体温計を看護婦に返すと、武史は狭いベッドでうずくまった。酸素吸入用のチューブがうざったくて何度も首を動かした。視線の先にはカーテンの閉じられた窓があり、その隙間から緑の葉だけが残る桜の木が見える。
「範子……」
そう呟くと武史の頭の中には、三日前の出来事が鮮明に蘇った。
会社帰りの電車の中で急に胸が苦しくなった武史は、最初は疲れているのかと思っただけだった。入社して三年目の春。そろそろ疲れも溜まってきているのだろう。しかし、しだいに背中の筋肉が剥がれ落ちたような激痛を感じはじめた。武史は疲れているだけにしては重い症状に、自分の体の中で何が起こっているのか分からず不安になった。
次の日になっても痛みは収まらなかった。それどころか、さらに激しい痛みを感じた武史は会社を休んで病院に行った。医者から告げられた病名は気胸。肺の背嚢が破れて空気が漏れる病気だ。幸い症状は軽く、入院して安静にしていれば、二、三日入院して、あとは自宅療養すれば治るらしかった。重病じゃなくてよかった。いい休暇になると武史は前向きに考えて、医者の言うとおりに入院した。
本もテレビもないベッドの上は暇だった。武史は安静にしているように言われていたが、時々はゆっくり歩くようにも言われていたので、ふらりと休憩所に行った。
ドアを開けて中を覗くと、五、六人が座れるような狭い部屋に、テレビが一台と本棚が置かれていた。本棚には古い文庫本が押し込められていた。武史は入ることをためらった。というのは、一人の若い女性がテレビの前に座っていたからだ。もし自分が入っていったら、せっかく一人でくつろいでいる彼女のじゃまになるのではないかと思ったのだ。
背を向けて座る女性は、風が吹いたら飛んでいきそうな、細い繊細な髪が肩まで伸びている。後ろ姿を見ただけで、若い女性だということはすぐに分かった。
彼女は人の気配を感じて振り返った。武史はビデオの静止画のように動きが止まった。優しさを含んだ大きな目と、奥ゆかしさを表す小さな鼻。白い肌に、赤い口紅が浮いたように見える。武史の理想としていた女性の姿だった。
武史は軽く会釈するのが精一杯だった。女性ははにかむような笑顔を見せて、慌ててパジャマの一番上のボタンをはめた。そのしなやかな動作を見て、武史は激しく胸が鼓動するのを感じた。肺の痛みも打ち消されていた。見舞いの人がパジャマ姿で休憩所にいるわけもなく、武史は彼女が自分と同じ入院患者だと知った。すると、なぜか親近感を感じて、話しかける勇気が生まれた。
「温泉。好きなんですか?」
テレビで温泉を紹介する番組をやっているのを見て言った。
彼女は戸惑った表情で、ちらりと武史を見ただけで何も答えなかった。甘い香水の香りがした。
「僕は好きなんです。自分の体温より一度くらい高いお湯にゆっくりと浸かる。最高に気持ちいいですよ」
彼女の目はテレビに向いたままだった。そして、次の温泉の紹介が始まると、彼女はため息をついて目を伏せた。もう見る気はないといった感じだった。武史は彼女の辛そうな様子が気になった。
「僕、何か気にさわるようなことを言いました?」
彼女は弱々しく顔を横に振った。
「違うの。海……。海が見たいの」
それだけ言って、彼女は時計を見た。三時三十分。彼女は立ち上がった。震える手を隠すように、背を向ける。
「海?」
さっき彼女が熱中して眺めていた温泉の向こうには確かに海が映っていた。温泉の効能をつたえる女性レポーターの後ろに広がっていた、壮大な海の景色。それを思い浮かべた。彼女は部屋を出ていこうとしていた。「待って」
振り返る彼女。
「時々ここに来るの?」
「毎日この時間に……」
ビブラートのかかった震える声が魅力的だった。彼女ははにかんだ笑顔と胸を熱くさせる甘い香りを残していなくなった。武史はしばらく立ち上がったまま、彼女の出ていったドアを見つめていた。
武史が部屋を出ると、看護婦たちがあわただしく走り回っていた。武史はぶつかりそうになるのを避けながら、病室に向かった。長い廊下の奥の部屋に何人もの看護婦が消えていった。白衣姿の先生も階段をかけ上がってきた。看護婦や先生が走るときは、患者の様態が急変したときに限る。
「何かあったのか?」
独り言のように呟いた。
同部屋の佐藤という糖尿で入院中の男が、その騒がしい方から歩いてきた。
「おい、兄ちゃん。大変だぞ」
「どうしたんです?」
佐藤は周りを見回してから、小声で言った。
「殺人らしい」
武史は一瞬言葉の意味が理解できなかった。間があってから、
「殺人?」と大声を出した。
「静かに。聞かれるとまずい」
「佐藤さんはどうしてそれを?」
「洗面所でうがいをしていたら、前の部屋で話合う先生の声が聞こえてきたんだよ。話によると、毒殺らしい」
「病院で殺人だなんて信じられない。自殺じゃないんですか? 重い病気で将来を悲観したとか、ありがちでしょう」
「死んだ男は、食中毒で入院したんだ。体が悪い訳じゃない。それに、明日には退院する予定だったんだ。自殺する必要なんてないだろ」
「それじゃあ、何かの事故ってこともあるでしょう。病院なんだから、看護婦や先生のミスとか」
今まで生きてきて、殺人が周りで起きたことはなく、心のどこかでテレビの中だけのできことだと思っていた武史は、殺人が現実に行われている事実を理解したくなかった。
「紙パックのジュースの中に毒が入っていたらしい。家族の話によると、自分たちで買ったものではないらしいから、誰かにもらったんだよ」
「もらった飲みものに毒か」
「君もむらみやたらに人から食べ物をもらわないように気をつけた方がいい」
「この病院の中に、殺人犯がいるのか……」
病気を治しに来た病院の中で殺されるなんて自分は嫌だと鋭い視線を、廊下の奥に向けた。急に痛みだした肺を押さえながら、ベッドで横になった。
「昨日の事件は驚いたね。病院にいるの怖くならなかった?」
軽く挨拶したあとに武史はそう切り出した。昨日と同じ時間、三時に休憩室で彼女を待つと、すぐに現れた。
「ちょっと、怖いけど私は大丈夫。知らない人からものをもらったりしないから。近藤君は病院にいたくない?」
自分名前を言われて、武史はびくりとした。
「どうして、僕の名前を?」
彼女は照れたように、頬を赤らめた。
「看護婦さんに聞いたの」
「そうだったんだ」
武史は大きく息を吸い込んで続けた。
「実は、僕も聞いたんだ。小林範子さん」
テレビの釣り番組では、川で鮎を釣り上げる場面が映し出されていた。魚を捕らえた竿が、折れそうなくらいにしなっている。
「僕、明日退院するんだけれど、今度は小林さんのお見舞いに来てもいいかな?」
範子は手で口を押さえながら、軽く笑った。
「そのセリフ、何度練習したの?」
「えっ」武史の額に汗が噴き出す。
「紙に書いてあるセリフを棒読みしたみたいだったわ」
「ごめん、君に会うと緊張して話せなくなるから、この言葉だけは練習したんだ」
昨日とは別人のような範子の明るい態度に、武史はしだいに緊張が緩んできた。
「練習不足ね。もう一回言ってみて」
武史は咳払いした。
「明日退院するんだけれど、今度は小林さんのお見舞いに来てもいいかな?」
範子はあごに手を置いて、渋い顔をした。
「まあ、合格かな。でも、お見舞いに来る必要はないわ」
「どうして? 僕の家はここから近いから毎日だって来られるのに」
「だって私は、今日退院するのだもの」
ぱっと範子の表情が明るくなった。つられて、武史も頬が緩んだ。
「そうだ。海が見たいって言ってたよね。明日、海を見に行こうよ。僕、車持ってるから連れて行ってあげるよ」
武史と範子は待ち合わせ場所を決めて別れた。武史の肺にできた穴はすでにふさがっていた。しかし、肺がしぼんだときに出た体液が神経痛のように背中や脇の筋肉に痛みを走らせた。彼女と出会って二日、痛みを感じたときに思い浮かべるのはいつも彼女の姿だった。この先も彼女と一緒なら、どんな辛いことも乗り越えていける。武史はそう信じた。
彼女を乗せて車を走らせること一時間。海が見えた。窓を開けると、塩辛い潮の香りがしてくる。
「ほら、見てごらん。木の隙間から海が見えるよ」
範子は窓から顔を出して、海を眺めた。細い髪がなびいて、彼女の顔を覆った。
「そんなに顔を出したら危ないよ」
そのまま車の外に落ちていきそうだった範子を引き戻した。
「海岸を歩きたい」
海に視線を向けたまま範子が言った。僕は黙って、海岸沿いの道路に車をとめた。
海辺は風邪が強く、人影はなかった。武史と範子は波打ち際へとゆっくりと歩いた。範子は靴に砂が入るのを嫌って、素足で走った。スカートが風に舞う。武史には範子の姿が妖精のように見えた。
「待ってよ」
武史は追いかけた。走り出すと同時に背中に痛みを感じた。まだ完治したわけではないことは自分でよく分かっていたが、範子を心配させたくなかった武史は笑顔を崩さなかった。
範子は足に波がかかるところまで行くと、振り返った。
「来て、気持ちいいわよ」
武史も靴を脱いで範子の隣まで行った。やさしく波が打ち寄せる。地平線の真上に輝く夕日の光が海を照らして、海の中に黄金がいくつも浮かんで見えた。
範子は子供のようにはしゃぎ、武史はそれをやさしく見守った。
「今日はありがとう。いい思い出ができたわ」
砂浜に腰を下ろすと範子が言った。
「汗かいたね」範子の額が光った。
範子は手さげ鞄から紙パックのジュースを取り出して武史に渡すと、自分も一つ出して、ストローを刺して口を付けた。武史は一口飲んでから言った。
「こうして隣に座っていると、君とはもう何年も一緒にいるような気持ちになるよ」
「それって、愛の告白?」
恥ずかしがって、範子はおどけた。しかし、武史の真剣な表情を見て、顔を引き締めた。
「君となら、この先、どんな辛いことがあってもくじけないでがんばっていける気がする。僕と結婚してくれないか?」
範子は予想していなかった突然のプロポーズの言葉に、どう答えていいか分からず、ただ黙った。
「本気で君のことが好きなんだ」
しばらくの間、波の音だけが二人の耳に届いた。
「ねえ、今のプロポーズの言葉何回練習したの?」
「また棒読みだった?」
「ちょっとね。でも、気持ちは伝わった」
「じゃあ……」
範子は首を横に振る。
「私たち知り合って、まだ三日目よ。あなたは私のことを何も分かってないし、私もあなたのことを知らない。結婚なんて考えられないわ」
「結婚してから、お互い理解し合っていったっていいじゃないか。そういう付き合い方だってあるさ」
範子は目を細め、地平線の向こうを見つめた。赤く染まった雲の中に、鳥の群が消えていった。
「やっぱり、あなたは私のことを何も分かっていない。私はあなたが思っているほど、美しくもなければやさしくもない。本当は醜くて、卑しくて、非情な女なの」
「そんなの嘘だ。海を見て、子供のようにはしゃいだ君が、悪い人間のはずがない」
「あなたは運が悪かったわね。私なんかと出会うなんて」
範子は武史の言葉を無視して話を続けた。
「僕は運が悪くなんかない。君と出会えて、むしろ幸運だったんだ。君は自分が思っているほど、悪い人間じゃないよ。もっと自分のいいところを……」
「うるさい」
範子の叫び声に、武史は息を詰まらせた。
「黙っていようと思っていたけれど、あんたがあんまりお人好しでかわいそうだから、本当のことを言うわ。退院したなんて嘘、私は退院してないの。まだ入院患者よ」
「嘘だろ? 昨日退院だって言ったじゃないか」
「あなたをだましたのよ。私はウィルスに対する抵抗力が極端に低くなる病気なの。だから、一生病院から外に出ることは出来ない」
その言葉を聞いて、武史は範子の手を引っ張った。
「早く帰ろう。外にいたらウィルス性の病気になってしまうんだろ。今ならまだ間に合う。きっと両親も心配しているよ」
「五歳で発病してから、もう二十年近く、病院の中。最近じゃあ、親もお見舞いに来てくれなくなった。一人ぼっちなのよ。誰も心配なんかしてないわ」
「僕は君の体が心配なんだ。さあ、早く」
「だめ、帰れない。あなたの病気は寝てるだけで治ったかもしれないけれど、私の病気は一生治らないの。毎日毎日、同じ治療を繰り返して、命を長引かせて無駄に生きるだけ」
「生きてるだけでいいじゃないか。生きてさえいれば、楽しいこともある」
つまらない言葉しかかけてやれない自分に、武史は苛立った。
「私には耐えられないの。周りの人たちに、早く死んでしまえという目で見られるのが」
「……」
「それに、病院に行ったら私、警察につかまるもの」
範子の目に涙が浮かんだ。
「昨日、毒を飲んで亡くなった人がいたでしょ? あれ私が犯人なの」
武史は腰が抜けたように、地べたに座った。
「そ、そんな。どうして?」
「私は、いてもいなくてもどうでもいい存在。病気が長引くに連れて、誰にも相手にされなくなって、邪魔もの扱いよ。誰にも必要とされないのに生きるってことに耐えられなくなったの。だから、死のうと思った。でも、一人で死ぬのは嫌だった。一人で死ぬなんて寂しいもの。だから、あの人に毒を入れたジュースをあげたの」
「僕が君と初めてあったとき、すでに君は殺人を?」
「そうよ。私は人を殺し……」
範子は言葉の途中で咳き込んだ。口を押さえる手の隙間から、血が滴り落ちた。落ちた血は砂に染み込まず、どす黒いしみを作った。
武史は範子の傍らに横たわったジュースのパックに視線を送った。
「さっきのジュースに毒がはいっていたのか」
武史は範子の肩を抱えた。
「しっかりしろ。今救急車を呼んでやる」
範子は携帯を取り出す武史の手を止めた。
「もういいの。私は最初から死ぬつもりだったから」
武史は崩れ落ちた範子の体を胸の中で支えた。その瞬間、背中に激痛を感じた。胸の辺りで紙が破れるような音がする。また、肺が破れたのを感じた。しかし、武史には痛みを感じる余裕がなかった。
「安心して、あなたのジュースには毒は入っていないわ」
発する言葉もなく、小刻みに痙攣する範子の体を支えながら、武史は唇を震わせた。
「あと一日早くあなたと出会っていたら、私のような人間でも幸せになれていたのかなあ?」
「ああ」
武史の頬を伝わって落ちる涙が、範子の頬に落ちた。
「最期に海が見れてよかった。生まれて始めてだったの。海を見たのは」
範子は残った力を降り絞って砂を握り締めた。指の間から砂が落ちきると、それを合図にするように範子は目を閉じ、全身の力を失った。
武史は範子の体を力一杯抱きしめ、胸の苦しさに耐えながら、何時間も鳴き続けた。
再び入院することになった武史は、病室の窓から、散り果てた桜を見つめていた。
「近藤さん。検温の時間ですよ。体温を測ってください」
武史は体温計を受け取りながら言った。
「ねえ、看護婦さん。小林範子さんってどういう子だったの?」
看護婦はしばらく天井に視線を向けてから口を開いた。
「あまり知らないわ。長い間入院していたみたいだけれど、おとなしい子でほとんど話をしたことがなかったから」
「そうですか。ありがとう」
あと一ヶ月もしたら、彼女のことを何人が覚えているのだろうか? でも、武史は彼女のことを忘れることはないと確信していた。桜が散っても、その花の美しさを忘れないように、武史の頭の中には、彼女の姿が焼きついて離れなかった。
END
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