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大当たりの男

 俺はハンカチで手の汗を拭い、双眼鏡を手にした。
 会場に集まった群衆は皆一様に夢の紙片を握りしめ、血走った目をステージに向けている。異常なほどに蒸し暑さを感じるのは、狭い会場に人々が密集して座っているせいだろう。ステージ上には、丸い円盤状のルーレットがいくつも立てられている。円盤にはゼロから九までの数字が書かれ、運命の矢が放たれるのを待ちかまえている。
 俺は財布から人生を大きく変えるであろう一枚の紙片、宝くじを取り出し、何十回、いや、何百回と見てすでに暗記した番号を、もう一度確認した。
 たった一枚の宝くじ。俺はこの一枚を一等に当選させる力を持っている。二億円という大金をもらって、明日から遊んで暮らすことは、すでに確定された未来だと言っても大げさではない。
 司会の男性が登場して、会場は静まりかえった。
「みなさん、お待たせいたしました。ただいまより抽選会を始めたいと思います」
 拍手がわき起こった。俺は手の震えをおさえるようにわざと大きく深呼吸した。バッグからヘルメットを取り出してかぶり、シャツの中の防弾チョッキを確認した。
 装備は完璧だ。
 まわりの人たちは不思議そうな目を俺に向けている。しかし、彼らの視線を気にしてはいられない。日本確率研究所の女からもらった装置を使うためには、厳重な装備が必要なのだ。油断すると命を失いかねない。
 軽快な音楽が鳴り、七色のスポットライトがステージを照らした。俺は左手で宝くじを、右手で双眼鏡持った。覗こうとした瞬間、はっとして双眼鏡を落とした。
「しまった」
 気持ちが高揚しすぎて、装置の数字設定をし忘れていることに気が付いた。双眼鏡を拾うと、ポケットからストップウォッチに似た機械を取り出した。
「頼むぞ。今回も俺の確率をアップさせてくれ」
 祈りを込め、まわりに注意を払いながら、宝くじの販売枚数が約十億枚だということを考慮して、数値を十五億倍に合わせる。
 再び双眼鏡を覗いた俺は、頭の中で二億円の使い道をあれこれと考えた。

 十日前
 俺は込み合う電車の窓にへばりつきながら、空に浮かぶ綿菓子のような雲を見つめていた。うっすらと額に汗が滲んでくる。
「今週も先週同様、暑くなりそうだな。まったく、どうして昨日、晴れてくれなかったんだよ」
 悔しさのこもった声で呟いた。
 家族三人で行く予定だったピクニックは、土日の二日間降り続いた雨で中止になった。梅雨明けしたはずなのに雨が降るとはついていない。仕方なく、狭いマンションの居間で雨音をBGMに、お弁当用に買った食材で作った昼ご飯を食べた。小学校二年生になったばかりの娘は、つまらなさそうにうつむいたまま卵焼きばかりを口に入れていた。
 俺が言えた言葉といえば、「後二週間もすれば夏休みだ。そしたら、旅行にでも出かけよう」という、その場しのぎの嘘だけだった。
 食事のあと、娘を喜ばせる言葉も言えない自分が歯がゆくて、俺は家を一人飛び出し、馬券売場に足を運んだ。だめなときは、何をやってもだめなもので、五万ばかりがあっという間になくなった。
「ついてないなあ」
 一日一度は口にする言葉だった。一度でいいから、なんて幸運なんだと自分を呪ってみたいものだ。
 電車は俺の降りる駅に近づいた。緩やかに減速し始めると、近くの景色がはっきりと見えた。
 会社に着いて、ハンカチで汗を拭いながら、隣の席の後輩大久保に軽く挨拶した。彼は俺の顔を見ないで軽く会釈した。大久保は入社三年目で、俺より六年後輩になる。専務の息子らしくコネで入社したことは明らかだった。俺の部署の課長である工藤は、大久保には楽な仕事をさせ、俺に雑用やら、細かい注文付けてくる取引先などのやっかいな仕事を回してくる。
 若い大久保に仕事を遂行する能力がない訳ではなく、ただ単に専務の息子だというだけで、簡単な仕事だけをやらせているのだ。難しい仕事をやらせて、へそを曲げられたらやっかいだと思っているのだろうが、あまりに露骨すぎてあきれ果てる。
 俺は楽な仕事ばかりを頼むのは、彼のためにならないと思いながらも、楽して給料がもらえて羨ましいとも思っていた。
 何が専務の息子だ。運だけで生きやがって。
 そう心で呟いたときに、大久保が話しかけてきたから、驚いて手に持っていたファイルを落とした。
「太田さん、どうかしました?」
 慌ててファイルを拾う俺を、いぶかしげな目で見て言った。
「いや、何でもないよ」
「そうそう昨日の◎×記念、すごいレースでしたよね。観ました?」
「ん、ああ」
「まさか、最終コーナーで六番人気のコダイマーが、一番人気で先頭を独走していたオレフィンを抜くとは思いませんでしたよ。ねえ、先輩」
「そうだな」
 そのレースで五万負けたんだと言ってやりたかったが、口に出したら余計に情けなくなりそうで飲み込んだ。
「僕はあのレースで適当に十万ほど買っていたんですけど、勝って二十倍の二百万になりましたよ。まあ、十万くらいなら負けてもいいかなと思って賭けたんですけど、運良く当たりましたよ」
 他人事のようにおどけてみせた。
「やっぱり勝つっていうのは嬉しいですよね」
 負けたなどと言わなくてよかったと胸を撫で下ろした。
 生まれながらにして幸運な奴は、何をやっても運が味方してくれる。俺にももっと運があれば、人生が変わっていたのにな。
 窓から差し込んできた強い日差しに目を細めると、怒りにも近い感情が沸き上がってきた。ブラインドを閉じ、ネクタイをきつく締めて席に座った。

 俺は外周りの仕事に出て、社用車を道の脇に止めると、注文を受けて取り寄せた化学薬品、ジエチルエーテルの瓶に手を伸ばした。沸点が四十度で、消防法の定める危険物一類の特殊引火物に分類される、燃えやすくて危険な薬品だ。保管は通常、防爆冷蔵庫で行われる。
 自前の鞄から空の五百ミリリットルのペットボトルを取り出すと、中にジエチルエーテルを慎重に流し込んだ。
 何度もやっていることだが、手が震える。火が点きやしないかという恐怖と、届け先でバレるのではないかという不安が入り混じって、通常の生活では味わえないスリルを与えてくれる。
 瓶は五本あり、それぞれから五十t程度を入れ、ペットボトルは半分くらいまで充たされた。
「よし、今日は大量だ」
 俺は毎日、薬品を運んでいるうちに、彼らが欲しがる薬品がどんなものなのか自分で使ってみたくなり、ばれない程度の少量を盗み取るようになっていた。
 盗んだ薬品は、自分の車のトランクにコレクションとして保管してある。使ってみたいと思いながらも使い道がなく、放置してあるというほうが正しいかもしれない。
「どうも、いつもわざわざご苦労様です」
 段ボール箱に入ったジエチルエーテル五本を抱えながら、注文者である男が言った。
「こちらこそ、お世話になっております」
 俺は深々と頭を下げ、ほって胸を撫で下ろした。少し抜いていることに気づかれたことがないとはいえ、手渡すときは気が気ではない。そして、いつものように、俺はいつまでこんな犯罪じみたことを続けるのだろうと自己嫌悪に陥った。
俺の勤める栗沢化学は、化学メーカーや大学に化学薬品を販売する商社だ。メタノールやトルエンの劇物、アセトンやジエチルエーテルといった危険物など化学薬品なら何でも取り寄せて販売する。文系大学出身の俺は、使ったことがないものばかりだから、薬品の危険性はいまだによく分かっていないが、電話やファックスで受けた注文通りの品物を届ければいいだけなので問題はない。
 直接お客のもとに届けに行くので、予め会社や大学と契約して、納品させてもらっている。俺の担当の会社は、すぐに持ってきてくれだとか、注文を間違えたから取り替えて欲しいだとか平気で言ってくるから大変だ。
 会社に戻ると、早速電話が鳴った。
「酢酸ブチル十五キロと無水のシュウ酸を五百グラムお願いします」
 電話の向こうの声はメモを読んでいるらしく、単調な口調だった。
「酢酸ブチルは十五キロだと瓶ではなくて缶になりますがよろしいですか?」
「はい、それで結構です」
「全て特級品でご用意すればよろしいのでしょうか?」
「ええ、特級でいいです。何日くらいかかりそうです?」
「在庫があると思いますから、すぐに取り寄せますので、一週間も待ってもらえれば大丈夫だと思います」
 普通の注文でよかったと受話器を置いて、コーヒーに手を伸ばした。
「太田、ちょっと来てくれ」
 たばこ臭い息を吐きかけるように、俺の耳元で工藤課長が言った。煙草を吸わない俺は顔をしかめた。
 まるで誰かに聞かれてはまずいような言い方を不審に感じながら、課長のあとを追いかけると、隣の会議室に入った。十人座ったら息が詰まるくらいの小さな部屋だ。その部屋の入り口付近に腰掛けた。
 課長は灰皿を探すと、自分の目の前に置いた。
「用件は何でしょう」
 課長と二人きりになるのははじめてのことだった。
「非常に申し訳ないことなんだが」
 そこまで言うと、課長は目を寄せて煙草に火を付けた。いつものレトロなマッチを使っていた。二、三度振って火を消すと、灰皿に投げ入れた。
「東京本社の人員にも余裕が出てきてねえ」
 課長の言葉の裏に潜む真意が理解できなかった。
「と言いますと?」
「四日市営業所が忙しいらしくてな。うちの部署から一人出して欲しいと言われたんだよね」
 課長が大きく息を吐き出すと、汚い煙が何メールも先まで飛んでいった。
「太田君、君行ってくれないかなあ」
「私がですか?」
 言葉が続かなかった。いってくれないか? というのは行けと言っているのと同じだ。こちら側に断る権利はない。恐らく、上にすでに俺が行くと報告しているのだろう。
 東京で生まれ育った俺が、四日市に異動だなんて、考えただけでどうかなりそうだった。「適任者が君しかいないんだよ」
 それはそうだ。大久保を異動させるわけにはいかないんだからな。
 課長の吸っている煙草を奪い取って、投げ捨ててやりたい衝動にかられた。
 俺の部署に、専務の息子ではなくて普通の新入社員が来ていたら、そいつが飛ばされて俺は助かっていたはずなのに、なんてついていないんだ。
「まあ、四日市もいいところだと思うよ。最近は空気も綺麗になったと聞くし」
「はあ」
「異動は一ヶ月後だ。それまでに引越しの準備をしておいてくれ」
 死刑を宣告された罪人のように、何度も立ち止まりながら自販機の前まで歩いた。
「マンションは買ったばかりだし、単身赴任するしかないな」
 冷えた缶コーヒーを買おうとポケットに手を入れたとき、思わず、「あれっ」と声を出した。財布がないのだ。外で昼食を食べたときにはあった。帰る途中に落とした可能性が高い。
「ついてないなあ」
 すっかり口癖になった言葉を何度も繰り返した。

 異動のことを妻にどうやって説明しようかと考えながら、駅からマンションに向かって歩いていた。時計を見ると、十時を過ぎている。
「遅くなったな」
 俺はネクタイを外し、丸めてズボンのポケットに押し込んだ。冷たい夜風が首筋から入って、汗を乾かしてくれた。
 ふと前を見ると薄暗い街灯の下で、赤い髪をした若い女性がコンクリートの壁にもたれかかっているのが見えた。灯りに寄ってきた虫を払おうともせず、じっとうつむいたままの姿勢で腕を組んだまま微動だにしない。
 俺は痴漢に間違われないように距離を開けて通り過ぎようとした。
「あなた、太田さんですよね」
 俺は後ろから矢で射抜かれたような衝撃を受けて立ち止まった。振り返って、女性の顔をまじまじと見つめた。
 同じ会社の女性かと考えたが、髪を真っ赤に染めた社員を見たことがない。
「どちら様でしょうか?」
 女性はぴんと背筋を伸ばし、口元だけの笑みを浮かべた。
「こういうものです」
 と名刺を差し出した。何だセールスかと早く立ち去りたい気持ちで受け取った。しかし、名刺に書かれた予想外の文字に目が釘付けになった。
「日本確率研究所 主任研究員 遠野鏡花」
 書いてあった通りに口に出して読んだ。その直後に、何年か前に一度だけ、確率研究所とかいう奇妙な場所に薬品を届けたことがあるのを思い出した。
 目の前の女性があのときの依頼者だったのだろう。髪は赤くなかったが、髪が長く、スタイルのよい女性だったことは覚えている。
「思い出してもらえたようですね」
「ええ、まあ。でも、薬品の注文なら明日会社のほうに電話してもらえますか?」
 遠野は軽く横に首を振った。
「薬品の注文がしたくてあなたの前に現れたわけではありません。ある発明品をあなたに試してもらいたくて来たんです」
「発明品?」
「あなたは、うちの研究所に来たときに言っていたでしょう。俺は大学受験で、第一志望の試験当日、途中で腹が痛くなって集中できなかったから不合格になった。普通の状態で受けていたら間違いなく合格していた。第二志望の行きたくもない二流の大学に行くはめになったから、こんな小さな会社で働いているんだと」
「確かに言いました。今でもそう思ってますよ」
「自分は運が悪いせいで損ばかりしている。運がいいとまではいかなくても、人並みの運があればもっと楽しい人生が送れると私に言いましたよね」
「よく覚えていますねえ。それがどうかしましたか?」
 遠野はあごを斜めに上げ、得意げに言った。
「あなたの持って生まれた『当たる確率』を上昇させる装置を開発したんです。試してみてください」
「確率を上昇。意味がよく分からないんですが」
「この世に生を受けた人間は、あらゆる事柄に対する確率というのを持って生まれてきます。例えば、百個の白い玉があって、その内の一つを黒く塗ったとします。そこから、無作為に一つ玉を取ったら、黒い玉が出る確率はいくつでしょうか?」
「百分の一だから、一パーセントですね」
「普通に考えればそうです。ですが実際は、玉を取る人が持って生まれた『当たる確率』という係数を考え合わせないと、現実の確率は求めることができません」
「人間個人の運、不運が関係してくるということですか」
「運とは少し違いますが、大体は同じことです。ですから、『当たる確率』が二倍の人は、黒玉を取る確率は二パーセント、百倍の人は百パーセントの確率になります。まあ、実際は百倍なんて人はいません。よくて、二倍が限界でしょう。福引でいい賞品をよく当てる人とか、懸賞でよく当たる人が世の中にはいるでしょう。そういう人たちは皆、生まれながらにして『当たる確率』が高いんですよ」
「もしかして、あなたの発明は、福引とか懸賞を当たりやすくしてくれる装置なんですか」
「その通りです。飲み込みが早いですね」
 たった今、天から舞い降りた天使のような笑顔を、俺は悪魔のような黒い心を持って眺めた。
 幸運を呼ぶペンダントや金運がよくなる財布と同じようなものなのだろう。いんちきにちがいない。漫画の世界じゃあるまいし、簡単に当たる確率を変えられるわけがないのだ。それでも、とりあえず装置を見せてもらうことにした。インチキを暴いて追い返してやるのも面白いと思ったからだ。
「装置を見せてもらえますか」
 遠野は「もちろんいいですよ」と言いながら、ジーパンの後ろポケットから、陸上競技などで使うストップウオッチに似たものを取り出した。
「見ての通り、試作品ですので、市販のストップウオッチを改良しただけのもです。右上のボタンで数字を、左上のボタンで桁を設定します。そして、最後に真ん中の赤いボタンを押せばセット完了で、設定した数字が、あなたの『当たる確率』の倍数になります」
 俺は受け取って、試しに数字をいじってみた。
「千倍にして競馬をやったら、万馬券でも当たりますよ」
「ほんとですか」
 遠野の自信ありげな態度に、ついつい俺も信じそうになったが、そんなうまい話があるわけない。
「あまり喜ばないところを見ると、まだ信じてもらってないようですね。では、数字を千倍に設定してみてください」
 夜風にあたり、体の冷えてきた俺は早く帰りたくて、言う通りに数字を変えた。遠野は小さな石を拾い上げた。
「これを真後ろに投げます」
 と言いながら、後ろ方角にうつむいたまま投げた。すると、石は電信柱で跳ね返った。
「痛てっ」
 石は俺の頭に命中した。
「このように、『当たる確率』を上げると、あらゆる物事の当たる確率がアップするのです」
「嘘だろ」
 俺は同じ石を拾って、真上に投げ上げると、その場から走って逃げた。
 石からかなり離れたんだ。これなら、当たらないだろう。
 しかし、俺の思いに反して、石は突然ふいた風に流されて、自分の方に向かって飛んできた。当たる寸前で避けたが、避けなかったら間違いなく命中していた。
「そんな、ばかな。『当たる確率』が本当に高くなったのか」
 信じられない気持ちで、装置を握り締めた。
「とりあえずは、だまされたと思って使ってみてください。後悔はさせませんよ。でも、あらゆる物事の『当たる確率』が上昇するということに注意してくださいね。今のように、装置で数字を高く設定すると、車にぶつかってこられたり、食べ物で食中毒を起こしたりする確率も高くなりますから、気をつけないと大けがをすることになりますよ」
「なるほど、使いすぎるのは危険てわけか」
「日常の生活では一倍に設定しておいて、当たる確率が必要なときだけ、数字を上げるようにしてくださいね」
「はあ」
 俺は装置の裏側や側面を、代わる代わる観察した。
「一週間後にやってまいりますので、装置はそのときに返してください。使用した感想も聞かせてくださいね」
「分かりました。わざわざありがとうございました」
 足早に立ち去ろうとした俺を呼び止めて遠野が言った。
「言い忘れましたが、数字は千倍以上には絶対に設定しないでください。千倍以上の数字も入力できるようになっていますが、今言ったように、思いもよらない事故に巻き込まれる確率が上がりますので、危険なんです」
 眉にしわを寄せ、真剣な表情で言った。
「分かりました。必ず千倍以内に設定して使いますよ」
 結局、インチキをあばくつもりが逆に女の思い通り装置をつかまされた俺は、数字を一にセットし、鞄にしまった。そして、何事もなかったかのような足取りで、家に向かった。冷たい風が、さっきより少し暖かく感じられた。

 散った桜の葉が風に吹かれて、何回転もしながら漂っていた。目で追うと、その内の一枚が、俺の服に吸い寄せられるようにして張り付いた。
「そうだ。陽子に頼まれていた風邪薬を買って帰らないといけなかった」
 妻は体調が悪いらしく、会社の帰りに薬局に寄って薬を買ってきて欲しいと携帯のメールに送ってきていた。
 俺は駅前のドラッグストアで、薬を選んでレジを済ませた。
「本日はセール期間中です。千円以上お買い上げの方にくじを引いてもらっていますので、箱の中から一枚選んでください」
 店員の女性は、赤い三角くじの入った箱を差し出した。
「くじね」
 俺は手を伸ばそうとして、はたと動きを止めた。
 そうだ。もらった装置を使ってみるか。
 効果を確かめるには絶好の機会だった。
「ちょっと待ってください」
 俺は店員に見られないように後ろを向いて、確率の設定を千倍にした。
「これでよしと」
 適当に一枚選んで店員に渡した。彼女は丁寧にくじを破った。その瞬間、彼女の眉がぴくりと動いた。
「おめでとうございます。一等です」
 細い目をさらに細くして、微笑んだ。
「い、一等?」
 俺は手に汗が滲むのを感じていた。
 もしかしたら、いや、間違いなく装置の効果は本物だ。今までくじで当たりを引いたことがなかった俺が、一等を当てるなんてことは、当たる確率が上昇したからに違いない。「当店で使える商品券一万円分です。お使いください」
 俺は無造作に受け取り、店を出ると、ポケットの中のネクタイで手の汗を拭いた。
 家に帰ると、妻が寝間着姿で俺を出迎えた。居間からテレビの音が聞こえた。娘がアニメを見ているようだった。
「薬を買って、くじを引いたら一等が当たったよ。商品券をもらったんだ」
 妻は薬を取り出す手を止め、二、三度目をしばたかせた。
「あら、ほんと。すごいじゃない。いつもはずればかりなのに」
「まあな、俺だってたまには当てるさ」
「私たちにもだんだん運が向いてきたのかもしれないわね」
 熱っぽい頬を赤らめて無邪気に笑う妻を見てたら、四日市に転勤になったことを切り出すことができなかった。布団に入り、妻の寝息を聞きながら、明日こそは異動の話をしようと心に誓って目を閉じた。

 日曜日、俺は後輩の大久保を誘って競馬場へと出かけた。大きなレースはなかったが、俺はとにかく装置を使って、競馬に勝てるかどうか確かめたかった。
「今日は天気もいいし、気候もよくなってきたから、いつもより込んでますね」
 大久保はそう言いながら、ブランドもののキーケースを指先で何度も回した。
 彼の言う通り、観客席は満員に近かった。
 俺は毎年、春先は何かいいことがありそうな予感がして毎週のように競馬場に足を運んでは、大損していたことを思い出し、苦笑いした。
「先週は大儲けしたらしいけれど、今日も大金をつぎ込むのか?」
「ぼちぼち、かけていきますよ」
 笑顔の裏に、今日も勝ってやろうという意気込みが感じられた。
 大久保のどことなく嫌悪感を抱かせる態度に腹を立てた俺は、この男を使って、四日市に異動になった腹いせをしてやろうと考えた。
「連勝複式しか買わないことにしないか。さらに、お互い別な番号で買う。二人とも同じ組み合わせを買うのはなしだ」
 大久保は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに納得して、
「どっちが当てるか勝負ってことですね。いいですよ。あっ、そうだ。最後にどっちが多く稼ぐかで、晩ご飯をかけませんか。負けた方が、買った方に食べたいものをご馳走するんです」
 思い通りの展開で、笑いをこらえるのが辛かった。
「そうしよう。負けてから、儲けたんだからおごってくださいというのはなしだぞ」
 大久保は当然といった様子で頷いた。
 レース前にお互い買う番号を紙に書いて見せ合い、番号が重なった場合は、じゃんけんで勝った方が買えることにした。しかし、装置を使う俺は、どんな番号でも当てられるから、彼の選ばないような馬を選んだ。
「一番と二番。ほんとにその組み合わせだけでいいんですか?」
「もちろん。一番、二番の一点買いだよ。君は紙に書いてある五点すべて買えばいい」
 いくつ買おうと、当たるのは俺の番号だけだ。
「後で後悔しても知りませんよ」
 後悔するのは君だよ。と心で囁きながら、俺は無言で頷いた。
 スピーカーから鼓膜が破れるような大きな音でファンファーレが鳴り、一瞬の沈黙の後、ゲートが開き、一斉に馬が飛び出した。
 俺はそれを見て、当たる確率を上げる装置の数値を千倍にした。
 競馬は全組み合わせを買ったとしても、五十程度しかない。少々勝つ確率の低い馬を選んでも、当たる確率を千倍にすれば間違いなく当たるはずだ。
 大久保の驚く顔を見てやろうと、馬と彼の顔、交互に視線を送った。最終コーナーを曲がったところで、俺の買った一番と二番が先頭の馬をとらえた。
「よしっ、そのまま行け」
 大久保はすでに自分の敗北を悟ったのか、信じられないといった表情で馬券を握り潰した。
 一番、二番は先頭に立って、並んだままゴールした。
「ほんとに一、二が来た。ばかな」
 大久保は丸めた馬券を投げ捨てた。
 俺は彼の唇を微かに震わせる横顔を見て、ジェットコースターで落ちて行くときのような、すかっとした気分になった。
 十万円買っていた大久保は一円も手にできず、五千円買っていた俺は、十五万を手にしたのだ。
 頭に何かが当たったのを感じて振り返った。足下を見ると丸められた競馬新聞が落ちていた。
「誰かが投げた新聞が当たったのか」
 慌てて、装置の数値を一にした。
「新聞でよかった」
 装置を使うときはすぐに数字を一に戻すように気をつけないといけない。勝ったことに浮かれて、他人の投げた石で頭をかち割ったんでは話にならない。
「太田先輩、うまく当てましたね。でも、次は僕が当てますよ」
 まだ少しは余裕があるようだった。その余裕もすぐに消えることを知っている俺は、心の中で彼のことを哀れんだ。
 次のレースも、その次のレースも、俺はひたすら一番、二番を買い続け、当たり続けた。儲けはゆうに百万を越えていた。
 大久保はレースが終わるたびに年老いていくように背中が丸まっていった。
「先輩、今日はもう勘弁してください。馬券を買うお金がありません」
「帰ってもいいけど、晩ご飯は約束通り、おごってもらうよ。カードで払ったらいいだろう」
 大久保は唇を噛みしめたまま、許しをこうような目を俺に向けた。
「さあ、行こうか」
 彼の肩を押すと、ゆっくりと歩き始めた。

 俺は大久保を連れて寿司屋に行った。一度行ってみたかった高級店だ。回っていない寿司を食する行為は、既製品ではなくオーダーメイドの背広を着るのと同じような特別な優越感を与えてくれた。
 お金が欲しけりゃ、競馬場にいけばいい。俺はもう、お金に困ることはない。
 確率を上げることのできる装置を使用すれば、いつでも大儲けできることを思うと笑いが止まらなかった。ただでさえおいしい寿司が、よりいっそうおいしく感じられた。
 この頃には、すっかり装置の効果を疑う心はなくなっていた。手を合わせて貸してくれた女に感謝した。
 食事の最中、終始不機嫌そうだった大久保に笑顔で別れを告げると、急いで駅前のコンビニに向かった。
「あった、あった。これで課長の慌てふためく姿が見られる」
 赤や黄色といった様々な種類の入った風船のセットを手にとって、明日工藤課長の身に起こる不幸を想像してほくそ笑んだ。
 俺は装置の効果が本物であることを確信し、会社を辞める決心をしていた。お金に困ることがなければ、会社で働く意味などない。
 会社など、お世話になりましたと課長に辞表を提出すれば簡単に辞められるが、それでは、俺の腹の中に潜む、黒い鬼たちが満足してくれない。これまで散々俺をこき使い、挙げ句の果てには遠い場所に転勤させた課長に、仕返しをしてやるつもりだった。
 俺は車を走らせ、人気のない場所にとめた。辺りに誰もいないことを確認すると、手早く風船五十個ほどを一度膨らませ、空気を抜いてたるませた。
 窓を全開にして、トランクからペットボトルが一杯につまった段ボールを取り出した。もちろん、中身は飲み物ではなく、横領した危険物の薬品だ。
 俺は今一度、周りを見回し、ペットボトルを一本手に取った。微かだった手の震えが、しだいに大きくなってきた。狭い車の中で、自分の呼吸音だけが一定のリズムを刻んでいる。窓を吹き抜ける、冷たい風を大きく吸い込むと、ボトルの蓋を開けた。途端に、気を失いそうになるくらいの強烈な刺激臭が、脳を直撃した。慌てて窓に鼻を向けた。
「臭い。やっぱり、薬品は車の中で使うものじゃないな」
 しかし、今回ばかりは弱音を吐くわけにはいかない。俺はなるべく呼吸を止めながら、風船に薬品を入れ、丁寧に口を縛った。
 一つに二百ミリリットル程度入れただろうか。握って投げるには丁度いい大きさになった。
「まあ、五十個も作れば十分だろう」
 根気のいる作業だったが、仕事では発揮したことがない強靱な集中力で、淡々と作業をこなした。全てを作り終えた頃には、眠気を誘う時間になっていた。雲のない空に月が光っていた。
 あまり遅くなると妻が心配するかもしれないなと思いながらも、課長の家に車を走らせた。住所は分かっていたから、カーナビの指示に従った。
 森を切り開いて作った住宅地の一画に課長の家はあった。青色の瓦が鮮やかな、木造二階建て。隣の家と同じ造りで、何の個性もない。
「この家で寝られるのも、今日が最後だぜ。課長」
 そう呟くと、溶剤入りの風船をたっぷりと積めたリュックを背負い、家の裏に回り込んだ。見上げるとコンクリートの壁の先に屋根の縁が見える。
 俺はリュックを地面に置いて、風船を一つ手に取った。奇妙に軟らかくて冷たい感触が、俺をためらわせ、風船を持ったまましばらく立ちすくんだ。
 ほんとにやるのか。どうする。
 心の中で自問自答を繰り返す。遠くで踏切の警告音が聞こえた。それを合図にするように、俺は接着剤を風船に塗って、屋根に向かって投げた。
 勢いがよすぎたせいで、風船は転がって落ちてきた。
「やばい」
 雨土井で大きく跳ねたのを、目で追って飛びついた。割れないように微妙に力を入れて掴んだ。
「危ない。こんな家の前で薬品をこぼしたら、匂いで人が集まってしまう」
 自分のやっていることの大胆さを改めて認識して、急に鼓動が速くなった。
 屋根に乗せるのは難しいか。だけど、庭先に置いたら気が付かれるだろうし、日が当たらないかもしれない。やはり、屋根に乗せて、太陽の熱で発火させるしかない。
 俺は何にでもすがりたい気分で、装置の数字を千に合わせた。風船を屋根に乗せたいだけだから、当たる確率を上げてもどうしようもないなと思いながらも、何もせずにはいられなかった。
 大きく深呼吸して、ゆっくりと腕を天に上げ、バスケットのフリースローをするようにやさしく投げた。風船は屋根へと消えた。
 屋根を転がる様子を想像しながら、落ちてくることを予想して身構える。後ろの草むらで鳴く虫の声が、頬を流れる汗を震わせた。
 風船が落ちてくる様子はない。屋根の向こうから迫ってくるのは闇だけだ。
「やった。戻ってこない。なんだか分からないが、どこかに引っかかったんだ。うまく接着剤で屋根に引っ付いたのかもしれない」
 俺は同じ要領で、接着剤を付けた風船を一つ一つ慎重に投げた。額から湧き出る汗が目にはいるのも気にならないほどに熱中した。一個投げるごとに課長の顔が頭に浮かんで、疲れてもやる気を失わなかった。
 明日の天気予報は晴れ。風船は太陽の光と屋根からの輻射熱で熱せられ、中の溶剤は発火する。そうなれば、一気に燃え広がり、家は跡形もなく燃え尽きる。
 俺は心に宿った悪魔の心に動かされ、ためらいがなくなっていた。
 全てを投げ終えたときには、午前零時を回っていた。予想以上に遅くなり、妻に言ういい訳を考えながら車へと走った。
 車に戻ったときにはじめて蚊に何カ所も刺されていたことに気が付き、悶えるように刺された箇所を指で掻いた。そして、蒸し暑さと緊張で枯れ果てた喉に唾を流し込み、祈った。
「明日、晴れますように」

 電車のシートに腰掛け、スポーツ新聞を広げる。人はまばらだ。新聞を四つ折りにする必要はない。会社に行くのもこれで最後かと思うと、少しは胸につかえるものがあった。いい思い出は少ないにせよ、何年も働いてきた職場に未練がないわけではないのだ。
 もう二度と歩くことはないであろう道をゆっくりと歩いて会社に向かうと、いつもは気にもとめていない小さな看板や店が不思議と目についた。
「ばかやろう。今何時だと思ってるんだ」
 出社すると、待ちかまえていたかのように工藤課長の声が飛んできた。
「十三時です」
「何が十三時ですだ。遅刻しておいてよくも平然としていられるな。お前の担当している会社からにもう何件も注文が入ってるんだぞ。遅れた理由を説明しろ」
 課長の機嫌が悪いことは明らかだった。イライラしているときは、不必要に鼻を何度も掻く癖がでる。今日の俺は冷静に課長を観察する余裕があった。
「理由なんてありませんよ。わざと遅れてきたんですから」
 俺はタイミングを見計らって、封筒を課長の目の前に叩きつけた。意外に大きな音が出た。音に驚いて、社員たちが全員こっちを見る。ざわついていた部屋は一瞬にして静まりかえった。
 じっと俺を睨んでいた課長は、黙って目線を封筒に落とした。
「辞表だと。どういうつもりだ」
「今日限りで、会社を辞めさせていただきます」
「それは分かっているよ。俺はどうして辞めるんだと訊いているんだ。ああ、そうか。異動になったからだな。四日市に行きたくないから辞めるんだろ」
 課長は弱者を哀れむような目を俺に向けた。
「違います。辞めたいから辞める。ただそれだけです」
「いきなり会社を辞めてどうやって収入を得ていくつもりだ。マンションのローンだって残っているのだろう」
「課長には関係ないことです」
 俺はあくまで機械のような口調で話し、感情を表に出さなかった。
「もういい。退社の手続きは俺がやっておく。とっとと出ていけ。お前の変わりなんぞいくらでもいる。明日になってやっぱり働きたいと言いに来ても遅いぞ。それだけは肝に銘じておけ」
 俺は何も答えず、口元だけの笑いを浮かべた。
「ふん。気持ちの悪い奴だ」
 背中で課長の呟きを聞きながら、俺は自分の席に座ると、私物をまとめはじめた。
「太田さん。本気で辞めるつもりですか」
 隣の大久保が小声で話しかけてきた。
「ああ、そうだ。もう決めたことだからな」
「よした方がいいですって。きっと後で後悔しますよ」
 課長も大久保も常識人だから、俺が慣れた会社を辞めて、この先どう生きていくのか考えられないのだろう。不況の世の中だからこそ、今ある仕事を続けるべきだと思っているに違いない。だから、しきりに後悔という言葉を口にする。彼らの考えは間違ってはいないと思う。しかし、それはあくまで一般論。標準的な思考では考えられない行為をしようとしている俺には当てはまらない。
「後悔することになってもいいんだ。思い切りやりたいことに挑戦してみて、だめだったら、それはそれで納得できるはずだよ」
「太田さん、あなたいったい何をしようと……」
 電話が掛かってきて、大久保が取った。
「もしもし、栗沢科学です。……、はい。おつなぎ致しますので、少々お待ちください」
 大久保は受話器の口を押さえて課長に言った。
「課長。ご家族の方から、内線三番に電話です」
 家族と聞いて、俺の心臓はジャンプした。窓の外を見ると、黄色い太陽が照りつけている。向かいのビルに反射する光を浴びるだけでも、日射病になりそうだった。
 課長はありがとうと言って、相変わらず不機嫌そうな眼差しを天井に向けながら受話器を握った。俺は心臓の鼓動を誰にも聞かせないように胸を押さえながら、課長の様子をうかがった。
「もしもし、ああ、俺だけど、どうした」
 しばらくして、課長の顔からは血の気がさっとなくなった。さっきまでの怒りに震えていた赤ら顔は消え去り、棺桶に入れられた老人のように蒼白な表情だった。
 俺は課長の反応を見た瞬間、計画の成功を確信した。
「何だって、嘘だろ」
 大声を出し、改めて受話器を握り直すと、耳に押し当てた。
 俺のことを散々いびり続けていた課長の慌てふためく姿は、俺に万馬券が当たったとき以上の喜びと興奮を与えてくれた。
「これでもう、何も思い残すことはない」
 部屋を出るとき、遠くの方で、「家が、俺の家が」と何度も呟く課長の声が聞こえた。つまんだらつぶれそうな虫の鳴き声のようだった。
 俺の苦しみはもっと大きかったんかったんだ。家を燃やす程度で許してやった俺を寛大だと思え。
 そう心に浮かべると、会社を後にした。一歩足を進めるたびに、これまでの人生で一度も味わったことのない大きな充実感がこみ上げ、今の俺なら何をやってもうまくいくと確信していた。

 装置を借りて七日がたち。装置を取り返すために、遠野鏡花が現れた。そのとき、俺は公園のベンチでコンビニで買ったサンドイッチをほおばっていた。
「会社、辞めたそうじゃないですか。どういった気持ちの変化があったんです」
「前から辞めようと思っていただけです。特に何が変わったということはありませんよ」
 俺は遠くを見つめながら、ペットボトルのお茶を喉に流し込んだ。
「そうですか。奥さんには相談したんですか」
「してませんよ。だからこうやって、毎日会社に行くふりをして、ぶらぶらと街をうろついているんですよ。妻にはいつか気付かれるなと思いながらも、言い出せないんです」
 ふと目をやった遠くの地面は、太陽に熱せられて歪んで見えた。
「ところで……」
「ああ、『確率変換装置』のことで来たんでしょ。持ってますよ。約束通り、お返しします」
 あっさりと返したのが意外だったのか、遠野は困惑した表情で、ストップウォッチに似た装置を受け取った。
「使ってみてどうでした。想像していた以上に効果があって驚いたんじゃないんですか」
「確かに、効果はありましたよ。くじ引きでは一等を当てることができたし、競馬では買った馬券が全て当たりました。まさに、一生の運を使い果たした気分ですよ」
「それほどに活用されたのなら、装置を手放すのは惜しいと感じてはいないのですか」
「当たると分かっている馬券を買っても面白くも何ともありませんよ。どういう結果になるか分からない。だから競馬は楽しいんです。人生だって、次にどんな出来事が起こるのか予想できないからこそ、がんばれるし、楽しめる。だから、そんな人生をつまらなくする装置はいりません。確率を上げて賭けに勝つなんていうのは、大学に裏口入学するようで気分悪いですから」
 俺は遠野から装置を奪うと、地面に叩きつけ、足で踏みつけた。プラスチックの部分が割れ、中の機械が丸見えになった。さらに踏み続けると、装置はばらばらに砕けながら、土に埋まっていった。
「何するんです。大切な装置なのに」
 止めようとする遠野を払いのけながら俺は言った。
「装置を使って確率を上げても、幸せになれる人間はいませんよ」
 遠野は何かを言おうと口を開いたが、すぐに閉じて、じっと土に埋まった装置を見つめた。

 目の前で装置を壊されるのを見て、自分の子供が殺されたような心境だっただろう遠野の顔を思い浮かべて、双眼鏡を持つ手に力が入った。
 もう、すぐ後には矢は放たれる。俺の運命を決める矢が。
 
 静寂の空間の中で、自分の心臓の音だけが響いているようで、余計に緊張感を高ぶらせた。俺は改めて確率を高めてくれる装置を汗ばんだ手で握りしめた。
 遠野が現れた日に俺が踏みつけて壊した装置は偽物だった。装置が市販のストップウォッチを改造したものだと知った俺は、同じ型のそれを買って、彼女の目の前で壊したのだ。中身の機械部品は違うだろうが、粉々に踏みつぶしてしまえば、気が付かれないだろうと考えた。

 あれから数日たつが、遠野から壊した装置は偽物だったのだろうと文句を言ってくることもないから、俺の考えは間違っていなかったようだ。装置は俺のものになったのだ。一生、独り占めできる。
 遠野に話したように、装置を使って競馬に勝っても宝くじを当てても、喜びは半減するだろう。しかし、当てる喜びよりも重要なのは、お金を手にすることだ。金さえあれば、当たるか当たらないかというようなちっぽけなスリルを楽しまなくても、人生を謳歌できる。

 けたたましい音楽とともに八本の矢が同時に放たれた。見事、ルーレットに全ての矢が突き刺さり、ゆっくりと回転が緩やかになっていく。早く止まれと祈っても、なかなか番号を確認できない。
 もどかしさと緊張がピークに達したとき、ルーレットの回転がやんだ。
 俺は思わず、番号を早口で読み上げた。
「三十七組 八一九二三七」
 まさしく、何度も頭の中で繰り返した番号だった。俺の持っている宝くじの番号だった。
「間違いない。同じ番号だ。俺は二億円を手にしたんだ。やった。神様ありがとう」
 俺は喜びを隠さず、両手を広げて立ち上がった。しかし、次の瞬間、目の前に小さな虫が飛んできたかと思ったら、目の前が真っ暗になった。すべての思考は停止し、心は深い闇へと沈んでいった。

 太田は、しぼんだ風船のように崩れ落ちた。しっかりと握られていた宝くじも彼の手を放れ、床に舞い落ちた。閉じられた目は二度と開くことはない。人々は会場出口へと急ぐ。太田の近くを歩く人も、彼のことを助け起こそうとはしなかった。誰もが皆、出口しか見ていなかった。
 彼の隣に座っていた女性が、大きくため息をついてから立ち上がった。
「あなたの言った通り、確率を上げる装置を使って幸せになれる人はいないのかもしれないわね」
 床に落ちた宝くじを拾い上げて、小さく笑った。
「二億円が当たった宝くじはもらっておくわね。あなたにはもう必要ないだろうから」
 それだけ言うと、冷たくなりかけた太田の肩を軽く叩き、振り返ることなく会場を出ていった。しなやかなその動作はあまりに自然で、気にとめる者は誰もいなかった。
 太田の死体が発見されたのは、会場の清掃が始まった三時間後だった。そして、彼の死因について、宇宙から飛んできた小さな隕石が、拳銃の弾のごとく抽選会場の屋根、そして彼のヘルメットを突き破り、眉間に命中したためであることが明らかになったのは、一週間後のことだった。
 
 ある統計学者の話によると、人間が隕石に当たって死ぬというのは、十五億分の一の確率らしい。