人の一年が立っていた。彼らの冷徹な顔を見た瞬間、嫌な予感がしてさっと笑顔が消えた。
「ちょ、ちょっと急いでるから、また明日」
僕はそれだけ言うと再び歩き出した。
「待てよ」
四人とも僕より遙かに背が高く、体格も良かったが、中でも一番凶暴そうな奴が僕の肩を引っ張った。
こいつ誰だっけ?
よく考えれば、毎日命令されるだけで、彼らの名前を覚えていなかった。彼らと関係を持ちたくないという気持ちがそうさせていたのかもしれない。
「あんな勝負で勝って、いい気になってんじゃねえぞ」
「いい気になってなんかないさ。同じ部の仲間だろ。仲良くしようよ」
「嘘つけ。仲良くしたいだなんて思ってないだろ。本当は、負けやがってざまあみろ、これから仕返ししてやるとでも思ってるんだろ。なあ」
襟をつかまれ、息が苦しい。これが先輩に対する態度なのか。
「違う。僕はただみんなで団結してがんばっていきたいんだ。仕返ししようだなんて思ってなんかない」
さっきまであった寛容な心はどこへいったのだろう。手に持ったコーラの泡のように、憤りが体の奥からぶくぶくと現れてきた。
僕の我慢の許容量はこんなにも小さかったのか?
「俺たちは、お前のことなんて召使いロボットとしか思ってないんだよ。水泳でたった一回負けただけで、いまさら仲良くなんてできるわけないだろ」
そうだ。こんな奴らと仲良くする必要なんてない。
「じゃあ、どうしろっていうんだ?」
「お前には今まで通り、俺たちの言うことを何でもきいてもらう」
「……」
どうして僕は今まで、こいつらのいいなりなんかになってきたんだろう。水泳部のルール? それとも恐怖? そうだ。反抗したら何をされるか分からないという怖さ。それが僕の心を押さえつけていたんだ。だが、そんなものはもう存在しない。恐怖を払拭する力を手に入れたんだ。恐れることは何もない。
「ふふふふ。あははは」
笑いを止めることができない。
「何だこいつ、急に笑い出して。気持ち悪い」猿顔の一年が言う。
「おい、こら。何がおかしい」
目の前の一年が、臭い息を吐きかけながら言った。
「そりゃあ、おかしいさ。今までお前らなんかの好き放題にさせていたなんて、情けなくてな。笑いがとまらんのじゃ」
「何言ってやがる。これからだって……」
ゴリラのような巨体はくの字に折れ曲がり、うなり声を上げながらうずくまった。僕のくり出した拳が、彼の鳩尾に当たったのだ。
「あ、あ……」
まだ声を出していたので、黙らせてやろうと、側頭部を軽く蹴った。ゴリラ野郎は、白目をむき、崩れ落ちた。
「てめえ。何しやがる」
三人同時に殴りかかってきた。僕は動じることなく、一人を蹴り倒した。その隙に体をつかまれたが、すぐに振りほどいて投げ飛ばした。二人とも、うめくだけで起き上がってこない。残りは一人。
「さあ、どうする。一年坊主」
怖気づいた狐顔の一年は、逃げることもできないで目線をうろうろさせた。
「ご、ごめん、なさい」
震える声で言う。少しはかわいいところもあるじゃないかと思ったが、もう遅い。僕の前に立ちふさがる奴は、全員力でねじ伏せてやる。
狐顔の一年を強引に引っ張り倒し、馬乗りになった。彼の目元がきらりと光る。
こいつ泣いてるか? そうか、圧倒的な力を目の当たりにすると人は恐怖で泣くのか。こりゃあ、おもしろい。
僕は声をはった。
「お前もちょっとは泳ぎがうまいみたいだが、もう諦めるんだな」
腕をへし折って二度と泳げなくしてやる。
一年の腕をつかみ力を込めると、骨の軋む音が全身を駆けめぐった。コーラを飲んで、思い切りげっぷをしたときのような心地よさ。思わず身震いした。
「い、痛い。やめて、やめて、ください」
僕もいつも、心で叫んでいたさ。無茶な命令をするのをやめてってな。
「さあ。もう終わりじゃ。右手ちゃん、さようなら」
そう言って、一気にへし折った。はずだったが、僕の手は何者かにつかまれた。
「やりすぎだぞ、神谷。もうその辺にしておいてやれ」
永井だった。腕を料理するのに熱中していて、近づいてきていたのに気づかなかった。「あ、ああ。そうじゃな」
「そうじゃな? いつからそんなしゃべり方にしたんだ?」
「い、いや。そうだな、だ。ちょっと、慌てていただけだ」
そう言ってみたものの、殴りかかった辺りから、自分が自分でないような。まるで、誰かに操られているような、不思議な感覚を体験していた。
我を取り戻した僕は言った。
「永井、とめてくれてありがとう。いきなりこいつらがからんできたから、動揺してこんなことをしてしまったんだ。申し訳ない」
「俺に謝ってもしょうがないだろう」
永井は四人を順番に起き上がらせると、
「もう、あまり思い上がった真似はするなよ」
とだけ言って、帰らせた。
僕はその間、乱れた呼吸を整えながら、力を手にしたことが正しかったのかを考えていた。
ほんの少しの怒りで、人を傷つけてしまう。力を得ただけで、人はこんなにも変わってしまうのだろうか。
「お前もだぞ、神谷。勝負に勝ったからって、何をしてもいいってわけじゃない。あいつらの腕なんか折ったって後味悪いだけだろ。いままでいろいろあったから腹が立つ気持ちも分かるけど、同じ水泳を志す仲間だ。仲良くしていこう」
「分かってる。すまない」
「長い付き合いだ。お前が優しくて、思いやりのある奴だってことは知っている。だから、もう二度とこんな人を殴るようなことはしないだろうが、腹が立つことがあったり、悩んだりすることがあったらいつでも相談してくれよ」
永井の言葉が胸に染み込んできて、もやもやとした気持ちを吹き飛ばしてくれた。
「ありがとう。なんか、僕。迷惑ばかりかけてごめんね」
「気にすんな。明日、数学の宿題ノート見せてくれたら、ちゃらにしてやるよ」
冗談っぽく言う永井の言葉で、僕は自然と笑顔になった。
永井と別れてから考えた。
難しいかもしれないけれど、明日は一年と仲直りして練習に励もう。僕の方から謝って、お互いに腹を割って話し合えば、分かり合えるはずだ。悪い雰囲気の中で練習するのはみんな苦痛だろう。
「お久しぶりです」
「えっ」
立ち止まると、目の前に力を与えてくれた霊媒師が立っていた。相変わらず、不気味な真っ黒の服を着ている。
「ああ、右城さん」
「ぼーっと歩いているようでしたが、何か考え事ですか?」
「まあ、そんなところです」
見上げながら言うと、右城は少しかがみ、
「ところで、こないだお分けした『力』なんですが、使い心地はどうでしょう?」
「とても役にたってくれていますよ」
「それならいいんですが、もし気に入らないようでしたら、二週間以内なら返却可能ですので連絡してください」
「その必要はないですよ。せっかく力をいただいたんです。活用させていただきますよ」
「忠告ですが。力をお使いになるときは、くれぐれも悪意を持って使わないでくださいよ。犯罪や人を傷つけるなんていうのはもってのほかです」
僕は今さっきしたことを思い出し、目を伏せた。
この男は、僕が人を殴っていたのを見ていたのだろうか。
「言霊を提供してくれた人たちは皆、善意で提供してくれています。ですから、平和に使われることを望んでいらっしゃるんです。彼らの好意を裏切るような真似をしてはいけません」
右城の言う通りだ。言霊の能力を悪い目的で使い始めたら、悪の魅力に取りつかれ、やめることができなくなってしまう。実際、自分もそうなりかけた。ジキルだった人間も、すぐにハイドになってしまうのだ。
「分かりました。心にとめておきます」
そう言いながら、もう二度と人を殴らないことを誓った。あこがれていたものを手にすると、ついつい見せびらかしたくなってしまう。しかし、その気持ちを抑える力を持つことが大切なのだ。
次の日。練習を始める前、更衣室の隅で着替える一年に歩み寄った。
「あ、あのう」
呟いた瞬間、四人はおびえた目線を向け、すぐにそらした。
彼らは僕に何を言われるのだろうかという不安を抱いているようだった。命令をされると思ったのかもしれない。一度恐怖を与えただけで、こうも変わってしまうとは驚きだった。力とはなんてすごい威力があるのだろう。
思わず、とっとと掃除しろ、と言いたくなったが、言葉を飲み込んだ。
「昨日は、ごめん。許して欲しい」
僕は誠意を込めてそう言った。しかし、謝っているのはこっちなのに、四人は怒られているかのようだった。僕の一言一言で体を震わせるのだ。
そして、すいません。すいません と傷ついたCDのように繰り返した。自分たちは光り輝く存在だと思い込んでいた連中も、少し傷をつけるだけでこのざまだ。
「違うんだ。これからは、お互い仲良く……」
待てよ。目の前の奴らを見てみろ。すっかり怖じ気づいているじゃないか。仲間になんてなれっこないさ。それなら、いっそうのこと僕の忠実なしもべにした方が手っ取り早いし、簡単だ。
仲間なんていうのは足手まといで、煩わしいだけだ。力を持った僕には必要ない。
「ふふふ、あははは」
「……」
四人は恐怖の絶頂に達して、壁にへばりついたまま身動き一つ取れないでいた。
「今から、お前たちはわしの操り人形じゃ。手足となって働かせてやる」
生まれて初めて手に入れた、人間のおもちゃだ。誰にも渡さない。
「神谷。いいかげんにしとけよ」
肩をつかまれた。
「誰だ? 何だ、永井か。ちょうど今、こいつらを部下にしたところじゃ。お前も命令していいぞ」
「どういうことだ? 昨日、仲直りするって言っていたじゃないか」
「仲良くなってどうする。水泳は、スタートの合図が鳴り、プールに飛び込んだらあとは一人で泳ぎ切らなきゃいけないんじゃ。自分に力さえあれば、仲間なんて必要ない」
僕に仲間なんて不必要。必要なのは力。誰にも負けない絶対的な力。それさえあれば、他人をはいつくばらせて生きていける。
「本気でそんなこと言っているのか?」
「ああ。仲良くなんてできるかよ」
「そんなこと言う奴じゃなかったのに、どうしたんだよ。昨日からおかしいぞ」
「僕は、僕だ。何も変わっちゃいない。前からこういう人間だったんだよ。今までは隠していただけだ」
永井は唇を震わせ、
「いいから、一年たちに誤れよ」と荒れた声を出した。
「もしかしてお前。僕のことを恐れているのか? 自分が僕に負けて、水泳部のエースの座を明け渡すのが怖いんだろう。だから、そうやって僕と仲良くして、勝負を避けているんだろう。なあ」
大きな溜め息をついた永井は、しばらく僕の目を見つめたあと言った。
「分かった。じゃあ、今から、俺とお前で勝負しよう。昨日やったように、百メートル一本勝負だ」
僕と勝負だと。そんなに強がったって仕方がないのに哀れなやつ。勝負はやる前から分かっている。力を手にした僕が負けるわけがない。それをまだ理解できてない奴には、体で教えるしかない。
「負けた方は何をする?」
「俺が負けたら……水泳部を辞める。その代わり、一年たちに無茶な命令するのは辞めてくれ。お前は?」
いつの間にかに集まった後輩達がざわめいた。後輩思いの先輩がいなくなるのはさみしいのだろう。力のない奴らの考えそうなことだ。
「わしが負けたら、お前らの言うことを何でもきいてやる。死ねと言うんだったら死んでやるわ」
静まり返った部室でそう叫んだ。
「一年にあやまって、みんなと仲良くしてくれればそれでいい」
「ああ、分かった。もっとも、わしが負けるなんてことは、ありえないがな」
こいつに自分の力を見せつけてやる。力の存在がいかに偉大なのか分からせてやる。
そう心で唱えるたび、力が湧いてきた。これまで感じたことがない強力な力。
負けるなんてことは絶対にない。永井を目の前にひざまつかせ、後輩たちの前で大恥をかかせてやる。
梅雨明けしたのかと勘違いさせるような晴天。プールの細かな波が、太陽の光をきらきらと反射していた。
スタート台に立つと、五十メートル先の壁が手招きしているように見えた。
「やめるなら、今のうちだぞ」
「ふざけるな、やめたいのはそっちだろ」
「確かにお前の泳ぎは早くなったよ。五十メートルの勝負なら勝てないかもしれない。それは認めよう。だけど、お前にはまだ百メートルを全力で泳ぎ切るほどの体力がついていない。力がついたくらいで一流選手になれるほど水泳は甘くない。力と体力のバランス。それがあってこそいいタイムを出せる」
言ってくれるじゃないか。わしの力は絶対だ。体力なんてなくても簡単に勝てる。昨日だって勝てたんだからな。
わしは口の端を吊り上げて笑った。
一年がスタートの合図を送る。わしは豪快に水しぶきを上げて飛び込んだ。昨日のような焦りはなかった。冷静にイメージ通りの泳ぎをした。永井はついてくることができず、しだいに引き離されていった。
どうだ、わしの泳ぎを後ろから見た感想は。この力がうらやましいだろ。
ひとたび差がつけば、もっと引き離してやろうという意志が働いて、より力を引き出すことができた。
プールサイドでは後輩たちが永井に向かって声を出している。わしを応戦する奴は一人もいない。
声援を送ってもらったからといって速く泳げるわけじゃない。見てみろ、追いついてこれないじゃないか。応援なんぞ、わしには不必要なものだ。
五十メートルのターンをして壁を蹴り、潜っているとき、水中で永井を見た。奴はこっちを見る余裕もなく、必死の形相だった。
昨日まで泳ぎを教えてやっていた奴に負けているなんていうのはさぞかし屈辱的だろう。そう考えると、水中だというのに笑いがこみ上げた。
もう少しでゴール。口の中はまずいプールの水でいっぱいだ。
わしは水を吐き出しながら呼吸をすると、口に向かって波がきた。波の方に視線を送る。
そんな。ばかな。
頭の中が混乱した。すぐ隣に、永井がいたのだ。わしはスタート時と変わらず、全力で泳いでいるのに、知らない間に追いつかれていた。
嘘だ。こんなこと、ありえない。
いつの間にかに疲れて、スピードが落ちたというのか。これが体力の差なのか?
焦って力んでも、スピードは上がらなかった。ぴたりと並ばれ、そのままゴールの壁が近づいてくる。
わしは夏の野良犬のように、必死に呼吸しながら、最後の力を振り絞った。
抜かれるわけにはいかない。負けるわけにはいかない。わしの力の証明のために。
フォームを崩しながら、手を伸ばした。壁に触れた瞬間、永井を見る。彼もまたこっちを見ていた。
「どっちが勝った?」
タイムを計測していた猿顔の一年に訊いた。しかし、彼は戸惑いの表情を見せながら、口ごもった。
「早く、言え」
わしの怒鳴り声でやっと口を開いた。
「か、神谷先輩です」
やった。わしが勝った。タッチの差で勝ったんだ。ざまあみろ。横目で永井を見ると、すでにプールから上がっていた。乱れた呼吸を整えようと座っていた。後輩たちがタオルを差し出している。
「わしの勝ちだな。約束通り、たった今からお前は、水泳部員じゃなくなったんじゃ。とっとと出ていくんだな」
気持ちいい。全身が喜びで打ち震える。勝利したもののみが味わうことができる快感。「分かってる。もう二度とここには来ないと誓うよ」
負けを認めさせた。これでいい。これでいい。
「でもな、神谷。ここに集まった後輩たち。お前が勝っても、誰一人として喜んでいないぞ。勝っても、誰にも喜ばれない。それでいいのか?」
負け惜しみか。醜い奴だ。勝てばいいに決まってるだろ。オリンピックを見てみろ、金メダル何個、銀メダル何個って、数を競って大喜びだ。勝った奴が偉い。負ける奴は、くずだ、用なしだ。
「永井先輩」
一年が駆け寄ってきた。
「すいません。僕たちのために、こんなことになってしまって」
狐顔の奴が言う。
嘘つけ。とんだ茶番だ。どうせ、心の中では、永井が辞めるおかげで自分たちは命令されなくなって助かったと思ってるんだろ。
そう考えていると、一年四人が僕の前でひざまづいた。
「今までご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。僕たちが退部しますので、永井先輩の退部は取り消しにしてください」
涙ぐみながら言った。
「お前ら、頭おかしいんじゃないのか。せっかく、わしに命令されずに部活に参加できるようになったのに、わざわざ自分からやめる必要はないじゃろ」
わしには理解できない考えだった。
「お前ら。俺のことは気にするな。水泳部をやめることに未練はない」
永井が言う。
何なんだ。いったいこいつらは。身代わりになるだとか、未練はないだとか意味不明なことを並べ立てやがって。勝つことがすべてだろ。
「あー、もう。何もかもが面倒くさい。お前らの勝手にしろ」
くだらない話し合いを聞いていても意味がない。わしの力の前にひれ伏して許しをこう。その姿が見れて満足だ。
わしは力を思う存分使うことができる若い体を手に入れたんじゃ。もっともっと暴れてやる。力を見せつけてやる。人生をもう一度やり直してやる。
わしは思い切り声を出して笑った。
再び、病院の一室。
右城が言った言葉に老人は興味を抱いた。
「言霊を残すとメリットがあるというのはどういうことじゃ? 死んだあと天国に行けるとでも言いなさるのかな」
「いえいえ、とんでもない。もっとすばらしい特典です」
右城は不気味な笑みを浮かべ続ける。
「言霊の能力を与えて使用してもらう人間は、十五歳から二十歳までの若者と決めています。彼らは若く、精神的にも未熟で、他人の影響を受けやすい年頃なのです。それはつまり、言霊で得た能力を乱用してしまい、自分をコントロールできなくなるということです。魅力的な能力を得て、周りの奴らに自慢したくなる。自分が特別な存在だと認めさせてやりたいと、能力の力を過信し悪用する」
「……」
「言霊とは、何度も言いますが、それを残す人物の魂の一部です。自分の魂がもっとも得意とする能力に形を変えているに過ぎません。能力は使用されればされるほど、増長し、使用者の体の中で大きな部分を占めるようになります。それはつまり、言霊に変わった魂が、使用者の体を乗っ取ることに他なりません」
「言霊を残せば、それを使用した人物の体を乗っ取ることができる……。もう一度若返って、人生をやり直せる」
「そうです。言霊を残しさえすれば、もう一度若い体を手に入れることができるんです。思い切り体を動かしてスポーツをすることができるんですよ」
「……」
老人は何かを考えるように壁の一点を見つめていた。
「さあ、言霊を残しましょう。そして、楽しく、明るい人生を再び楽しみましょう」
「……」
微動だにしない老人に苛立った右城が言う。
「どうかしましたか?」
老人は眉を振るわせ、
「いや、考え事をしていたんじゃ」
「言霊を残すかどうか、じっくり考えてください」
「違う。昔を思い出していたんじゃ」
まったく話の通じないじいさんだと、右城は大きく息を吸い込んだ。
「昔を思い出すのもいいんですが、言霊はどういたしましょう」
「言霊なら、残さないつもりじゃ」
「ど、どうしてです? 生まれ変わることができるんです。そんなチャンス滅多にないですよ」
老人は右城の言葉に表情一つ変えないで語り始めた。
「年寄りになると物忘れがひどくなっていかんのう。たった今思い出したわ。あれは十七の時じゃった。ある男から言霊の能力を授かったんじゃ。言霊の代金が百万だと言われて驚いたことをよく覚えとる」
「えっ」
右城は頭でも殴られたかのようによろけた。
「男の名前は、あなと同じ右城じゃったよ」
この仕事は父から譲り受けたものだ。もしかして、父がすでにこの老人に言霊を与えていたというのか?
右城は今すぐ逃げ出したい気持ちになっていた。
「当時高校の水泳部に所属していたわしは、与えてもらった力という能力を暴力に使い、友人の心をも傷つけてしまったんじゃ。しかし、記憶がほとんどないんじゃ。それは今あなたが言ったように、魂を乗っ取られようとしていたからなのでしょうな」
老人と目が合い、右城は額の汗を拭いた。
「では、あなたは神谷さんではなくて、言霊となって彼の魂を乗っ取ったどこかの誰かってことですか?」
「いえ、言霊の能力はお返しいたしました。ですから、今の私は正真正銘の神谷です」
「言霊を返した……」
一度受け取った言霊の能力を返却しただなんて聞いたことがない。能力を使いまくり、すぐに魂を乗っ取られてしまうはずだ。
「どうして、自分の意識を失わないで言霊を返すことができたんです」
「言霊の力は、まさに自分の心の奥底に潜む、悪の心を増幅させるものじゃった。自分の意志は失われ、知らない間に心にもないことを口走り始める。しかしな、一瞬、自分の意志を取り戻したとき、友の泣いてる姿を見たのじゃ。自由がきかないだけで、状況は分かっていた。友が私と水泳で勝負して負けたことも、その結果、退部しなければいけなくなったことも。彼の涙は、負けた悔しさでも、退部をしなくてはいけない悲しさでもないことはすぐに分かったんじゃ」
「……」
水泳? ウエイトリフティング選手のこのじいさんは、高校時代水泳部だったのか。
「彼の流す涙は、変わってしまったわしを救うことができない自分を情けなく思い、流した涙だったのじゃよ。そこまでわしのことを心配してくれる友を裏切るわけにはいかない。意志を取り戻したわしは、すぐに右城のところにいって能力を返したんじゃ。力は失っても、代わりに多くの仲間を得ることができたし、友を失わずに済んだ。満足しておる」
友の涙を見て、言霊の魂に打ち勝っただと、信じられない。一度手に入れた超人的な能力を手放すことのできる人間なんて、今まで一人もいなかったのに。
「死んでいく人間の魂は、その人物が偉大であれば、自然に人々は慕い、尊敬し、受け継いでいってくれる。無理矢理に魂を残して、他人の精神を乗っ取るなんてことは無意味なことじゃよ」
右城は言葉を発することなく、病室を出ていった。
廊下を歩きながら、独り言を言う。
「断られるなんて考えてもみなかった。でも、まあいいさ、他の奴を捜せばいいだけだ」
世の中には自分だけが持つことができる特別な能力を欲しがっている奴なんて大勢いる。
「おい、右城だな」
「えっ」
突然の声に、右城は振り返りる。
「詐欺の容疑で逮捕する」
男は右城の手に手錠をはめた。
「ちょ、ちょっと、待ってくれ。俺は詐欺なんかしてないぞ」
「言霊詐欺だ。死んでいく老人から金をだまし取っただろ。遺族の人たちから捜査依頼が出ている。詳しい話は署できく」
なんだと。言霊は嘘じゃない。ほんとにある。俺は人の望むものを提供していただけだ。
「言霊は、ほんとに……」
それだけ言って、右城は口を閉じた。額に滲む汗がゆっくりと流れた。
あの老人。『力』の言霊をもらったってことは、どうしようもなく非力な少年だったに違いない。そういう人材を選ぶことになっているから。それなのに大学時代からウエイトリフティングの選手になって、全国大会でも活躍していたということは、相当な努力をしたに違いない。簡単にたどり着く近道を捨て、永遠にたどり着くことができないかもしれない遠い道のりを選び、懸命に歩んできたのだ。
始まりも終わりもない永遠の時の中で、有限の時間を生きる人間。所有する時間が切れた時、満足できる人生を成し遂げたものは、もう一度時間を所有する必要も、意志もないのだろう。ただ、笑顔で死を迎え入れるだけなのだ。
雨雲の隙間から差し込む日差しが、右城の頬を照らしていた。
END
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